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 ああ、私はキムラの嘘にまんまと引っかかったのか。

 気が付いた後今の自分の置かれた状況を鑑みてから、ずきずきと痛む頭でようやく理解した。


「人を縛ることはしたことあるけど自分がされるとホント最悪の気分」

「仙庭のお姫様はSMプレイがお好みだったか」


 私は埃っぽいコンクリート打ちっぱなしの地面に座らされ両腕を掲げ上げられた状態で両手首とも柱に縛り付けられている。見覚えのない倉庫内と思わしき場所は汚れた大きな機械がいくつか置いてあり、壁際に積み上がったダンボールには数年前に操業停止した印刷工場の社名ロゴが入っていた。

 私を縛る柱の周りに立つ男はキムラを入れて四人、ぐるりと囲むように見下ろしている。そのどれもが口を歪めて悦に入ったような汚らしい笑みを浮かべていた。

 当然、奈津美はここにいないことが分かる。


「俺はなぁ、仙庭」

 私の前にキムラがしゃがみ込む。目線を同じくしてゆっくり語りかけてきた。

「奈津美のこと去年から好きだったんだぜ」

「はあ」

「まあ、もうどうでもいいけどな」

 いいのかよ。

 突拍子もない言葉に心の中で思わず突っ込みを入れる。どうやら、彼の目的はまた別の所にあるようだ。例えば周りを囲む男たちに由来することとか。

「永山たちに遊ばれてたのは知ってたが、お前が縁切ってくれるとは思わなくてさ。試しに誘いをかけたら馬鹿な反応しか返ってこねえし、ムカつく女だぜ」

 奈津美のアドレスまで手に入れて必死に尻尾を振っていたくせによく言う男だ。

「あはは、負け犬」

 言った途端、頬を張られた。女に対する手加減など一切感じさせない叩き方である。

 本来の気性はこちらなのか、学校で見せていたパッとしない男子像とはかけ離れていた。どちらかと言うとこちら側の人間だ。

「勘違いすんなよ」

 ぐっと前髪を鷲掴みにされ上を向かされる。本当に酷い扱い方だ。

「お前を今どうにか出来るのは俺たちだけなんだよ。もっと見せるべき態度ってもんがあるだろ? な?」

 言いながら、何度も頬を往復ビンタされる。ジンジンと熱が引かない顔に連続する痛みが止まらない。


 これは顔の形変わるんじゃないか、そう思い始めた時キムラの後ろから苛立った声が降ってきた。



「お前も勘違いするなよ、木村。勝手していいなんて言った覚えねえぞ」



 低く響くその声はキムラの手を止めるには充分な鋭さを孕んでいた。

「でも、これくらい……」

「見ろ、顔が腫れ上がっちまって。これから撮影すんだから女優にゃ綺麗でいてもらわなきゃ駄目だろ」

 男はニヤリと口角を上げた。こんなトコロまで連れてきて顔を殴られるだけでは済まないようだ。

 私は男たちをじっと見据えて、気づいた。

「……あんたら、うちの組の奴じゃない」

「ようやく気づいたか。ヤクザなんてどれも一緒だなんて思ってたか?」

 男の一人が鼻で笑ってから、私に向かって唾を吐きかける。間髪、頭を逸らして直撃は免れた。

「チッ……生意気なガキが、こんなもんをお守りしろってのが馬鹿な話だぜ」

 立場的にはどの男も蔵野などの舎弟頭より下だが、雑魚というほど末端でもない。組内での派閥争いは娘の私でも多少なりとも関知しており、蔵野一派とは意見が別れる派に属している男たちだろう。

 よく陰口を耳にする。『長が一人娘にばかり執心で組織を鑑みない、組の内外で弱腰と罵られている』と。

 更に居並ぶ男の一人は以前、蔵野と行動しているのを見たことがある。

「あんたは蔵野の弟分だったんじゃないの?」

「子守頭に顎で指図されるのはいい加減飽きたんでな」

 忠義を交わしたことも忘れるほど今の組は重んじるべき伝統が希薄になっているらしい。ヤクザなんて、それくらいが唯一の美徳だったというのにこんな状況になっているとは、私は内心深く嘆いた。

「私なんか痛めつけてもイイコトないと思うんだけど」

 すると男たちはせきを切ったように笑い始めた。

「おいおい、まだお姫様気分か、お嬢よ。ええ?」

「今の時代、職場に不満を抱えたら転職するのがキャリアアップへの近道って言うだろ」

 男の一人が肩を竦めてさも当然のように言う。まるで似合わないインテリのような台詞で呆気にとられた。

「まさか、今更カタギでサラリーマンでも?」

「業界は変わらねえさ」

 蔵野の弟分だった男が胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。ゆっくりと吸い込んで、煙を私に向かって吐き出す。最悪な気分だ。

「ただなあ、職場を移る前に色々と溜まった鬱憤を発散させなきゃ腹が収まらねえ」

 弟分が他の男に目配せする。


「おい、木村。動画で撮ってやるから今すぐこいつ犯せ」


 男の一人がタブレットタイプの携帯電話を取り出して事も無げに言った。

 背中を冷や汗が伝う。

「は? それじゃ俺が映る……」

「ああ? ちゃんと角度考えて撮ってやるよ」

「で、でも……」

「お前、俺達に使われてるってことわきまえてるよな……?」

 ぐっと言葉に詰まるキムラ。明らかな力関係が見えた。

「運びの真似事やって偉くなったか? お前みたいな使い走りいくらでもいるんだぜ」

 一般的に暴力団と言われる組織の下にはいくつか末端で働く者達がいる。そのほとんどが犯罪の幇助をする役目を持っているが組ほど結束や統率された集団ではない場合が多い。

 警察の目を誤魔化す為、薬や拳銃のダミーの密売ルートの一端を担わされたり、現地の学生や浮浪者を雇って運び屋をさせたりする『使い捨て』の駒もその中には含まれる。捕まるリスクは高いが分散させられるのと端金で、それなりの人数を使えるのがメリットだ。

 キムラもそのうちの一人だったのだろう。

「…………くそ、外道どもが」

 キムラは男たちには決して聞こえないように呪詛を吐くと再び私の方へ向き直る。昏い眼差しには卑屈な憤りが見えたが、言われた通りの行動を起こす気でいるのは感じ取れた。

「キムラわんわん君は繋がれっぱなしの飼い犬だったんだ」

「ッ……てめえ!」

 再度キムラの右手が私の頬を捉える。先程よりも強烈な痛みが首にまで響く。

 その衝撃にクラクラしていると、キムラが私の胸ぐらを乱暴に掴んだ。制服のボタンを力任せに千切ってブレザーの前を開けると、シャツに手を掛ける。

「ははっ、良い画撮れてるぜぇ。ちゃんとモザイク掛けてネットで流してやるからよ」

 撮影のカメラに映らないように、携帯を持った男より後ろに他の二人は控えている。弟分は悠然と二本目の煙草を吸い始めた。

 私はすぐ鼻先で息を荒くしているキムラに囁く。この距離ならば男たちに聞かれることはない。

「あの角度、あんたも顔撮られてるよ」

「ッ……くそっ、くそっ」

 シャツがはだけられ顕になった下着をキムラは雑に剥ぎ取りにかかる。恐らくこんな事をしたことがないのだろう、手先が震えで定まっていない。

 私はせめてもの抵抗に身を捩りながら、再びキムラに耳打ちする。

「私のスカートの左ポケットに入ってる奴出して。そしたらこの状況変えてあげるから」

「な、何言ってんだ」

 キムラは動揺と興奮で目を泳がせていた。動きが止まったのを見咎めて男の一人が野次を入れる。

「おいおい、そんな半端な状態じゃ勃たないぜぇ」

 言われてキムラが呻く。

「早く」

 意を決したのか、キムラは私に襲いかかるフリをしてスカートのポケットに手を突っ込んだ。

「!? 携帯かッ……?」

 取り出したものを確認して驚くのを無視して、私はその携帯にぶら下がっているモノに、齧りついた。

「うわッ!?」

 そのまま、紐を引っ張る。


 その可愛らしい見た目とはまるでかけ離れたけたたましい警告アラームが倉庫中に響いた。


「なっ!? お前ら、なにしやがる!」

 キムラは間近で鳴ったその突然の高音アラームに思わず携帯を取り落とした。しかし耳をつんざくような音は鳴り止まない。


「“電源入れなきゃ”音が止まない仕組みだからね」


 呆気にとられたキムラ越しに男たちへ言い放つ。

「クソッ」

 後ろに控えていた男の一人が床に転がった携帯を慌てて拾い上げる。そして言われたままに電源を入れた。

「馬鹿っ、違う!」

 弟分が叫ぶがもう遅い。

「な、なんだ、鳴り止まねえじゃねえか!」

 それもそのはず、防犯ブザーは引っ張った紐の根本のスイッチを回してやらないと音は止まらない。引っかかってくれるか心配だったが、ヤクザは防犯ブザーをよく知らなかったらしい。

「チッ」

 弟分は慌てる男から携帯をひったくり、ブザーのスイッチを回す。そのあと携帯の画面を一瞥してそのまま足元へ叩きつけた。画面の液晶が割れ、飛び散る。

「サツへ連絡が行ってる」

「……のやろうッ!」

 バチッと肉の弾かれる音がしてキムラが床に転がった。

「ちなみに、蔵野たちにも緊急通知が飛んでるよ。さて、警察が来るのが早いかヤクザが来るのが早いか。どっちも怖いね?」

 私は未だ両手を縛られたままだが、嘲るように男たちを見上げる。

「糞ガキがぁ……」

 チェックメイトだ。私は確信し、男たちへ告げる。

「私の鞄、持ってるでしょ。その中に携帯あるから返してよ。それで蔵野たちに電話して、今のブザーは間違いだったって伝えてあげる。あんた達が組に対して何を企んでるか知らないけど、私の縄を解い……」

 そう言い終わらないうちに、私の声は倉庫内に轟く破裂音に掻き消された。

 きぃん、と耳の奥が麻痺したような感覚に、何が起きたのかと見回す。先程まですぐ傍でしゃがみこんでいたキムラが、更に丸くなって蹲っている。

 しんと静まり返った倉庫にキムラの苦しげな喘ぎ声だけが響く。

「……あ、ああ……嘘だろ、嘘だろ……痛い……痛いぃぃ」

 制服から血の滲む左膝を両手で押さえつけて、キムラが悶絶した。彼のいる床の上にじわりと血だまりが広がっていく。

「あーあ、外れちまったよ」

 つまらなそうに一番後ろで控えていた弟分が咥えていた煙草を吐き出した。その右手には小ぶりの黒い拳銃が握られ、私達の方へその銃口を向けている。

「な、なんで……」

 銃。ヤクザなら持っているだろうものを、私はまともに初めてこの目にした。人に向かって発泡されているさまも、不思議なことにヤクザの家に住みながら今の今まで見ることはなかった。

 知らず、背筋がぶるぶると震える。縛られた両手が小刻みに痙攣する。口の中が酷く乾く。

 これが。

 命を握られている緊張感。


 すぐ横で、床に転がるようにキムラが呻いている。

「おい、動くなよ。当たんねえだろ」

 銃口をキムラの頭に定めたまま弟分が歩いてきた。周りの男二人も先ほどの騒ぎから一転、落ち着いて私達を見下ろしている。冷ややかな目つきはこれから行うことへの一切の躊躇を感じさせなかった。

「やめ、やめてよ……どうして、だって」

 知らず唇が震える。私は自分でも自覚できないほど狼狽えた声を出していた。

「るせえな。すぐお前も殺してやるから待ってろ。俺達だってサツが来る前にズラかりたいんだ」

「お前のせいでお楽しみ動画がパァだよ、クソッ」

 携帯カメラを持っていた男が、私の顎をボレーシュートでもするように革靴で蹴り上げた。

「……っ」

 急な動作に歯を食いしばることも出来ず、口の中で激しく歯がぶつかり舌を噛んだ。顔を殴られた時よりもよほど強烈な痛みに涙が滲む。切れたのか、口内が血の味で満たされた。

「おい、こいつ面白いぞ、悲鳴の一つもあげやしねえ」

 痛すぎて声も出ないんだ、とは抗議しようもなかった。

 私の中で、初めての恐怖が身体を支配している。


 なぜ今まで自分は無事だったのだろうと背筋がゾッとした。

 彼らの気分次第ではこんなところでのんびり暴行を受ける前に殺されていた。

 どこか自分には安全が保証されていると思っていた。


 とんでもない馬鹿だ。

 ……これが、報い。


 中途半端にカタギとヤクザの間をうろうろしていたのだ。いや、ヤクザの真似事をしていただけだ。

 人を見下し、嘲り、騙し、犯し、盗み、なお笑っていられたのは私が何も知らない子供で馬鹿な小娘だったからだ。

 これでなぜ偉そうに、誰かを好きだなんて言えただろう。



 顔中の痛みで皮膚が熱くなり、ぼうっとしてくる頭で俯いた顔を隣へ向ける。

 キムラが今にも殺されそうだった。こんなヤクザに関わったばかりに、こいつも馬鹿な男だったんだと思いながら、私の時はせめて一発で頭に当ててほしいなあと引き金に掛かる指をぼんやりと眺めた。


 人生の最後はやけにスローモーションだ。


 恐怖と緊張で摩耗した思考で、そう内心呟いた時。

 銃声が響いた。


「……ぐ、ッあああああああッ」


 隣のキムラではなく、銃を取り落とした男の方から、地の底でのたうつような絶叫。

「……なっ、お前らッ」

 あとの二人はそれぞれ別の暗がりから数人の男が飛びかかり、地面へ張り倒された。もがきがなら驚愕の表情でいつの間にか周りを取り囲んでいる男たちを見つめる。

 どれも屋敷で見た顔の強面で、最後に倉庫に入ってきた男はよく知る顔だった。

「……蔵野」

 どう考えても来るのが早い。私のまとまらない思考で振り返ってもブザーが鳴ってから五分と経っていないはずだった。

 しかし、それでも私の動揺はいまだ収まらず、カチカチと奥歯が鳴っている。乾いた喉で上手く口が回らない。

「拳銃、撃ってきた……あんなの……」

「お嬢、ご無事でなによりです。……いや、酷いお怪我だ」

 近づく蔵野の右手に銃が握られているのを見て、私の身体が一瞬痙攣する。無意識にずりずりと後退ろうとするも、しかし縛られているので身動きができない。荒くなった自分の呼吸のリズムが上手く掴めなかった。

「大丈夫、もう大丈夫ですから」

 蔵野は私の視線に気づいたのか、労るように微笑んで拳銃を懐にしまうと、ゆっくり近づき縛られた両手へ手を掛けた。

 再び震えそうだったが、顔を逸らしてやり過ごす。

「申し訳ありません。もっと早くに着いていれば」

 縄を解き、自由になった私に向かって蔵野が深く跪く。その背は心の奥から反省し、自戒しているように見えた。

「……もう、平気だから……、あの男たちは?」

 周りの男達が逆賊たちを縛り上げているのを横目で眺めながら蔵野に問う。

 途端、蔵野の真っ暗なサングラスが暗く冷徹な光を帯びた。彼の本来の顔つきだ。

「組に連れて帰ってしっかりとケジメをつけさせます」

「…………」

 私は倒れて呻くキムラに目を向ける。そして、すぐ傍らで死んでいるのか生きているのかわからないまま倒れた弟分を見た。

「あいつは……?」言外に、殺さないでほしいと蔵野の目に訴える。

「そうですね……高校生のガキの方は、知り合いの病院に連れて行かせましょう。痛めつけられた以上に自分のやったことを警察に言えるほど豪胆でもないでしょうし」

 とりあえず、身近な人間からの人死はなさそうだと知り、安堵の息をつく。

「……アイツは、もう駄目でしょう」

 冷ややかに吐き捨てる先には動かない男。蔵野が目に掛けていた弟分。血よりも濃い絆を交わしたはずの人間の裏切りに、蔵野はどう思っているのだろうか。

「最近、怪しい動きをしていると思っていたんです」

 ぞろぞろと、拘束された男二人と他の組員たちが連れ立って倉庫から出て行く。実際のところ、警察に捕まるよりヤクザに捕まるほうがよほど恐ろしい。男二人の表情は絶望そのものだった。

「組が架空名義で経営している金融会社の今までの不正行為とおやじへ繋がる証拠諸々……こいつを警察に流して俺たちより上の幹部の首をとらせる――あいつの行動を辿って行ったらそんな動きが見て取れました」

 残った組員でキムラと、弟分を車に運び入れる。キムラは病院へ、恐らく死体であろう男の方は“処理”する為に別の場所へ。

 無造作にトランクへ乗せられる義弟の末路を蔵野は無表情で眺める。

「前々から抗争していて今は停戦中の仁貴会、あるでしょう」

 私が中学の頃に最も激しく小競り合いをしていた組だ。

「仁貴会は内部から瓦解した仙庭組のシマと会社の顧客リストをごっそり頂く。その功労者としてあいつらは仁貴会へ快く迎え入れられる。あいつは平気で仲間を売った。一昔前じゃ考えられねえ、忠義もへったくれもねえ話だ」

 サングラスに隠れて伺えない瞳はどんな色をしているのか、しばらくの間蔵野は天井を見上げていた。


「さあ、早いところ行きましょう。サツがきます」

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