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藤花の舞姫  作者: yuzuki
10/12

闘技場の恐竜退治4

 闘技場(コロッセオ)の外周を低空で飛行する黒炎竜(ディアボロス)

 その姿を遠目に見ながらルールーは話す。

「何秒、必要だ?」

 少し離れた位置で、同じく黒竜を眺めながらイヴァンは答える。

「10……いや、5秒だな」

 その彼に、ルールーは振り向きもせずに答えた。

「余裕」

 ニヤリと目を細めて笑った。

 闘技場には、天音のか細い美しい歌声が響いていた。その歌声の向こう側からは、観客たちの小さなざわめきが聞こえてくる。

 やがて大空を舞う闘技場の竜王は、こちらを見据えて飛行する角度を大きく変える。ルールーは十字架(クロス)を手に身構えた。

 今回の戦いは、短期決戦で手早く敵を倒す必要がある。

 いくら天音といえど、戦闘中、常に踊り続けられるわけではない。いつまでも歌い続けられるほど、豊富な精神力を持ち合わせているわけではない。

 竜の大きな翼が邪魔だった。

 ルールーはスキルを発動させる。

「<硝子の盾>を……」

 手に持つクロスがキラリと輝き、彼は微かな白いエフェクトに包まれる。

 魔法のスキルは、何かを媒体として、精神力を消費して行使される。媒体となるものは、呪文、陣、札など。アイテムとしての媒体もあれば、動作そのものが媒体となって魔法スキルが発動するものもある。天音の<歌>や<踊り>のスキルも、厳密には魔法の一種と分類することができる。

 彼の魔法の媒体は、この十字架のシルバーアクセサリーだった。祈るだけで魔法が使えるため発動速度に優れている反面、数種の特定の魔法しか使用することができず、また効力も弱い。回復魔法の効果も本職の回復役(ヒーラー)に比べると格段に低い。しかし、前衛の彼にはそれで十分だった。

 目には見えない魔法の盾を身に纏い、彼は敵を待ち受けた。

 闘技場の上空からは巨大な黒炎竜が、地を這う小さな人狼へと一気に襲いかかった。

 空の低い角度から、まるで獲物を狙う猛禽のような姿で、凄まじい勢いでディアボロスはルールーへと突っ込んだ。

「うおおおおーーっ!!」

 人狼が吠えた。

 ――パキ――ンッ!!

 目に見えないガラスが砕け散るような、甲高い大きな音が響く。

 ルールーはそのディアボロスの突進を、黒い砲弾のような強大な衝撃を、その小さな身体で受け止めた。突進の勢いで数歩分後ろへ滑りながらも、獣人の足でしっかりと大地を踏みしめ、突き飛ばされずに持ち堪えた。

 バチバチと白いエフェクトが弾け飛ぶ。身体に牙が食い込むのを、透明の薄い障壁が辛うじて受け止めている。それでもその<硝子の盾>の魔法だけでは受け切ることができず、その身に食い込んだ竜の牙が、徐々にルールーの生命力を削り取っていく。

 黒炎竜と人狼の、竜の鋭牙と狼の剛腕のせめぎ合い。

 均衡は長く続かない。いくら天音の補助を受けていようと、ディアボロスの膨大な体力にルールーの体力が敵うはずがない。

 でも、彼らには、それだけで十分だった。

 ルールーは攻撃に耐えながら、頭の隅でカウントを取る。

(――……3、2、1――)

 そして、黒炎竜の大きな頭を見上げて、唇を僅かに歪ませた。

 視界の隅に、斧を振り下ろす小さな竜人の姿を見て。

「十分」

 イヴァンは満足そうに呟いた。

 斧スキル<溜め切り>の発動。

 その斬撃は、竜の漆黒の翼を貫いた。

 一瞬遅れて衝撃が地面へと伝わり、そして彼の斧を中心に赤い光のエフェクトが弾け飛んだ。同時に黒炎竜が大きく叫び声を上げた。

 咆哮ではなく、悲鳴。

 黒炎竜は頭を振り乱し、牙を押えていたルールーは大きく跳ね飛ばされた。暴れる翼の余波で身動きの取れなかったイヴァンも吹き飛ばされる。

「やったか?!」

 ルールーの視界にその竜の無残な片翼の姿が映る頃には、彼の耳には観客たちの歓声のような大きなどよめき声が聞こえてきた。

「完璧だろ!」

 自画自賛の声は、満足そうに斧を担ぐイヴァン。

 ディアボロスの大きな一対の羽は、その片方が傷だらけの姿となっていた。左側の翼だけ皮膜はボロボロとなり、とてもではないが飛べるような様子ではなかった。

 厄介な翼を奪ってしまえば、後は生命力が高いだけの鈍重な獣である。

 空の王者を地に引き摺り下して、ようやく今回の天音の補助が最大限に活かされる。

「イヴァン、やるぞ!」

「おう!」

 天音の歌声を背に受けて、二人はディアボロスへと猛攻を開始した。




 どれほどの時間が経っただろうか。

 観客たちは彼らの戦いに見入った。

 彼ら三人が特別な戦い方をしているわけではない。矛役(アタッカー)の竜人は、ヒットアンドアウェイを基本とした一撃離脱の戦い方。盾役(タンク)の人狼は他の人に敵の攻撃が行かない様に、敵意(ヘイト)を集中させるため軽い攻撃を加えながら味方を庇う。後方の支援役(バッファー)の女性は、敵から身を隠すようにして補助に徹する。

 とても基本に忠実な戦い方。

 しかし、それはある意味で、とても異常な戦い方であった。

 観客たちは皆、彼らの戦い方に見惚れながらも、ある種の違和感を感じていた。特に、竜王種(ベヒーモス)との戦闘経験のある上位者ほど、この異常な光景に言葉をなくしてただただ彼らの戦いに魅入っていた。

 ベヒーモスとは、果たして三人で太刀打ちできるものなのか……。なぜ彼らが戦っていると、ディアボロスがこんなにも弱そうに見えてしまうのか、と……。

 人狼がディアボロスの視線を惹きつけて、紙一重でその爪の攻撃を避ける。その隙に、敵の側面から竜人が攻撃する。ディアボロスが振り向き様に長い尻尾で凪ぎ払うと、軽い動作で竜人はその攻撃を避けて、時にはその大きな斧で防ぎ、二人で後方の支援役を庇うように敵の動きを誘導する。その繰り返し。普通であれば、体力切れで取るはずの間合いも一切無く、ただひたすらに攻撃を続ける。

 実質、竜人と人狼の二人だけでディアボロスと対等以上に戦っているということ。

 これこそが、最も異常でおかしな光景。

 この異常ともいえる舞台を作り出しているのは、支援役の女性。彼女が舞えば舞うほどに、歌えば歌うほどに、彼らのスピードは加速する。

 ダメージの蓄積値が一定量を超えたディアボロスは、目を血走らせて怒りに猛り狂う。その一撃一撃が致命傷となり得る竜の猛攻は、さらに加速する。

 加速に加速を重ねて、彼らは耐え続ける。

 それはもはや、武道などの達人と呼ばれる者たちの領域。二つ名持ちのベテランプレイヤーたちの、真の実力の一部を垣間見る。見ている側からは、まるで予定調和の演武劇を見せられているかのように、緊張感をどこかに置き去りにしてしまっていた。これこそが、ディアボロスが弱く見えてしまう、違和感の最大の要因。

 その凄まじい攻防の中で、『魔王の戦斧』と呼ばれるプレイヤーが唇を歪めて笑っている姿を見て、観衆の冒険者たちは戦慄した。

 しかし、そんな彼らの一方的な展開で戦いが終わることはない。

 ディアボロスの何度目かの<咆哮>に耐えながら、当の演武劇の主役の一人、ルールーは少しだけ焦りを感じていた。

 今は戦いを有利に進められているが、それは綱渡りのようなとても危険な状態。何かの拍子で少しでも体制が崩れてしまえば、パーティは一気に崩壊すると思われた。

 正直なところ、ルールーはもう少し早い段階でパーティはディアボロスに負けていたと思っていた。そう彼自身が予測していた。

 決壊するのは、支援役の天音、もしくはその天音を庇う盾役の自分自身。

 その彼の予想を大きく覆したのは、やはり支援役の彼女だった。

 <咆哮>を終えたディアボロスが、今度はふいに彼女の方へと視線を向ける。彼女の装備、敵にターゲットされなくなる<隠密>のスキルも、決して完璧ではない。特に三人しかいない戦場であれば、かなりの高い確率で天音にも攻撃が向かうことになる。

 ディアボロスが天音を見たその次の瞬間、彼女は動く。

 ふわりと文字通り舞い踊りながら、盾役のルールーに隠れるように移動する。決して演武は崩さずに、最初からそう踊ることが決められていたかのような自然な動き。観客たちは、誰一人として彼女がターゲットされたことに気付いていないのではないだろうか。ひょっとすると矛役のイヴァンでさえも気付いていないかもしれない。

(なぜそんな風に動けるんだ?!)

 間に立つ彼だからこそ分かる。

 通常、支援役は魔法などのスキルを使用してステータスの補助を行うのが主な役割。その支援役が敵に攻撃されないように身を挺して支援を行うのが盾役の役割。

 彼女はその自由な舞で、盾役の役割を支援(・・・・・・・・)する。

 例え、それで敵の視線が外れない時でも、彼女は決して踊ることを止めない。ルールーのブロックをものともせず、後ろから追撃を行うイヴァンを振り切って、ディアボロスが彼女の小さな身体に巨大な尻尾を打ち据える。

 観衆からは、声援とも悲鳴とも聞こえるような大きな歓声が上がる。

 しかし、竜の攻撃が届くことはない。

 彼女のすぐ横を掠めて、竜の尻尾は空を凪ぎ払った。安堵のような、ため息のような声が客席から上がる。おそらく、観客からは、たまたま彼女が竜の攻撃に当たらなかったように見えたのだろう。

 ルールーだけが気付いていた。

(なぜ、避けられるんだっ?!)

 彼女のその一つ一つの動きが、彼らを支えている。

 天音に攻撃が当たらず、その後の一瞬の隙を狙って、またイヴァンが攻撃を加える。

「ナイスプレーだ、天音!」

 そう叫ぶイヴァンに、<歌>スキルを行使している彼女は答えることもできず、苦笑いのような表情で前線を矛役に譲る。そんな光景が幾度と繰り返されてきた。

 弱々しく吼える黒竜の姿を見て、彼らはそろそろ終わりが近いことを感じていた。

 そして、またディアボロスは大きく息を吸う。

(<咆哮>か、それとも<息吹>か――)

 思考よりも先に、反射的に彼らの身体は動く。盾役の近くに、矛役のイヴァンは一歩寄っている。

 ――ギャアアァァ――――ッ!!

 竜の何度目かになる<咆哮>、それを難なく受け流して、彼らは反撃の体制へと移行する。このディアボロスは、<咆哮>の後に鉤爪か尻尾でターゲットを攻撃する。ターゲットはもちろん、竜の正面に立つ盾役の彼。

 しかし、この瞬間、ディアボロスは彼らを嘲笑うかのように、息を吸うような素振りを見せた。

(まずいっ!!)

 敵の予備動作に危険を感じて、直感的にルールーは防御姿勢を継続させていた。

 AIは成長する。

 たび重なるプレーヤーたちの攻撃を受けて、大型モンスターを操作する人工頭脳であるAIは、少しずつ進化している。

 攻撃モーションへと移行していたイヴァンは、防御は間に合わないので、構わず斧を思い切り振り上げた。イヴァンの攻撃と同時に、ディアボロスは咆える。

 ――ギャアアァァ――――ッ!!

 悲鳴のような<咆哮>を上げて、黒炎竜はまた大きく翼を広げた。斧の斬撃によって、その胴体には深い傷がいくつも刻まれている。

 怒り狂う黒竜の視線は、<咆哮>によって身動きが取れなくなっている、イヴァンの方へ。

 <咆哮>の後には、鉤爪の攻撃が来る。

 なぎ払うように振るわれた竜の鉤爪が、イヴァンの身体を直撃した。

「ぐああーーっ!!」

 彼の身体は大きく吹き飛ばされた。

 傍からステータス画面は見えないが、ステータスを確認すれば生命力が根こそぎ削られているだろう。防御も受け身も間に合わない、クリーンヒットとも言える一撃。

 この〝世界〟での痛みは軽減されているとはいえ、これほどのダメージを一撃で食らえば、失神してもおかしくないような激しい衝撃がプレイヤーを襲うこととなる。

 なおも黒竜の視線は、地面を転がるイヴァンの方を見据えている。

 ルールーは、考える前に竜の前へと飛び出した。

(それはダメだろっ!?)

 イヴァンがやられてしまっては、この戦いは彼らの敗北となるだろう。

 最初に倒れるのは、矛役のイヴァンであってはならない。

 ディアボロスは広げたボロボロの翼で滑空するように、地に伏す竜人へ追撃を行う。それを上回る速度で、人狼は二匹の間へと割り込んだ。

「イヴァン、どけ!」

 ルールーは紙一重のところでイヴァンを突き飛ばし、彼を庇ってディアボロスの鉤爪をその身に受けた。

「がああーーっ!!」

 人狼が大きく吠えた。

 悲鳴のような咆哮のような叫び声。

 あまりの痛みに視界が霞むようだった。ルールーはその衝撃に耐える。

 次にルールーが頭を上げた時、彼の視界に映ったのは、再び大きく息を吸う黒竜の姿だった。

 闘技場の観客たちは、歓声をあげることも忘れて息を飲んだ。

 攻撃範囲から逃れたイヴァンの、何か叫び声が聞こえたような気がした。

 ディアボロスと目が合った瞬間、ルールーは身が震えるのを感じた。

 そして、彼の視界は、黒い灼熱の炎によって埋め尽くされた。



 その時ルールーは、自分が死んだと思った。

 この〝世界〟での<死>には、いくつかのペナルティが存在する。獲得経験値の減少、所持金や所持アイテムの損失、復活後の一時的な行動制限など。しかし、このグラディウスの闘技場(コロッセオ)については、特殊なシステム方式が採用されている。

 ここでの<死>は、基本的にペナルティが存在しない。ペナルティが発生しては気兼ねなく対人戦を楽しめなくなるというのが理由の一つである。その代わりに、クエストを受注する際に参加費として、クエスト内容に応じたお金を払う必要があった。

 この予選クエストも同様で、彼らはクエストを受注した際に、先に参加費を支払っている。試合に負けた場合は、闘技場の医務室で目覚めることとなる。ちなみに、この予選クエストに限り、負けた場合でもお金を払うことで何回もクエストに挑むことが可能である。

 目前に迫る<死>の感覚に、彼の意識は麻痺したように何も感じなくなっていた。痛みさえ感じない。全身の血が沸騰するように熱に浮かされて、気が遠のくようだった。

 しかし、一向に彼が気を失うことはなかった。医務室のベッドで目覚めることもない。

 それに気づいた瞬間、全身にドッと痛みが押し寄せた。焙られるような熱と、気だるい疲労感に襲われた。

 彼は、死んではいなかった。

 赤黒い炎の壁が晴れると、そこには薄紫色に染まった彼女の後ろ姿があった。

 表情を覆い隠す白い垂れ衣は燃え落ち、笠は炎の勢いに飛ばされ、彼女の黒い髪が(あらわ)となる。竜と向き合う彼女の様子に、余裕の表情はもはやない。

 黒炎竜の火炎を受けて、天音の和服は淡く魔法の光を放っていた。魔法攻撃、特に火の攻撃にはめっぽう強い彼女の鎧装備、防御系のスキルが発動していると思われた。そのスキルにものを言わせて、彼女は盾役の盾(・・・・)として、ディアボロスの火炎の前に躍り出た。

 ルールーは息を飲んだ。

 それは、死ななかったことに対する驚愕か、支援役が飛び込むという異常な行動に対してか。炎の中で舞い踊る彼女の異様な美しさによるものか。

 天音のこの行動は、支援役の動きとしては異常とも言える行為であったが、後になって冷静に考えてみれば、それはとても理にかなった行動であった。

 この三人のパーティで、ディアボロスとの短期決戦において、死ぬ順番というのは重要なポイントとなってくる。 最初に倒れるのは、天音でなければならない。

 初めに支援役、次に盾役、最後に矛役、この順番でなければならない。ここでの彼らの目的は、あくまでクエストの達成、仲間が何人倒れようと敵を倒せばそれで彼らの勝ちである。支援役が最後に残ったところで、攻撃力が圧倒的に不足し倒せる見込みがない。逆に支援役が一人倒れたところで、盾役と矛役が残っていればギリギリまでダメージを与え続けることができる。

 例えそれを頭で理解していたとしても、竜の火炎の中に飛び込める本物の支援役(・・・・・・)がどれほどいるだろうか。

 なんとか死ぬことはなかったものの、天音もルールーも瀕死の様態だった。

 闘技場の観客たちも声援を上げることも忘れて、彼らの戦いに目を凝らす。

 天音は大粒の汗を流しながら、ルールーを庇うように、両手の刀を大きな黒竜に向かって構えている。

 ディアボロスは、自身の<黒炎竜の息吹>では敵が倒れていない事に気付き、目の前に立つ小さな女性を見据える。

「逃げろっ!!」

 いくら理想としての順序があろうと、彼女を盾にできるはずがなかった。ルールーは慌てて叫んだ。

 天音を庇おうとしたところで、自身の身体がまるで動かないことに気がついた。

(た、体力が……!?)

 彼女は踊りを止めている。

 歌声もいつの間にか聞こえなくなっていた。

 先ほどまでの、チートのようにも感じられた彼女の圧倒的な支援はもう無い。自然治癒力に任せた回復速度では、盾役として消費していた彼の体力は、一向に戻る気配がなかった。素早さの補助もない。人狼である彼の身体が、これほど鈍重に感じたことはなかった。

 天音にも多少の<短剣>のスキルの心得があるとはいえ、この竜王種(ベヒーモス)の重い一撃に支援役が耐えられるはずがなかった。

「天音さん!!」

 ルールーは悲鳴のように叫んだ。

 漆黒の大きな爪が大きく振り上げられた。ディアボロスの<三連撃>の攻撃。ルールーの手は間に合わない。

 一撃目、彼女は身体を大きく動かして、頭上からの爪の攻撃を横に避けた。

 二撃目、掬い上げるような横からの攻撃を、二本の小さな刀を重ねてなんとか受け流した。

 受け流すだけでも、プレイヤーの体力は消費される。満身創痍の彼女には、体力も生命力ももう残っていない。

 三撃目、彼女に避ける術はなかった。

「天音ぇーーーっ!!」

 イヴァンの叫び声が遠く聞こえた。

 誰もが、彼女は死んだと思った。ルールーもイヴァンも、観客も、彼女自身も……。

 天音に竜の鋭爪が食い込んだ瞬間、彼女の姿は霧散した。

 影が揺らめくように、彼女の姿が掻き消えた。

 観客の何人かは思わず悲鳴を上げている。

 しかし、一番近い位置にいたルールーだけが、気がついた。

 あれは決して、<死>のエフェクトではない。

 そう気づいた瞬間、彼の足元に、小さな何かが転がってきた。

 チラリと目を向ける。

「…………キツネ?」

 傷だらけの子狐の姿だった。

 彼と、そしてディアボロスの周囲に、竜の黒炎の残り火のような赤黒い炎が舞った。

 陽炎が揺れ動くように、赤い花びらが舞い踊るように、小さな炎が風に流されて消えていく。狐火が全て消えた場所、黒竜から少し離れたところには、ポカンとした表情で座り込んでいる天音の姿があった。

「よくやった、キツネ!」

 止めを刺しそびれたディアボロス。その攻撃後の絶好の隙を、彼らの矛役は絶対に見逃さない。

 イヴァンは黒竜の無防備な頭上に雄叫びを上げて切りかかった。

「うおおおお――――っ!!」

 巨大な三日月斧が赤いエフェクトを靡かせて、竜の背へと突き刺さる。

 彼の全ての力を込めたその一撃は、観客たちの盛大な歓声とともに、闘技場(コロッセオ)を大きく揺り動かした。




 騒がしかった歓声は、徐々に様相を変え、どよめきへと変わる。

「うそ、だろ……」

 思わず、ルールーは呟いた。

 まだ戦闘中であることも忘れて、彼は立ち尽くした。

「ハハハ……さすが、だなぁ……」

 彼の後ろで、イヴァンも呆れたように渇いた笑みを浮かべた。

 ディアボロスは、倒れてはいなかった。片翼を失い、地に足を引き摺り、牙を失って尚、揺らぐことのない強靭な魂。

 この生命力、この底力が恐竜の王者たる竜王種(ベヒーモス)の証。

 折れた翼を大きく広げ、冒険者へ威嚇するように、空へ渇望するように、力強く咆哮をあげた。

「マズッ! 瀕死技、来んぞ!」

 イヴァンの声に、慌てて彼も身構えるが、内心は途方にくれていた。

(こんなの、どうやって倒すんだよ……)

 先のイヴァンの渾身の一撃でさえ倒せなかった。あと一歩とはいえ、ディアボロスの残りの生命力を、瀕死の三人で削り切れる自信がなかった。

 天音の補助が無くなった今、瀕死の発狂状態にあるベヒーモスの猛攻に、そう長く耐えることができるとは思えなかった。

 彼女の舞が止まった時点で、イヴァンの最後の一撃で決め切れなかったことで、彼らの敗北は確定的だった。観客たちも、ルールーでさえそう感じていた。

 しかし――

「天音、アレ(・・)すんぞ!」

 イヴァンはニヤリと笑って、彼女の方へ声をあげた。

「……へっ?」

 声をかけられた当の天音は、ルールーと同じく、茫然と彼らの宿敵を見上げていて、呆けた声を漏らした。いや、倒すのはもう無理だと諦めたかのように、悲劇のお姫様然として上品そうにシナを作って袖を涙で濡らしていた。

「ざけんなっ!! バカなことしてないで、例のアレやるぞ!」

「え……ええええ~っ!?」

 ここに至ってイヴァンの言う『アレ』に気付いて、天音は思わず悲鳴をあげた。

「無理! 無茶だって! あんなのもう三年近くやってないし、私とイヴァンのステータスだって大きく変わってて――」

「無茶でもなんでも、やるしかねーだろっ!!」

 怒鳴りながら、イヴァンは彼女の傍に立った。

 ディアボロスを睨み、天音には背を向けて、まるで彼女を守るように敵を睨み据える。ディアボロスは大きく息を吸い込み、周囲の空間には赤黒い炎が舞っていた。大技の最後の予備動作。

 瀕死の発狂状態になると、生半可な攻撃は一切通らなくなる。イヴァンの<溜め切り>は、もはや間に合わない。

「大丈夫、天音なら絶対にできる!」

 自信に満ちた声で彼は告げる。

「本物の舞姫は、お前だけだ!」

 竜人は巨大な三日月斧(クレセントアクス)を手に身構えた。

「あ、あのさイヴァン……くさいセリフ言ってるところ申し訳ないんだけど、私、今ちょっと腰が抜けちゃってて――」

「抜ける腰があるかよっ!」

 と言って、イヴァンは彼女の背中を蹴飛ばした。事実、仮の肉体であるこの〝世界〟では腰が抜けるようなことはない。

「ひどっ!」

 涙声で非難をあげる天音を無視して、彼は同じく唖然とした様子のルールーに向かって怒鳴り声を上げた。

「ルールー! 三十秒だっ!」

 頭が理解する前に、反射的に声が出た。

「アホか――っ!!」

 それこそ無茶な要求だった。発狂状態のディアボロスには、一対一では十秒でも持てば僥倖と言える。しかし、たたみかける様にイヴァンは言い放った。

「最初の十秒は俺からのサービス! 後は気合でなんとかしなっ!」

 ルールーからの悲鳴のような叫びが届く前に、イヴァンは思い切り獲物を振り下ろした。

 同時に、ディアボロスの必殺技が発動する。

 彼らに向かって放たれる<黒炎竜の轟咆>。

 対するは、地を這う竜人の<地竜撃>。

 二つのエネルギーはぶつかり合い、大きな衝撃となってコロシアム全体を揺るがせた。

 通常であれば、イヴァンの技一つでディアボロスの必殺の一撃を受け止めきれるはずがない。ルールーでさえ、真正面から受ければ数秒と待たずに力尽きるだろう。

 竜人は、その小さな身体で、その衝撃の全てを受け止める。

 そのエネルギーの犠牲となるのは、彼の生命力ではなく、体力や精神力でもない。彼の、最も近しい相棒の力――武器の耐久力そのものだった。

 スキル<地竜撃>は、対象となるモンスターを直接斬るのではなく、地面を打ちつけ衝撃を飛ばす必殺技。武器そのものの攻撃力に使い手の腕力、さらには武器の耐久力そのものを上乗せして、敵を殲滅する最後の大技。

 ただし、使用した武器は破壊される。

 地面に打ちすえたイヴァンの三日月斧(クレセントアクス)は、音も無く砕け散った。

 それを見たルールーは、思わず悲鳴をあげそうになった。

 自慢の大斧を無くした『魔王の戦斧』。

 しかし、イヴァンの顔を見て、ルールーはあげそうになった声を飲み込んだ。

 竜人は、ゾッとするような笑みを浮かべていた。

 これで十秒は持つ、硬直時間はおまけ、後は死んでも守り切れ。凄惨な表情で、ルールーへと睨みを効かせていた。

「武器を壊して、何する気だ馬鹿野郎ーっ!!」

 叫びながらも、ルールーはディアボロスへと立ち向かった。

 彼が武器を無くしてまで作ってくれたこの十秒、体力の回復はなんとか間に合う。生命力は瀕死のままだが、回復したところで発狂状態の一撃でももらえば死ぬのは確実、腹を括るしかない。盾役の彼は、矛役の彼を信じて、耐え続けるしかない。

 ヤケクソのような雄叫びをあげる人狼を遠く見つめて、イヴァンは瞑想するように目を閉じた。

 彼の周囲には、<溜め切り>を行う時のような赤や青の混じった光の波動が舞い始める。

 そして、彼女はその竜人を後ろから抱きしめる。

 竜の背中に頬を寄せて、愛おしい幼子を抱くように、まるで子守唄を奏でるように天音は歌い出す。

 竜人の背からそっと離れると、彼女はまた舞い踊る。

 しかし、その舞いは先ほどまでの優雅な舞とは全く異なったもの。

 踊れば踊るほどに、舞えば舞うほどにその激しさは増す。長い黒髪を振り乱して、薄紫の裾を翻して、声も枯れるほどに歌い続ける。

 まるで嵐を呼ぶような踊り。魂を呼び覚ますような叫び。

 対照的に、静かに瞑想をする竜人。

 彼女の舞いと、彼の瞑想による波動。

 波と波が交り合い、波長が重り合っていく。

 その時、小さな竜人は、本物の竜の咆哮を上げた。

 その瞬間、彼女は二本の刃を振り上げる。そして、両手の刃を竜人の背へと突き刺した。


 ――ギャアアアオオ――――!!


 それは、叫びではなく、歓喜の雄叫びだった。

 竜人の傷つけられた背中からは、血飛沫が舞うように大きな翼が広がった。掲げた両手の先からは、大きな爪が伸びた。傷ついた鱗は、輝きを取り戻した深緑色の大きな鱗に覆われる。小さな竜人の身体は、いつしか一回りも二回りも大きくなり、やがて竜王の体躯へと成長を遂げた。

 闘技場(コロッセオ)に、もう一体の本物の竜が降臨する。

 圧倒的な存在感を持つ緑の竜王の背後で、彼女は過ぎ去った嵐の名残のように静かに踊り続けていた。

 それはまるで、龍神を召喚する巫女の御業。

 その姿を目にしたルールーは、思わず声をあげていた。

特殊(エキストラ)スキルだとっ?!」

 特殊スキル<神降ろし>。その身に神を宿して、肉体を変化させる特殊なスキル。

 このような巨大化する特殊スキルは、竜人型(ドラゴニュート)だけでなく、ルールーの人狼型(ライカンスロープ)にも存在し、比較的珍しいスキルというわけではない。

 問題なのは、<神降ろし>をイヴァンが使用したということ。

 特殊スキルは、条件さえ満たせば誰にでも使用することができるもの。その強靭な見た目に違わず、能力も凶悪なものである。

 しかし、見た目の派手さに比べて、スキルとしての人気は低かった。能力が単純なだけに、ネタがばれてしまえば対人戦にはほとんど役に立たないということがある。なにより問題となってくるのは、発動条件があまりにシビアであるということ。発動のための基礎ステータスの調整を含めて、全ての手持ちのスキルをこの特殊スキルに集約しなければならないほど。一の特殊スキルを手に入れるためには、十の通常スキルを捨てなければならない。

 できるはずがなかった。

 イヴァンに、特殊スキルを使用できるはずがなかった。

 ルールーでさえも、彼が変身する姿を今まで一度も見たことがなかった。

 新たな強敵の出現に気付いた黒炎竜は、これまで相対していた小さな人狼など歯牙にもかけず、自身と同格とも言える竜の存在に咽の奥を不機嫌そうに唸らせる。

 黒の竜王、ディアボロスは威嚇するように大きく咆えた。

 緑の竜王、イヴァンは大きく翼を広げて宿敵へと突進した。

 二体は真正面から激突する。

「うわっ!!」

 衝撃によって、近くに構えていたルールーは大きく外へと弾き飛ばされていた。

 ただの特殊スキルの発動であれば、真正面からぶつかり合えば勝るのは当然本物の竜王種(ベヒーモス)である。冒険者(プレイヤー)のスキルは、所詮まがい物に過ぎない。

 しかし、競り勝ったのは、仮初の緑の竜王だった。

 イヴァンがディアボロスを大きく吹き飛ばし、そのまま追撃するように竜の鉤爪を大きく振るった。

 彼の変身には、彼のステータスがそのまま反映されている。イヴァンの高い攻撃力が上乗せされたその力は圧倒的だった。

 それに気づいた瞬間、ルールーは慌てて回復のための<祈り>のスキルを発動させた。仮初の竜王の、貧弱な生命力を少しでも補うために。

 観客たちは静まり返っていた。

 目の前で繰り広げられる熾烈を極める攻防。

 果たして、それは本当にたった三人のプレイヤーによって作り出されたものなのかと。

 静寂は徐々にざわめきへと変わる。

 熟練のプレイヤーたち、イヴァンを知る者たちは絶句する。あり得ないと口を揃えて、その異常な舞台を作り上げた一人の女性に目を向ける。

 そうとは知らない一般のプレイヤーたちは、ただただその舞いの美しさに見惚れ、戦いの激しさに魅入っていた。

 誰かの呟きは、小波(さざなみ)のように広がっていった。

「本物の、舞姫だ……」

 笠も無くなり露となった彼女の長い黒髪を揺らして、薄紫の花びらの袖を振って、優雅に繊細に、竜神の魂を竜人へと降臨させた乙女たる竜の舞姫は、荒れ狂う真の竜王の後ろで、ただ一人、静かに舞い続けた。



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