勇者渚の冒険(前編)
――かつての渚にとって、兄というものはどうでもいい存在だった。
もし今の渚が自分の娘のように過去に戻る能力を持っていたなら、昔の自分を助走をつけて殴った後、全裸で土下座させての3時間説教コース。
しかる後、いかに兄一が素晴らしいかを10時間ほど延々と説くのだが、それはさておき……改めて。
かつての渚にとって、兄というものはどうでもいい存在だった。
血を分けた双子の片割れ。誰よりも自分に近しい存在でありながら、余りにも劣った存在。
1の努力で10の結果を出す渚に対し、1の努力で1の結果しか出せない凡人。
ただ、兄が努力して見苦しくあがく様を目の当たりにしても、彼を見下そうと思うことは無かった。
見下すという行為は、劣った人間を蔑むことで『自分の方がアイツより上等な人間なんだ』と自己満足を得ることに他ならない。
全てにおいて完璧な渚にとっては、わざわざ兄を見下すなどという行為を取るまでもなく、自分という存在そのものに十二分な自信を持ち、満足していたからだ。
渚にとって兄は路傍の石ころ同然。
だから劣等感故に兄が自分から離れていったことも、渚にとってはどうでもいいことだった。
わざわざ兄を攻撃する必要も無ければ、こちらから歩み寄って関係を改善する必要もない。
兄との関係を動かすためにかける時間や労力があるなら、自分を慕ってくれる学校の人間と友誼を深める方が効率的だ。
自分を誇りと認めてくれる両親の期待に応える方が有意義だ。
そんな渚の思考、そして兄弟の関係性が大きく変わったのは今から一か月半前のことだった。
運命のその日、渚が帰宅途中にそれは起こった。
突如光に包まれたかと思うと、次の瞬間には神殿のような見慣れぬ建物の中にいて、
『勇者様、どうか魔王を倒してこの世界をお救いください』
などということを、煌びやかなドレスを纏った少女に言われた。
流石の渚もこの状況には驚きを隠せなかったものの、ドレスの少女の話を聞くうちに、以下のことが分かった。
●ここは地球とは別の世界であること。
●文明レベルは地球で言う中世時代ほどで、魔法や魔族という人間以外の知的生物が存在すること。
●魔族は遥か昔からこの世界の人間を虐げてきていて、人類は一致団結して魔族と争っていること。
●魔族には100年に一度魔王という強力な存在が現れ、度々人類が滅亡の危機に瀕してきたこと。
●この世界の人間では魔王に対抗できない為、魔王が現れる度に別の世界から優れた人間を召喚し、勇者として代わりに戦ってもらっているということ。
●召喚された勇者は身体が大幅に強化されているということ。
●渚が今回の勇者に選ばれたということ。
●渚を召喚したのは目の前のドレス少女で、この世界唯一の国家、『王国』の王女であること。
ひとしきり話を聞いた渚は、次に元の世界に戻れるかを王女に確認した。
『魔王を倒した時点で“ある条件”を満たしていれば、元の世界に戻ることができます』
その条件とは、魔王を倒すまでの間、元の世界の人間との繋がりを保ち続けるというものであった。
地球では現在、渚は行方不明状態になっている。
両親や友人はいなくなった渚を心配し、その身を案じるだろう。
その誰かに『心配され続けている』ことにより、異世界に渡った渚と、地球で彼を心配する者との間にロープのように【絆】が結ばれ、それを辿ることにより元の世界に帰れると言う。
『つまり、魔王を倒した時点で勇者様を心配する者が残っていれば、勇者様は自分の世界に帰ることができます』
逆に言えば、地球で行方不明状態が続く渚を諦めたり、見切りをつけるなどして心配する者が誰もいなくなってしまえば、地球に戻ることができなくなる。
渚が意識を凝らしてみると、自分の体から目に見えないロープのような物が数百本伸びているような感覚が理解できる。
これが【絆】というものだろう。
不思議なことに【絆】を通じて、誰が渚のことを心配しているのかが分かった。
父親、母親、友人、モデルとしての渚についたファン。
意外なことに兄からの【絆】も感じることができたが、これは別にどうでもいいだろう。
『加えてこちらの世界で何年経過していても、勇者様が自分の世界に戻る際は、召喚された時の時間帯に、召喚された時の年齢で戻ることができます』
それであれば断る理由はない。
自分に勇者としての素質があり、勇者としての活躍を求められているなら、その期待に応えよう。
魔王討伐までどれほど日数を要するかは分からないが、これまで友誼を結んできた者が数百人単位でいる以上、【絆】が完全に切れることはないだろう。
――こうして勇者渚は剣を取り、異世界を救う為に立ち上がった。
これまでに張って来た伏線のいくつかを回収していきます。
中でも最大の謎だった『渚が何故兄一に好意を持ったか』が後編で明かされます。
(前編の時点で色々お察し状態ですが)




