7
*
「……あ」
微かな頭痛で耳の奥が詰まったように周りの音がぼんやりとする。寝汗がひどく気持ち悪い。
額にひんやりとしたシートが張り付いていて、そこだけ心地よかった。
「庄谷、さん」
「先生、起きたみたいです」
ベッドの隣に椅子を置いて座っていたらしい奈津美が私の顔を覗きこんだあと、カーテンの向こうにいる養護教諭に向かって言った。
「オッケー。今行くわ」
今が何時なのか判別がつかないがカーテン越しに見える明かりは蛍光灯が強く、窓からの採光は感じられなかった。
ふと左手に暖かさを感じて見ると奈津美が私の手を握っている。
「あ……」
「なんか、うなされてたから……ごめんね」
そう言って手を離そうとしたのを、握り返して止めた。殆ど無意識だった。
「あ、あれ? ご、ごめん」
「いいよ。病気の時って不安になるもん。うちの妹も風邪引くとすごい甘えん坊」
微笑む奈津美に私はますます居心地が悪くなってシーツに顔を埋める。不意に見せられた母性的な横顔に不覚ながら顔が熱くなった。風邪のせいだ。
「あんた達……風邪移っても知らないわよ」
いつから眺めていたのか、奈津美の背後に経っていた養護教諭が呆れた。今日の彼女は呆れた顔しか見ていない。
「熱、下がってよかったね」
「ちょっとまだだるいけど」
タクシー呼ぶかと聞かれたが歩いて帰るのに支障はないので辞退した。それでも心配だという奈津美が私の自宅まで送ってくれることになったのが言葉には出さないがどうにも嬉しい。
日はすっかり暮れて夕闇色が空を覆っている。こんな長い時間まで彼女は私に付き添っていてくれたらしい。その事実に気付いて、嬉しさと申し訳無さが混同する。
「私なんか放っといてよかったのに」
詳細は覚えていないが暗い夢にうなされていたせいで思わず卑屈な物言いになった。
「放っとけなかったっていうか……私はけっこう尽くすタイプだからね」
そう言ってお茶目な感じに笑う彼女に私はまたしても嫌なことを思い出す。奈津美はこういう子なのだ、苛々するほど相手のために何かしてあげるという無償の奉仕を自然となんの抵抗もなく続ける。
だから、馬鹿な男に捕まるんだ。そんな言葉を喉につかえさせて、口ごもる。
夢見が悪かったせいか、些細な事で心が波立つ。
「あとはまあ、……ちょっと、仙庭さんの顔見て落ち着きたかったて言うか」
「うん?」
唐突に不思議なことを言う奈津美に私は苛立ちも忘れて呆ける。
「あっ、その、うなされて寝てるとは思ってたなかったから、ほんと、意地悪な意味じゃないよ」
「……話が見えないんだけど」
「な、ないしょ……」
慌てたように奈津美は背を向けた。
「この辺りだよね、仙庭さんの家」
ああ、いつの間にか自宅近くまで歩いていた。学校へ徒歩通学できる距離をこれほど後悔したことはない。
もう少し、奈津美と話をしたかった。
好きだと言いたい。
私を、彼女の中で認めて貰いたい。
ようやく友達という自然な関係を手に入れられたのに、私の心は急いたままだった。二人きりという状況がよくないのかもしれない。私はまだ彼女に何一つ自分のことを話していないのに。
「ありがと、ここでいい」
私は精一杯の言葉を絞り出すと、まだ背を向けたままの奈津美に声を掛けた。
「あ、そうなの、えっと……お大事に」
振り返った奈津美が、どこか名残惜しそうにして見えるのは私の願望だろうか。
まだ頭のなかの熱は抜けきっていないようだった。
「ん、ありがとう。もし、移してたらごめんね」
「全然ヘーキだよ! 私ほら、あんまり風邪ひかないから」
「あー…………すごくわかる」
「えっ、なんか今すごく失礼なこと言われた気がするよ!?」
驚く奈津美に笑って、じゃあと手を振る。
このままだと本当に帰したくなくなる。私はマンションの玄関まで振り返らずに逃げ帰った。
この扉を開けると実はもうバーなんて無く、空っぽの店舗があるんじゃないかとあながち低くない確率の未来を想像して取っ手にかかる手に少し迷いがでた。
そこを背後から急に声をかけられた私は、心臓が飛びでるんじゃないかというくらい驚いて情けない悲鳴をあげたのである。
「……いっきなり……でかい声出すんじゃないよ」
「て、テンチョーおおおぉ、びっくりさせないでくださいよぉ」
一週間と経っていないくらいなのに久々に思える店長の顔に心底安心する。しかし、向こうはそうも思っていないようだった。
「ったく、帰巣本能の働いた犬じゃあるまいし、なんで何度も追い出すのにやってくるかねこの子は」
「店員減って大変だと聞いたので助っ人に……」
「帰れ!」
私と店長がそう言いながらじゃれていると、後からやってきたカンナさんが諦め顔で私達をそのまま店へ招き入れた。
「ほんと酷いと思いません? ほんの数年生まれるのが遅かっただけでこの態度の変わりよう。自分の歳は絶対教えてくれないくせに」
鋭い眼光がカウンターから飛んでくる。だが私はそんなものに屈しない。
「警察来ちゃったらうちのほうが言い逃れ出来ないからね……」
「やーまあ、確かにテンチョーたちにはご迷惑お掛けできませんけど……」
特にヤクザの一人娘を働かせてたなんてなると更に話はややこしくなる。
しかたなく、私は断腸の思いで引き下がることにした。
「ったく。……ほら」
すると店長がカウンターに肘を付いていた私の前にグラスを置いた。色合いから見るにオレンジ系。
「遊びに来るだけならジュースで充分だろ?」
思わずカンナさんを見る。
「夜遅くまでは困るけど、ね」
その可愛らしいウィンクに、つい胸がときめきそうになったのは内緒だ。
呼び出した喫茶店に一足早くついていた黒髪の少女に私は恐る恐る声を掛けた。
「塚田、札奈ちゃん?」
振り返った少女は有名私立の制服を着ていたが、その幼い顔立ちは小学生と言っても通用する感じだった。
ただ、私は彼女のあられもない姿を事故的に一度見てしまっている。そう考えると大きく丸い瞳や子供らしさを残すふっくらとした唇すらどこか淫靡に見え、大人を惑わす少女の色香に繋がるようで思わず目を逸らした。
「……メールの人ですよね」
「そうそう。急にごめんね」
まだ警戒心を解かない札奈に私は出来るだけ無害そうに笑いかける。
キョーコさんがまだ寝ている間に、こっそり携帯を拝借し札奈と思しきアドレスを自分の携帯にコピーしておいた。携帯にロックを掛けないキョーコさんが悪い。
「もう、学校通えるんだ。何年?」
「……二年です」
二年。中学二年か。……やっぱりあの人ロリコンじゃないかと項垂れる。
「あの、香子さんの知り合いって」
「うん、そうだよ」
札奈はどこか周りを気にする風に声を潜め私に問いかけて、そうだとわかると目を伏せた。
「……香子さんに、会えるって」
「うん……」
一か八か、私はキョーコさんがそれほど想う相手の少女に会ってみようと思った。
キョーコさんや他人の口からしか語られない女の子は、果たして今何を思っているのか。死を願うほど追い詰められて、それでも生き残ってしまった彼女は次に何を願うのか。
これは私の勝手なお節介だ。
私は、キョーコさんが私の知っているキョーコさんであって欲しいと思っている。勝手なイメージを押し付けるのは私が自己中心的で勝手な人間だからだ。
少なくとも、私はあれでキョーコさんと別れたくない。彼女は恐らく私たちの前から姿を消す。地方にあるという実家に帰るのか、どこか違う都市へ行くのかは分からないが、十以上も歳の離れた少女と心中未遂をしたなどという犯罪者のレッテルを背負ったまま一人でいなくなろうとしている。
「私の両親が、香子さんを訴えようとしてるんです。私は嫌だって言うのに、勝手に」
そう、いつだって本人たちの気持ちなんて知ろうとしない。周りは勝手なのだ。
そして、その勝手をどうすることも出来ないくらい彼女は子供だ。
「……香子さんは、きっと失敗するつもりだったんだと思う」
ぽつり、と札奈が呟いた。
「シティホテルで、一泊しかしなかったからすぐにホテルの人に見つかるってわかってたんです」
「発見が早くてよかった、って聞いたよ」
私が言うと彼女は自嘲めいた笑みを浮かべる。
「私が死にたいなんて言ったから」
「私の馬鹿なお願いを聞いて、それで決めたんですよ。……私が香子さんから離れるための方法」
札奈とキョーコさんの出会いはおよそ二年前に遡る。
中学受験の日、通勤の人々に紛れて札奈はホームのベンチで座って教科書を開いていた。そして、鞄の置き引き被害にあう。
たまたまジュースバーからその様子を見ていた香子さんが犯人を追いかけて捕まえてくれた。
試験前で急いでいたこともあり、鉄道警察に引き渡すことをせず、キョーコさんは機転を利かせて送り出してくれることまでした。
突然のことにパニックになりそうなところを大丈夫だよと安心させるように頭を撫でてくれた。
受験に合格後、毎日同じホームに通った。最初はその時のお礼を言うだけのつもりだったが、気さくな性格のキョーコさんは電車の待ち時間の楽しい話し相手になってくれた。
段々、いつもより早くホームに着くようになっていた。少しでも長く彼女と話をしていたかったから。
「いつ好きになったのかは、覚えてないです。もしかしたら、助けてくれたあの時からだったかも」
告白は二度目でOKを貰った。中一の冬。
キョーコさんも最初は戸惑ったらしい。可愛い妹分のように思っていたから、そういう気持ちになることはないと釘を差されていた。
「……私、けっこう頑張りましたよ」
何をどう頑張ったかは聞かないでおいた。多分、キョーコさんは少女性愛の気が少なからずあったに違いない。でなければ法を犯してまで札奈と付き合おうとは思わない。……はず。
そうして、世間や親の目を忍んで育んできた二人の想いが社会に受け入れられない類のものだと怯え始める。
例えば、札奈がキョーコさんと同じ歳で、社会に出ている身分だったとしたら結果は違っていたと思う。
札奈は未だ保護されるべき子供で、自分の意見や主張に成人ほどの説得力は無く、ともすればキョーコさんが子供を拐かした犯罪者であることは今の法律から考えて覆らない事実だ。
札奈はまだキョーコさんに会うべきではなかった。結論だけ言うとそうなるが、私はそんな事実は認めたくない。
何故なら私もまた子供だからだ。法律で制限された生活を強いされる未成年で、我儘を声高に主張することしかできないガキだ。
だが、その立場や生まれは不平等という名の不公平で作られている。
私はその不公平の中ではある程度恵まれた立場で、法律の及ばぬよう行使できる力があった。
「キョーコさんに逢いたい?」
「……誰よりも」
「その身一つで何もかも捨てられる覚悟はある?」
「香子さんさえいれば、私はなんでも捨てられます」
子供が熱に浮かれて言っただけの言葉だと、後から撤回はさせない。
私は自分勝手なのだ。
「逢いに行こうか、キョーコさんに」
「あ…………はいっ!」
「やー荷物まとめてたんですね、ちょうどよかった。タイミングばっちり、最高です」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってなにこのヤクザさんぽい人たち!?」
アパートから出てくるキョーコさんを私は捕まえた。引き連れてきたのはうちの組員だがまあ流石に初対面だと構えてしまうほどに纏う空気が違う。札奈もここに来るまで終始息でも止めていたのかと思うほど青い顔をしていた。
「お嬢、こういうことはホントにもう最初で最後にしてくださいよ」
「うんうん、蔵野には感謝してる。うちの父親にもよく言っておくから」
私は蔵野から偽造パスポートを二人分受け取ると、目を白黒させているキョーコさんに無理矢理持たせた。それから、後ろに控えていた札奈を引きずり出す。
逢いたいと言ってた割に消極的な少女はおっかなびっくりキョーコさんの前に立った。
「香子、さん……」
「札奈……うそ、なんで……」
ぎゅう、と札奈を抱きしめるキョーコさん。私の時なんかよりよほど繊細なガラス細工を扱うようだった。
ひとしきり再開を喜んだ二人の間をそろりと割って入る。
「二人に楽しい旅行のお知らせです」
「え?」キョーコさんは涙を拭きながら私を見返す。
「あんたら二人とも、国外へ駆け落ちしやがれ」
「…………はあああ?」
少しの間の後、キョーコさんが叫んだ。
「たぶん、日本とは違うんで人とか結構死んだりする事件がそこらじゅうで起こると思います。あと物がよく爆発します。それでも?」
「いいよ」
「北京は空気が超絶悪いです。煙草なんて吸ってられないと思うんでそこは覚悟してください。いいですか?」
「……いいよ」
「あと、出来るだけ非合法なことには関わらせないようにしますけど、日本への密入国の手伝いとかさせちゃったらごめんなさい」
「いや、それは流石に……」
「何がなんでも二人で生きていきたいんですよね?」
「……はい」
しおらしく答えるキョーコさんの珍しい態度を少しのからかいを混ぜて楽しんだ後、私は後ろに無言で控えていた男たちに目配せした。
「空港まで、お送りします」
黒塗りセダンの後部ドアが開けられ、招き入れるような男の礼儀正しい対応に、キョーコさんは私と何度も見比べて、
「これ乗ったら知らない国で内蔵売られるとかないよね……?」と不安げに訊いた。
「私のメンツにかけてそんなことしません。ああ、あと」
私は一枚のメモをキョーコさんのトランクに挟む。
「向こうに行ったらこの口座からお金が振り込まれます。当面の生活費には困らないくらいは入りますよ」
「お嬢、それは聞いてませんが……」
「あ、お金は私のポケットマネーなので大丈夫」
蔵野がサングラスの下から戸惑うような眼差しを向ける。何の答えも得られないので諦めたのか、溜め息を付いて二人を乗せた車のドアを閉めた。
発車する前に窓だけ開けてキョーコさんが顔を出した。
「泉美……」
「なんですかもう。会えなくなるの、実は結構寂しいんで勢いで早く行っちゃって欲しいんですけど」
キョーコさんは困ったように笑うと、すぐに表情を引き締めて頷いた。
「ありがとう。絶対、捕まったりしないよ」右手が差し出される。けれど私はその手を握らない。
「はい。逃げて下さい。どこまでも」
私達はこれでいいんだと主張して下さい。
そう言って、車から離れた。キョーコさんもそのままだった手を引っ込めて窓を閉める。
隣にいる少女を護るには片手じゃ足りない。
これから彼女たちが生きていく世界は笑いながら握手を出来るほど優しくはない。
ゆっくりとタイヤが回る。平凡な住宅街に物々しい防弾車が列を連ねる。
私は車列が遠く角を曲がって見えなくなるまで見送った。
「知ってますか、キョーコさん。悲しいことに世の中はお金さえあれば結構大抵のことはどうにでもなるんですよ」
私は“快く”ポケットマネーを提供してくれたアケミちゃんに心のなかでお礼を言いながら、ますます外道らしさに泊が付いてしまった己の身を振り返る。
実にヤクザの娘らしい。
私はやはり、彼女を好きになるには汚れが過ぎているのかもしれない。




