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「また、ぼーっとしてるね。夏バテ? もしかして風邪がぶり返したかな?」
「あ、いや……」
私は右手に持ったまま封を切っていなかった惣菜パンを開けて食べ始める。カサカサしたバンズの食感とハンバーグのぎとっとした舌触りが口の中で喧嘩してなかなか嚥下できない。
お茶を含んで苦労して飲み込むと今度は奈津美が呆けたように携帯の画面を眺めている。
「なんだ、庄谷さんもぼーっとしてるじゃない」
「……泉美ちゃんさあ」
「ぶっ」
急に下の名前で呼ばれた私はお茶を吹き出した。
「もう苗字呼びはよそよそしいよ」
「あ……うん、そうだね」
心のなかではずっと呼び捨てだったが、口に出して言うのはなんだか今更恥ずかしく思う。久しく学校の友達というカテゴリと接していなかったせいか馴れ馴れしく出来る距離感のようなものが掴みづらい。
「な、奈津美……」
「噛まないでよ、こっちが恥ずかしい……」
「ごめん」
「いや、見てるこっちが恥ずかしいわ。あんたら今更呼び方云々でなにやってんの」
養護教諭はちょっと黙っていてほしい。
実際のところ、キョーコさんたちが去ってから気の抜けた日々が続いていた。塚田札奈の周辺では失踪もしくは誘拐事件だと騒ぎが起きているようだが、もう私の関知することではない。
隣の国で無事によろしくやっていることを祈るばかりである。あれ? あの二人って中国語出来たっけ。
「今思えば国外でなくても隠れようはあったかな」
手配されるとリスクが増すが、整形でもしてウチの組の筋に頼ってもらえば――いや、顔にメス入れるのとかキョーコさんは絶対に嫌がりそうだ。ならやはり国外へ放り投げて正解。
「なにを隠すの?」
「めんどくさいレズカップルふたり……っていや、なんでもない、なんでもないです」
いつの間にか傍にきていた奈津美が不思議そうにする。
「あやしい……」
私の中に疑わしい何かを見つけたのか、奈津美はじっと見つめてきた。
「あ、怪しいって……そ、それより、な、奈津美だって最近はよくぼーっとしてるし、怪しいし」
正直、惚れた女の子に黙って見つめられることほど心臓に悪いものはない。私は焦りながら同じ事を聞き返した。
「……それは……」
すると奈津美も歯切れ悪く口ごもる。これは、確かにお互いに隠し事をしている、ということだろうか。
奈津美は俯き逡巡しているようで、なかなか顔を上げない。奥に座っている養護教諭が気になるのかチラリと見てからまた俯く。
これでは埒があかない。
「奈津美、廊下で話そう」
「え……で、でも」
「何か、言いたいこと相談したいことあるなら乗るから」優しく諭す。
「うん……」
私はお互い食べかけの昼ご飯をそのままに、奈津美の手を取り保健室の扉へ向かう。
すると――
「庄谷、いる?」
取手に手を掛ける前にガラリと扉が開いた。危うくぶつかりそうになって私と奈津美はたたらを踏む。
目の前に立っていたのはどこかで見覚えのある男子生徒だった。
彼は私の姿を認めると少し驚き、それから気を取り直したように後ろの奈津美へ声を掛けた。
「……メール、返してくれないから来ちゃっただろ」
「あ、えとごめん……でも、まだ」奈津美が一歩引いたのが見えた。
「なあ、ちょっと俺と話……」
私はそのまま部屋へ入ろうとする男子の行く手を阻んだ。睨みつける。
「奈津美は私と話あるから。あとでどうぞ」
私が不機嫌オーラ全開で慇懃無礼にドアの外へ手を送る仕草をすると、男子は私を見下ろして小さく舌打ちした。
「触んなよレズ」
触れそうになった私の身体を払うように退けて吐き捨てる。
ああ、思い出した。こいつは去年同じクラスだった男子だ。名前はえーと……まあいいや。
「いや、まあレズだけど、そんなツッケンドンにしなくてもさあ」
私はおどけて肩を竦める。奈津美に第三者から私の性的嗜好が伝わってしまったのは誤算であり面白くないところだが、いずれ言うつもりだったしそれはまあいい。
それにしても嫌悪感満載の態度は如何なものか。
「お前、俺が怖がると思ってるんだろ。ヤクザ呼んで気に入らない奴リンチしたっつって噂立ってたもんな」
男子は不遜に笑いながらなぜか挑戦的な姿勢を崩さない。これだから他の生徒と関わるのは嫌なのだ。私が保健室登校している間にイジメの一件からつまらない尾ひれがついたりつかなかったりしていると聞く。主に私の方に悪い噂が水増しされているようだがこれまた失笑モノである。
あ、でもこの間アホな男を二人ばかりリンチしてもらったような。
………………。
「やー、記憶にございません」しらばっくれることにした。
男子はそれでも不敵な態度を崩さず、私をまたいで奈津美に再び声をかけた。
「庄谷、まさか仙庭とつるんでるのか? こっち来て話そう、こいつの素性……」
「だからあんたさぁ、私を飛び越えて奈津美と話さないでって」
私は流石に苛立ちを抑えられずに話に割って入った。ところが、蚊帳の外のように佇んでいた奈津美が意外な声を上げる。
「ごめん、やっぱり私キムラ君とは付き合えない。……私の友達、馬鹿にした」
怒っている、と感じた。
今まで彼女が怒るところを見たことがないので確たることは言えないが、口調の端に刺がある。
再びキムラとやらに顔を戻すと茹で上がったタコのように顔面は真っ赤に染まり、なよなよした見た目によらずプライドが高いのか、握った拳が小刻みに震えていた。
コイツ、偉そうに奈津美に交際を申し込んでいたのか。
「……負け犬さんのお帰りはあちらへ、どうぞ」
私は奈津美に見られないように笑いを噛み殺しながらキムラにとどめを刺す。
「ッ……このッ!!」
一瞬のうちに憤怒したキムラの拳が振り上げられるも私はその場を動かない。奈津美が思わず目を瞑りそうになった時、奥から怒鳴り声が響いた。
「コラァ!! そこの男子!」
キムラはその声にびくっ、と動作を急停止した。仰ぐ先には養護教諭が腕を組んでの仁王立ち。
「校内で暴力沙汰起こしたらどうなるか、わかってるわね?」
「……っ、く…………すいません」
歯軋りしながらキムラは頭を下げた。学校内の権力者たる教師の前で不届きはさすがに出来ないらしい。私はその様子をニヤついて眺めていたが、やってきた養護教諭にパコンと頭を叩かれた。
「あんたも。なに煽ってんの」
「やー、まあ」
おざなりに頭を下げていると奈津美が悲しそうにこちらを見ていた。キムラはいつの間にか退散したらしい。
「ごめんね。……あんな酷いこと言う人だと思わなかった」
「いや、まあ……おおかた真実っちゃ真実なんだけど……」ぼそぼそと後ろ暗い気持ちで呟く。
「もしかしてぼーっとしてた原因ってアレ?」
奈津美は消沈しながら頷いた。
やはり、改めて奈津美に自分のことを伝えるべきだと思った。こういうのは勢いに乗ってさらりと言ってしまったほうがいい。養護教諭にも聞かれてしまうがこの際許容する。
「ごめん、……まあそんな感じで私レズだから」
一呼吸おいて、チラリと奈津美を伺う。表情は平静そのものだった。
「そうなんだ」
…………うん?
一応それなりに気を張って告白したが、思ったよりも軽い反応に戸惑う。
「……あれ? ええと、困らない?」
「え? どうして?」
問い返されて、はたとなる。どうも最近は世間の目とか偏見とかそういった声の大きいものを気にして敏感になっていたが、別にレズが友達でも困りはしない。
というか、ヤクザ関係のほうが困る気がする。
「ああ……その、」
ただ、奈津美の場合、ヤクザの娘なんですと言っても同じように「そうなんだ」と返してきそうな予感があった。
「いや、……困らないなら、いいよ」
「うん。泉美は、私の大事な友達だもん」
屈託なく笑う様は風に揺れるアマリリスのよう。
私は、ひとつ大事な言いそびれを口にできずに少しだけ後悔した。
奈津美のこと、好きなんだよ。
その一言が今はすごく遠い。
「どうでもいいけど、昼休み終わってるから庄谷は教室帰りなさいねー」
またしても養護教諭の一言が私を目の前の現実へ連れ戻した。
放課後。
これといってクラスのお友達と遊びに出かけるといった華やかな予定も無いので私はいつものように時間をずらしてから昇降口へ向かう。
「…………仙庭ァ」
下駄箱で靴を履き替え、ピロティに出た所で柱の一つからゆらりと人影が姿を現した。負け犬ことキムラだった。
昼休み、教師に一喝され情けなく退散した姿とは打って変わってその目は据わっており、今にも噛み付こうとする野良犬を思わせる。
「え、なに、逆恨みとか勘弁して欲しいんだけど……」
私はげんなりしながらキムラを一瞥する。失恋した男の見苦しさはなかなか見るに耐えない。
「お前、自分に出来ないことないと思ってるだろぉ」
そんなことはない。出来ないことだらけでがんじがらめだ。そう伝えたとしてもキムラは大人しくはならないだろう。
「ちょっと付き合えよ」
「え、やだし……」
こんな敵意むき出しの男と二人きりでいたいとは思えない。まして、昼間のいざこざによると私の素性を詳しく知っている風でもあった。
あまり近づきたくないのが本音だ。
「そう言うなよ……」
不敵に笑いながらキムラが顎をしゃくると、ずっと柱の影に控えていたのか非常にガラの悪い男二人が出てきた。どちらも着崩した暗色のスーツに身を包み無言で佇む。
周辺で部活動をしている生徒からも見えるようで、物々しい雰囲気の男たちを遠目に声を潜めている。
「面倒臭いの連れてきたね……どう見てもカタギじゃない」
普段近くで過ごす男たちの空気は一般人のそれとだいぶ違う。私も幼い頃からそんな環境で育ってきたので見分ける目は持っていた。
「別に断ってもいいけどよ」
校庭の向こうから訝しんだ顧問の教師がこちらへ歩いてくるのを目の端で確認し、キムラが厭らしい笑みを浮かべながら続ける。
「庄谷が会いたがってるからさ」
――奈津美はなんでこう、本当に、どうしようもない男に好かれる質なんだろうか。
「は? なにそれ――」私はキムラに向かって詰め寄った。
しかし、すぐ目の前というところで突然視界が暗転する。
後から息が止まるほど鋭い痛みが後頭部に広がって、そのまま意識を失った。




