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第3章:ニネヴェの夜

※軽いものですが、自傷に類する行為の描写があります。

----------

「……とりあえず先に手当てをしよう。アラムの剣なら綺麗な傷だろうが、念のため酒で洗った方がいい。倒された際にあちこち打っているだろうが、たいしたことはないだろう。念のため、今度身を整える時に確認しておくと良い。……あぁ、これなら痕は残らないだろうな、よかった」


 どうしたものかと戸惑うエアを宥めて営火の側に戻し座らせると、酒を浸した布で首筋の傷を拭う。掠っただけとはいえ手入れのされたアラムの剣は、そのしなやかな白い首に赤い一条の線を引いていた。だが深いものではなく、切り裂かれたその傷が肌に刻み残されることはないだろう。

 ――この美しい肌に痕が残らなくてよかった。

 そんな言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、自分が妙齢の異性の肌に触れていることに思い至り、カロシュは羞恥する。許可も取らず、何をやっているんだ俺は。


 されるがままに手当てをされていたエアだが、突然カロシュの手が止まったのを見て、じっと視線を合わせる。不可思議そうにカロシュを見るその榛色(はしばみいろ)の瞳には、見苦しく狼狽える自分が映っている。そのあまりに近い距離に、カロシュを二度目の羞恥が襲う。


「……っ。とりあえず明日までは布を巻いておいた方がいい。明朝泉に行って、今度は水でちゃんと洗うといい」


 柄にもない動揺を気取られないよう必死で平常心を思い出しながら、荷物から清潔な布を取り出して渡し、カロシュはすっかり冷めた茶をあおった。……しまった、どうせなら手当てに使った酒を飲めばよかった。


「カイルも座って……。で、何から説明すればいいかな。どう話せばいいのか、俺もちょっと困惑している」


 アラムが弁解を押しつけて行った以上、カロシュが説明するしかない。だがノーサの民でない二人に、あのアラムの心理を上手く説明できるだろうか?


「――アラムは、左腕が“ジョシャの証”なんですね」


 眠気を吹き飛ばし、いつもの調子に戻ったカイルが新たに茶を入れ直しながら言う。酒の方がいい……と言いかけたが、カイルはそのままカロシュとエアの分の茶も入れ、椀を渡してきた。


「その通りだ。カイルには説明は不要ということだな。では、エア。貴女が分かるように説明することにする」


 今回の事態、そしてこれから話す内容のことを思うと、自然とカロシュの口調も改まったものになった。エアに『貴女』などと呼びかけたのは、初日以来だ。


「まずは……エア、貴女はアラムの左腕に巻かれている布の色文様を覚えているか?」

「左腕の? ……そういえば常に巻いていますね。……アラムの額帯と同じものだったと思います」

「そう、その通り。つまり、アラムの<(シュザ)>を示すものだ」

「だからなのですか? だから触ってはいけないと――」

「触れることが禁忌なのはその通りだが、そんな“単純な”理由じゃない」


 普段ならまず許さないであろう、主人であるカイルが煎れた茶を口に運び、エアは少しずつ与えられた衝撃から立ち直ってゆく。いつもの理知的な視線がカロシュを見据える。


「改めて訊くが――貴女は<主持ち(ジョシャ)>について、どの程度知っている?」

「主人に(いのち)を捧げ、付き従う者であると。独立不羈のノーサの民には珍しい主従関係なのですよね?」

「では、その『命を捧げる』ということの意味については?」

「私たちアルバの騎士も、その主人に命を捧げます。自らの(いのち)に代えてもその主人を守り抜き、主人の(めい)を果たす覚悟のことではないのですか」


 やはりエアは、ノーサ以外の国では一般的な“主従関係”を口にした。ノーサにおいてもジョシャは特別な存在だ。普通は他国の者が見知る機会もないのだから、当然知っているはずもない。

 ……だとすれば、何故カイルは“ジョシャの証”について知っているのだろう? ふと疑念がわいたが、今はそれを問いただす時ではない。


「――今から話すことは、ノーサの儀式と我々の気質に関わることだ。できれば不用意に他言して欲しくない。それだけはお願いする。

 ――ジョシャとなることを希望する者は、まず主と認めた人物の前でその旨を告げる。ジョシャになりたい理由をも。ジョシャの宣誓儀礼、と我々は呼んでいる。これには事前の通告や儀礼は必要ない。

 そして……その人物の目の前で、自分の身に傷を付ける。すぐには命を落とさない、だが放置すれば確実に致命傷になる傷を。大抵は手足の血管を切り、その血を流すことが多いな」


 営火のはぜる音が響く中、突然聞かされた血生臭い話にエアが息を飲む音が聞こえる。だが、カロシュはそのまま話を続けた。


「主と見込まれた人物は、その者をジョシャとして受け入れるかどうかを、その場で決める。その判断には誰も介在することは許されない。また、その判断を後から覆すことも許されない。

 一度ジョシャとして受け入れることを決めたなら、生涯に渡ってその関係は続く。よって『ジョシャを持つ(・・)』ということは、人ひとりの全て(・・・・・・・)を抱え込むことを意味する。

 ジョシャとなった者が行うことの全ては、その主の意向と見なされる。万一、自らのジョシャがノーサの(のり)を侵した場合の責は、全て主が共に負う。だからこそ、心からその者を信頼し認めた場合以外では、ジョシャとして受け入れることはない」


 そもそもエアの言う通り、独立不羈のノーサの民がジョシャとして全てを相手に委ねる気持ちになること自体が希有なことだ。解消されることのない、生涯に渡る関係だけに、生半可な覚悟ではジョシャになろうとは思わない。通常は長い時間をかけて相手を良く知り、数年の勤仕の中で覚悟を定めることが多い。

 思い巡らすと、推測20歳前後でジョシャになったであろうアラムは、当時はかなり若い部類だったはずだ。アラムの主は、未知数の才能をよくぞ拾い上げたものだ。さすがはアラムの“主となることが出来た(・・・・・・・・・・)人物”というところか。


「――ジョシャとして受け入れることを決めた場合は、その傷の手当てをする。傷が癒えれば主は額帯を与え、正式にジョシャとする。

 もし手当ての甲斐なくその者が命を失ったり、後遺症が残った場合は……そのままだ。ジョシャとして働けない、と判断される場合は、ジョシャ本人が改めて自らその命を絶つ。今度は確実に。

 そして、相手がジョシャとして受け入れなかった場合も……そのままだ。宣誓儀礼のその場所で、その生命が果てるまで残される」

「えっ……? 他の人は誰も助けないのですか?」

「ジョシャの宣誓儀礼には、誰であっても介入は許されない。『ジョシャになれなかった(・・・・・・)者』の命を助けることは、身内であろうが氏族長であろうが許されない禁忌だ。また、本人も決してそれは望まないし、望んではならない。

 ――これが、ジョシャが『その命を捧げる』ということの本当の意味だ」


 言葉通り自分の命をかけて(のぞ)み、(のぞ)む、何人(なんびと)にも侵されない二人だけの儀式。その魂の結びつきともいえる関係こそが、ノーサにおける唯一の“主従関係”なのだ。


「ジョシャとなった者は、宣誓儀礼の傷を何よりも大切にする。“ジョシャの証”と称され、最初に与えられた額帯でその傷跡を覆い、主以外のものに見せたり触らせることは無い。よほどその相手を信頼し、受け入れた場合くらいだ。とはいえ、ジョシャがそのような感情を主以外に抱くことはほとんど無いがな。

 主以外の者がその傷に触れようとすることは、ジョシャへの許されぬ暴挙・冒涜と認識されている。意図的に触れようとした人物が害されても、ジョシャもその主も咎を受けない。それもノーサの法だからだ。

 ……これが先ほどアラムが激高した理由であり、貴女が傷を負った理由だ」


 エアはその秀麗な顔を、営火に映えても分かるほどに蒼白に変えていた。知らずとはいえ、とんでもないことをしてしまった自分を必死に責めているのが、ありありと分かる。


「とはいえ貴女は知らなかったわけだし、第一、アラムが貴女に謝ったということは、この件は不問にするという彼の意志だ。あまり気に病むと、却って彼が困る。

 ――お互い、気持ちの整理に一晩はかかるだろうが、明朝はいつも通りに接してやってくれ。ああ見えて、アラムは意外と心配性で人の心の機微を気にしすぎるところがある。

 何よりアラムと貴女と気まずくなると、この後の旅が面白くない。というか、俺が困る。俺はカイルのお守りで手一杯で、加減する余裕がない。お前たちが水を差さないと、お前の大切な主人が迷惑を被ることになるぞ?」


 最後は少しおどけて話を締めくくると、営火を弱めて就寝する準備に入る。アラムが戻るまでは自分が夜番だ。一人になったら今度こそ酒を飲もう。

 まだ逡巡しているエアの気を逸らすために、カロシュはカイルに矛先を向けた。


「ところで、カイルは何故“ジョシャの証”について知っているんだ? 事と次第によっては只じゃ済ませないんだが?」

「あぁ、私がノーサに来るのは実は今回が3度目なのだよ。先の2回の訪問ではエアは同行していないが、私は他のジョシャやその主にお会いする機会があったし、その時に色々話を聞く機会もあった。その時に教えてもらった。……実は私もうっかりやりそうになって、死にそうな目にあっただけ、なのだけれども」

「お前もか……」


 どこまでも似た主従だと、妙なところで感心する。


「私は大丈夫だった。だからエアも気にしなくてよいよ。ささっ、もう忘れよう。気持ちよく寝て、気持ちを整えて。カロシュの言う通り、明日はいつものように笑って三人で私を窘めて?」

「……窘められることが前提なのは、さすがにどうかと思います、カイル様。しかも三人がかりですか? 明日からは寄り道なしですよ?」

「それも一緒に忘れてくれると嬉しいなぁ」


 少し気持ちに折り合いがついたのか、エアはぎこちなく笑って返事を返す。彼女がカイルに向ける信頼と敬愛が、その心を凪がせるのだろう。表情はまだ固いが、目が緩んでいる。カイルが与えるその安心感が、強ばった彼女を徐々にほぐしてゆくだろう。

 この分だと、明日は心配なさそうだ。もとよりアラムの方は懸念していない。彼は優秀な男だ。


 寝床の岩場に向かう二人を見送った後、カロシュは営火に目を向ける。向き合うのは焔ではなく、やるせない自分の心だ。

 期せずして見せつけられた二つの関係。

 自分が選べなかった「誰かに捧げる忠誠心」を、煩わしいものと感じる自分と羨む自分が居る。常にはアラムから引き起こされる「妬心」としか呼びようのないその心情が、今夜は一際カロシュの心を苛んだ。その理由を考えて、心に棘刺す初めての感情をカロシュは持て余していた。


* * * * *


 アラムは二刻(約4時間)ほどして戻ってきた。弱い営火と星の光だけでは、その表情の細かな機微を追うことはできなかったが、髪が濡れていることに気が付く。どうやら夜だというのに泉で泳いで、文字通り頭を冷やしてきたようだ。彼は時として、後先を考えない行動にでる。

 それ以上身体を冷やさないように営火を強めてやり、嗜んでいた酒の椀を渡す。ノーサでは発酵酒(クミス)果実酒(シャラブ)を飲むことが多いが、これはアルバ産の蒸留酒(ウシュケ)だ。強い酒精が身体を温めてくれるだろう。

 酒は好きじゃないのだけど、と言いつつも素直に椀を受け取り、アラムは営火の側に寄った。『ちゃんと寝たのか?』との問いに『少しはね』と嘘をつくアラムの声は、それでも通常のものに戻りつつあった。これなら明日は大丈夫だろう。


「一応、説明はしておいた。明日はそんな情けない顔をさらすなよ」

「うん、分かってる。面倒なことをお願いしてすまなかったよ、カロシュ」


 振りだけでもいいから夜番の合間も寝ておけ、との指示に肯くのを確認して、カロシュも寝床のある岩場に向かった。

 アラムが整えた寝床は岩場が少しせり出して庇となる草場で、既にカイルは寝付いているようだ。暗闇の中、カロシュの接近にわずかに身じろぐ気配は、夜具を被って横になってはいてもエアがまだ寝ていないことを告げている。


「……アラムは戻った。もう心配ない。少しは寝ないと明日に響くぞ」


 気配を必死に殺して寝たふりをするエアに、小さく声をかける。細く息をのむ音が聞こえる。

 沈黙の中、カロシュも自分の夜具にくるまり横になる。何となく、エア達の方に顔を向けられなかった。


「……アラムは戦士でもあるのですね」


 お互いに背を向けて横になった状態で、夜具越しにエアの微かな声がかけられた。その声にはいつもの強さがない。


「全く反応できませんでした。倒される前も……倒された後も。

 完全に気圧されたのです、騎士である私が。そして恐れたのです。騎士としての私の全身が『彼には敵わない』と感じていました。……正直なところ、そのことにもかなり動揺しています」

「ノーサの案内人は、皆戦える。守り戦うことを主にするのが護衛士で、安全に導くことを主とするのが案内人というだけだ。

 護衛士や案内人も、ノーサに事が起これば戦いに赴く。アラムもノーサの案内人として認められている以上、他国の軍人程度には十分戦える」


 自分には及ばないと感じているが、アラムはノーサの民としても十分に強いはずだ。本人は狩り以外では全く戦おうとしないので、その実力を見たことはない。だが力を持つもの同士、それくらいは感じ取れる。彼女の技量が劣っているというわけでは無いが、彼が本気で戦えばエアよりもきっと強い。

 エアはまだ何か思うところがありそうだったが、そのまま口をつぐんだ。カロシュもそれ以上、何も言わない。


「……もう一つ、訊いていいかしら」


 しばらくの後、静寂を割って意を決したエアのか細い声が、再びカロシュの背にかけられた。今度はカロシュもすぐには答えない。


「何が……一体“何”が貴方を追いつめるの? どうして私やアラムを、そんな目で追うの? 何が貴方の心に陰を呼ぶの?

 貴方は私やアラムを時折、切ないほどの激情で見ることがあります。遠く、過去を追いながら……。貴方の過去に、一体何があったの……?」

「――――それは“一つ”じゃない問いかけだな」


 問われた言葉の意味を追いながら、カロシュは回答を拒否する。聡い彼女ならそれ以上追求してくることはないだろう。


「……話したいと俺が思えれば、いつか話すかも知れない。少なくとも今は話す時じゃない」

「――アラムは、知っているの?」

「話したことはない。だが、あいつのことだ、知っているだろうな」

「…………そう…………」


 思った通り、エアはそれ以上問いかけてくることはなかった。ただ、物寂しそうに嘆息し口を閉ざす。今度こそ本格的に寝たふりに入るのだろう。


 ――――お前たちが羨ましいだけだ。


 そう告げることができれば気は楽になるのだろうか? 熾火のようにくすぶったままの、この苛立ちから逃れることはできるのだろうか?

 『ノーサであること、あり続けることは、ノーサに呪縛されていることと同じだ』――いつだったか、そんな事を言われた記憶がふいに蘇る。誰に言われたのだろう、もう思い出せない。だが、その言葉が持つ淀んだ感情は、再びカロシュの気持ちに陰を落とした。




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会話での説明描写ばかりで、すみません。


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動物が出てこないので、ちょっとした解説など。

<登場人物の名前について>

・ノーサ勢は、“リンガ・フランカ”(通商語)として用いられる言語名や文字名から採っています。「アラム」はアラム文字、「カロシュ」はカローシュティー文字が由来です。

・アルバ勢は、ハイランド地方(英スコットランド)の地名を、英語もしくはゲール語読みしたものから採っています。

 ※カイルの名前は英語読み。「Kyle of Lochalsh」……いつか行きたい。

  「アルバ」は「スコットランド」のゲール語表現。


カロシュとカイル、名前が似てしまったのは偶然でしたが、必然だったのかも。

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