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「で。心中未遂の人間に恋愛相談しに来たの、キミは」
「……別にもう病人でもないでしょう。お店、辞めたんですか」
私は今度こそスウェットを入れた紙袋を持ってキョーコさんの家に来た。
病院で会った時より顔色は良く、相変わらず美味しそうに煙草を吸っていた。ただ、疲れたようなその顔は雰囲気だけで数年老けこんだように見える。本人には言えるわけもないが。
「迷惑かけちゃったからね。じきここも引き払う」
「そうですか……」
この件に関しては私からは何も言えることはなかった。私から触れられる問題でもないし、彼女の中にあった気持ちや覚悟、未来をどうこう言える立場ではないと思ったのだ。
「こんな人生失敗した性犯罪者になんのアドバイス求めてるのさ?」
「……なんか、卑屈になってません?」
キョーコさんはハァ、と盛大に溜息をついてから煙を吸うとこれまた盛大に私に副流煙を吹きかけた。私が煙を嫌がるのを知っての行為。子供じみた反撃に私はむせながら睨みつける。
「やーでも、泣いてるキョーコさん初めて見ましたけどなんていうかこう、普段カッコイイ女性の涙ってグッと来ますね。私ちょっと動揺しちゃったじゃないですか」
するとキョーコさんは少し頬を赤らめ思わぬ仕返しに黙り込んだ。キョーコさんの涙にショックだったのはそうだが実際そんなことを思える余裕はあの病室にはなかった。けれど今なら染み付いた消毒液の臭いに支配されたあの陰湿な空気はない。多少、健康を害する煙が漂っているが。
「あんたは気が多すぎるんだよ。見境い無さすぎ」ようやく口を開いたかと思えばこれである。
「失礼な。好きなタイプくらいありますよ」
今度は私がむくれる。キョーコさんはくすりと笑って煙を吐いた。
いつもと同じ仕草なのに、あの日以来どこか精彩を欠いた瞳が消えていく紫煙を追った。この人の心には閉じることのない穴が空いている。人生をかけて空けてしまった大きすぎる穴。
「ふうん……でも私はタイプじゃないんでしょ?」キョーコさんはおどけたように言う。
そうですね、と返してから私は手を伸ばしてキョーコさんの唇から煙草を抜き取り灰皿へ落とした。訝しむ目をしながら私を見返すキョーコさんに身体ごと寄せる。
「じゃあ……キョーコさんにとって、私は好みの範疇ですか?」
「なに、一体どうし――」
言い終わる前に彼女の唇に自分のそれを押し当てた。案の定、苦いような煙の味が鼻を抜けて眉を寄せる。それでも構わず口付けを続けながら座ったままのキョーコさんを床に押し倒した。両手を彼女の頭の横に突いてバランスを取る。
「……おかしいな、あんたの恋愛相談じゃなかったの」
「そうですよ。久々に本気で悩んでます。もう、頭から離れないんですよ彼女の顔」
「じゃあこの体勢って矛盾してない?」
してないです、と返して私は再び彼女の唇に顔を寄せた。お互いの漏れた吐息が鼻先にかかる。
「ただの、人恋しさとか。性欲とか。そういうのだったら本気じゃないってわかると思うんですよ」
「おいおい、ぶっ飛んだな、ガキンチョ」
「キョーコさんは、ガキンチョが好みなんでしょ?」
馬鹿言わないの、とキョーコさんが私の肩と腰を抑えてぐるっと横に倒した。反転する視界。今度は彼女が天井の照明を背負う形になる。どうも、やはり体格的にこちらのほうが分が悪いらしい。
「……こんなことしてもなんにもならないよ」
「もし私がキョーコさんの好みなら慰めるくらいなら出来ますよ」
言いながら私はキョーコさんの背中に腕を回す。ピク、と触れられた肌に反応した。キョーコさんは、こういう事に熱心な方だと思っている。昼間からハードなプレイを楽しむ程度には性的倒錯している感もある。見上げる顔には僅かに動揺が見られた。
「……私、キョーコさんにすごく恩義感じてるの知ってますか?」
「そんなの、後生大事に胸にしまっててよ」
「簡単にしまえないくらい、溢れてるんですよ」
「……そりゃどうも」
照れたのか不機嫌そうな口調でも口元が緩んでいるのが少し可愛かった。逆光のため目が慣れてくるまで表情が窺いにくかったが私を見下ろす瞳は優しく、だがどこか寂しさを感じる。
「……私、たぶんあの子が好きなんです。私って人の気持ちとか結構簡単に踏みにじったり騙したり出来るし、自分の欲望に忠実に色々やっちゃう性分なんですけど、まともに本気で、好きになりたいって思った子なんです」
目を閉じて奈津美の顔を思い浮かべる。暖かい気持ちと、どうにかしてしまいたい気持ちがぐちゃぐちゃに混ざって結局よくわからなくなった。一緒に居る時より彼女を考える気持ちが強い。言葉にしてみることで、その想いが形を持って身体の中に灯ったようだった。これはいよいよ落ちたのかもしれない。
ゆっくり目を開けるとキョーコさんの瞳は縋るように私を見ていた。
「私も、……そうだね、そうだったよ……好きだった」
苦しそうに呻く。私を見つめる先に、きっと違う誰かを見ている。
「どうにかなっちゃいそうなんですよ、私」
「どうにかしてほしい?」
キョーコさんの唇が近づく。かかった息は熱かった。
「優しく強姦してくれるなら」
言ってから、本当にバイストフィリアだったら困るなぁと考えて、それでも構わないくらいにはキョーコさんのことが好きだからまあいいか、と触れる唇に合わせて瞼を閉じた。
「水、飲みます?」
私は先ほど目を覚ましたばかりのキョーコさんに、ちゃぶ台に置きっ放しにしてあったミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。
「ん、ありがと。……ぬるい」
「冷蔵庫に入れてないのが悪いんじゃ……」
「百円あげるからファンタ買ってきてよ。オレンジ」
「こんな格好で行けるわけないし、百円じゃファンタ買えないです」
「ちぇ……」
キョーコさんは子供のように口を尖らせ残りの水を飲み始める。ああ、私の分無いのか。
「シャワー借りていいですか?」
「いいけど、着替えはないよ」
「む……」
もしかしたらあるかも知れないが、その場合は上下スウェットという形で送り出されてしまうかもしれない。いくらヤクザの娘だからといって花も恥じらうお年ごろ、そんな格好で電車に乗って帰りたくはない。
蔵野たちを呼びつけるか。あいつら暇そうだし。
ヤクザの車をタクシー代わりにしようかと画策していると、キョーコさんに肩を叩かれて振り返った。
「んっ」
急に迫ってきた顔に反応する間もなく唇を合わせられる。器用に舌でこじ開けられた口内に生ぬるい水が流れ込んだ。そのまま抵抗なく飲み込む。
身を離すと彼女はイタズラが成功した子供のようにニヤッと笑って、ペットボトルに残った水を飲み干した。
これは、油断したら惚れるなぁと僅かに心拍が早くなった胸を押さえる。
シーツから見えるキョーコさんの色っぽい肩をぼんやりと見つめて先ほどまでの行為が頭をよぎった。
興奮に任せて見たこともないグロテスクな道具を持ち出してきた時にはさすがにそれは勘弁して下さいと懇願したが、それ以外はキョーコさんは本当に優しく私を抱いた。それも殆ど彼女の独壇場だった。あの人は驚くほど敏感な部分を探り当てるのが上手い。さすが女たらし。
その女たらしが一度だけ、私のことを札奈、と呼んで呻いた。
私はキョーコさんの与える気持ち良さに頭が半分飛んでいたが、そこだけは聞き取れた。恐らく、きっとキョーコさんの人生を変えた穴ぼこの原因。
「……で、わかったの?」
「なにがですか?」
私は仕方なくシャワーは自宅に帰ってからにしようと乱れた身だしなみを整えていた。
キョーコさんは未だベッドの中で寝煙草をしながらぼんやりしている。
「あんたがご執心の子への本気度」
「……そりゃもうキョーコさんには悪いですけど」
二人の人間が、そのどちらも相手のことではなく遠く赤の他人のことを思いながら行為に及んでいたなんて、なかなか背徳的で不義理だなぁと苦笑した。
だるい。
キョーコさんの部屋を訪れた翌日、変わらず保健室登校をしたがどうにも調子が上がらない。そんなに暑い日ではないのに頭の奥が熱を持ってジンジンと疼く。生憎自宅には体温計を置いてなかったので体感でしかないが平熱より上がっていることは確実だった。それに身体中の節々が軋むように痛い。
まさかキョーコさん性病持ちだったのかと一時は恐れ慄いたが、よくよく考えるとこれは風邪の症状に近い気がする。
「はあ……風邪ひいたなら学校来なくていいのよ」
体温計を摘んで一瞥しながら呆れた声が降ってきた。私は自宅のよりいくらか硬いベッドに寝かせられながらぼんやりする頭で養護教諭を見た。肩を竦めて電子体温計の表示窓を私に見せる。三十九度三分。
「やー、でもここ保健室だからちょうどいいかなって」
「馬鹿なこと言ってないで、薬飲んで寝ときなさい」
シャーッとカーテンの引かれる音が耳にぐらぐらと響き天井が回るような錯覚がひどく気持ち悪い。混濁した思考がゆっくりと暗く落ちていくので、きっと薬が効き始めたのだと思い、私は吐きそうな気分のまま無理矢理瞼を閉じた。
*
「ヤクザヤクザって世間は言いますけどね。カタギにゃ手ぇ出したりしませんよ」
「俺たちだって矜持がある。むしろ、そのへんの奴より仁義を重んじる。立派なお仕事なんすよ、お嬢」
「分かったから、そういう物騒な車で私のまわり走らないでよ」
私はいかつい男たちが乗る防弾ガラスを備えた黒塗りのセダンをしっしと手で追い払って歩き出す。
親の過保護は娘の私ですら呆れ返るほどに手厚く、SPまがいの下っ端を学校の登下校に寄越してくるほど次元がずれている。
今は近隣の組といざこざの真っ最中らしく、余計に私の身辺に対して過剰な心配を寄せていた。そんなことをするから殊更に物騒になるとどうしてわからないのだろうか。
「泉美!」
彼女の姿と声を聞いて、私はそんな不機嫌から一転、自然と笑みがこぼれる。
「ごめん、待たせた。今日は図書館だっけ」
「うん、期末まであと少しだからね、ちょっと気合い入れないと」
「やー夏過ぎたらもう受験しか考えられないとかだるくなるねえ」
「泉美、サボりぐせ直さないとホント危ないからね?」
「んー……そうだね、そろそろ本気だす。美花と同じ高校行きたいもん」
そう言って美花を見返す。言われた彼女はすぐさま嬉しそうに笑って頷いた。
「じゃあ、頑張らないとね」
「ん」
蝉がジリジリと鳴きながらこの夏最後の求愛をしている。いや、虫には本能しか無いから愛とかはないんだろうか。じゃあ何のために生きているのか。
妙に哲学的な問題を茹だった頭でぼんやり考えていると、隣の美花が課題を解く手を止めていた。
「ねえ、泉美の家って……」
「ん? どうしたの?」
「……ううん。なんでもない。……次どこ行こうか」
図書館で勉強するのもいいが毎回同じ場所だと面白みに欠ける。となると、どちらかの家になるわけだが……
「また美花ん家でいいかな? うちよりクーラーの効き良いし」
「うん、いいよ……でも、泉美の家は駄目なの?」
「やー……うちは今ちょっと」
「そっか」
別に隠し事をするつもりはないが、いかつい男しかいない屋敷に招き入れるのはどうかという常識くらいは持っていた。
それに、美花の家で勉強するのが好きだった。彼女の内面に繋がるものに触れていられるようで、どこかドキドキしてくる。実はそれでは殆ど勉強にならないがその空間で美花と過ごせるのと天秤にかけたらほんの些細な問題なのだ。
「えへへ、美花ん家のおばさんのクッキー超美味しかったからね」
「もー、もしかしていつもそれ狙ってたの?」
私はごく普通の家庭に少なからず憧れがあったし、何より彼女の家族も含めいつでも暖かく私を迎えてくれるのが嬉しかった。
「美花のこと、好き。……ごめん、私そういう人だったみたい」
心臓がばくばくしている。頭を下げながら、彼女が拒絶したらこのまま死んでしまえるかもしれないと思った。
友達のままでいられるのを我慢出来るほど私は出来た人間ではなかった。友達のままであったらいつまでも楽しく笑いあえるが、それでは心と身体が飢えて死んでしまう。私は蝉のように死ぬ覚悟をしてでも彼女に求愛をする。
「泉美……」
悲しいとも、怒っているともつかない静かな声。あるいは戸惑いが部屋の空気を震わせていた。
こんなところで告白してしまったのも後先考えない自分を叱ってやりたい。美花の母親が作ってくれたクッキーに手を付ける前に泣きながら部屋を出て行くハメにはなりたくないが、正直なところ勝算はまるで無く期待感は絶望的に薄かった。
でも、好きで、好きで、もうどうしようもないから。
「私を好きってことは、……その。そういうことも、したいんだよ、ね」
思いもかけないところから質問が飛んできて私はますます背を丸めた。意外と直球なことを聞いてくる。
「うん……キスしたいし、その……それ以上のことも、たぶん、したい……」
視界の端に見える彼女の膝が震えた気がした。私は頭を下げているせいか顔中に血が昇っているようでくらくらした。耳が熱い。
「……いいよ」
「そうだよね、ダメだよね……え?」
思わず顔を上げる。
一瞬、美花が泣いてるように見えたが彼女はすぐさま私に微笑んだ。柔らかい、私を見つめる瞳は私を受け入れてくれる眼差し。
「私も……泉美のこと、好きだから」
ああ、私も好きだよ。美花が好きだよ。誰よりも好きなんだよ。
「嘘だよ」
だから、ねえ、お願いだからそんなこと言わないでよ。
「俺たちだって矜持がある。むしろ、そのへんの奴より仁義を重んじる。立派なお仕事なんすよ、お嬢」
うちは関係ない。家も、性別も、美花を好きなことになんの関係もない。だから、ねえ。
「嘘だよ」
ああ、やっぱり私は酷い人間かな。
ヤクザって生まれた時から外道なのかな。
そうだよね、だって、私は誰を傷つけたって、苦しめたって、結局は自分のしたいことだけやって笑ってられる人間なんだ。
女の子? 好きに出来るならいくらでもやりたいね。
だって脅せばなんでも出来るじゃない。
最低? そんなのわかってるよ。子供じゃないんだから。でもそういう風に出来てるんだよ世の中なんて。
親が死んだ? ああ、ごめんね、ほんとにごめんね。うちの家業最悪だからさ。
ほんとに、ごめん。
ごめん。
ごめんなさい……




