109「旨い蕎麦屋」
朝一つの鐘が鳴る頃、カシロウはすでに道場にいた。
今朝のカシロウはいつもより早く起き、夜明けと共に部屋を出て、まだ明けきらない空の下を歩き、静かに扉を開いて道場に上がり板敷きに端坐する。
半刻ほどそのままで居て、そして立ち上がって半刻ほど兼定を振り、ようやく朝一つの鐘が鳴った所。
「……うん、腹が減った」
カシロウは兼定を鞘に納めて双肌脱ぎとなり、丹念に手拭いで汗を拭く。
それなりにさっぱりとした所で、カシロウは雪駄を履いて外に出る。
帰って朝食にするには中途半端な時間ゆえ、確か旨い蕎麦を出す店があったなと考え城下を少し歩いた。
記憶の通りの場所に店を見つけるも、やはり早過ぎたらしく暖簾が出ていなかった。
諦めようかとも考えたが、どうにも口が旨い蕎麦を求めてしょうがない、と行きつ戻りつしていると、扉が開いて見覚えのある店主が姿を見せた。
「おやヤマオ様。こんな早くにどうされました?」
「いやそれがな、道場へ来るのが早過ぎて腹が減ってしまってな……」
「でしたら中へ。開店前ですが仕込みは済んでおりますから」
厚かましいと思いつつも、カシロウは好意に甘えて店主の後ろに続いて店内へ。
「まだ簡単なものしか出来ませんので、盛りでよろしいですか?」
「ここの蕎麦は旨いからな、二、三枚貰えればそれで充分だ」
ここはあの日、ビスツグが魔王になった日に、ケーブらと立ち寄った店。
盛り蕎麦を口に運びながら、あの日の事を思い出し、再び複雑な思いがぶり返しかけた。
それを中途で遮るように、店主がカシロウに向ける目に気付く。
「……あ、いや、すまんな。せっかくの蕎麦なんだが、私は上手く啜れんのだ」
カシロウは上手に麺を啜れない。
以前からディエスに冷やかされ、その度に殺気を孕んだ視線を向けたが、自分から言う分には抵抗を感じない。
「いやいや。この商売をやっておりますと、ちょこちょこそういうお客様もお見掛けしますから」
ではなぜ自分をそんなに見詰めるのかと、不審に思うカシロウへ店主が続けた。
「前に見えられた時は辛そうに召し上がっておられましたが、今日は旨そうに召し上がって頂けてるなとね、ちょっと安心した次第でございますよ」
そうかも知れないなと、カシロウは思う。
あの日は色々とあり過ぎた頃。
ダナンを斬り、リストルを喪い、ビスツグを王に戴いた日。
今も悩みは尽きぬけれど、あれからほんの三十日やそこらで色々あり過ぎて、己れの心は付いていけていない。
だからか、なんとなく『どうとでもなれ』と思わぬでもない自分がいる。
あと四日もすればトノも元通り、そうすればさらに心も落ち着くだろう。
とりあえず今は、己れの出来ることをやろうと、蕎麦をあむあむ食べながら心に決めた。
少し多めに支払い店を出て、のんびりと道場へ歩を進めるとちょうど朝二つの鐘が鳴る頃、道場へと辿り着いた。
どうやら既に門下生が来ているらしく、カシロウに気付いては挨拶を投げてくる。
その中に一人、誰よりも笑んだ男がいた。
「――ト、トビサじゃないか!」
「先生! ご無沙汰しております! 今日からこのトビサめも復帰いたします!」
「もう、良いのか?」
カシロウの視線は、自ずとトビサの左腕で止まる。
辻斬りダナンに斬り飛ばされた左腕を。
カシロウに見詰められたトビサの左腕は、その掌をグッと握ってパッと開いてみせた。
「この通りの完全完治。これも先生と天狗様のお陰です」
左手を顔の横まで持ち上げて、指をワキワキさせてトビサが言う。
「それならお前……、剣も元通りに……?」
「いやぁ、さすがにそこまでは……。ちょっとここ見て下さいよ」
トビサが左肘の少し先を指で差す。
「天狗様は上手く繋いでくれたらしいのですが、ここの所で細くなってるでしょう?」
ちょうどダナンに斬られた辺り。
確かに少し、普通ではあり得ない段差が。
「神経だとか血の管だとかが僅かに締め付けられるらしく、剣を使うには左手は鈍すぎるのです」
ダナンの『悪い力』が残っていた為、天狗の治療が出来ずにカシロウが薄く削いだ所。
思えばあれも、ダナンに与えられた神器に因るイチロワの神力だったのだろう。
「……そうか、私が斬ったせいだな。すま――」
「先に言っておきますが、先生が斬って天狗様が繋ぐ、そうでなければ治らなかったと聞いています。謝られる理由はありません」
カシロウの口からは、すまんという言葉が出かけていたが、それを制す様にトビサが言った。
そして尚も明るくトビサが続ける。
「片手で使える剣術を考えてくれてる筈でしょう? 楽しみにしてたんですから」
「…………あっ! しまった、すっかり――」
カシロウは完全に失念していた。
ダナン戦からクィントラ戦までのカシロウにそんな余裕はなかったが、このサボっていた十日間なら余裕だった。
「すまん、これから考える」
朝の稽古が始まって、トビサ含めた各門弟たちが竹刀を振るう。
その間カシロウは、板敷きの端に座ってウンウン唸る。
そして稽古の後半、乱取りが始まるとカシロウは、それぞれ二本の竹刀を持ってトビサと二人で端に寄る。
「鈍いと言ってもどの程度かが知りたい。全く使えないのか、補助的に使えるのか、だな」
言っちゃ悪いが、トビサの腕では右手だけの剣では弱い。
そして結論、トビサの左腕は使えないこともない。
「これならば……」
カシロウは道場脇の倉庫へ行って、極端に短い竹刀を持って戻った。
「これを左で使え。これならば鈍さも随分と気にならん筈だ」
刃渡り半尺ほどのそれは、子供が使ってさえなお短い。
トビサはこれが、到底役に立つとは思えなかった。
「役に立たんと思ってる顔だな」
「いや、だって先生。ちょっと大きいナイフじゃないですか」
「そうでもないさ」
カシロウは右手に普通の竹刀、左手に短い小刀竹刀を手に、乱取りから溢れた者を一人呼んだ。
「待てと言うまで好きに打ち込んでくれ」
カシロウは主に右の竹刀で捌き、小刀竹刀はごくたまにしか使わない。
そして右手の竹刀を頭上に振り下ろし寸止め、次は左の小刀竹刀で腹に突きを入れ、それも寸止め。
「な? 大事なのは、左手の小刀については意識の外に置いておくのが良いだろう。いざという時だけ使う感じだな」
正午を告げる朝三つの鐘が鳴るまで、カシロウとトビサは小刀竹刀を使った乱取りを繰り返した。
元々あまり剣の上手くないトビサだったが、なんとなく手応えを感じているらしい。
「先生、これ良いですね。左腕の鈍さに関わらず、私やナンバダなんかはこっちの方が良いかも知れません」
カシロウも実はそう思っていた。
なかなか上達しない連中には、この二刀を勧めるのが良いかもな、と。
そして稽古終わり、トビサはこれから小刀を買いに行くと告げて帰った。
昼なのだが、ついさっき蕎麦を食べたせいでまだ腹が減らないカシロウは、早起きだった分を取り返すべく横になった。
目を覚ますと、午後の稽古に来たらしいハルとオーヤがちょうど道場に入ってくるところだった。




