5
*
「え、あれっ……? 仙庭……さん?」
学校に来ていれば顔を合わせることはあると思っていた。なにせ、彼女は鈍くさいらしいのだ。
頻繁に生傷を拵えては保健室へやってくる。小学生か。
「やー。学校同じだったんだ」
へらへらと笑いながら出迎える私を見て、奈津美は飛び上がらんばかりに驚いていた。ちなみに養護教諭は席を外している為、私と彼女の二人だけである。
「ひどいよ、仙庭さん! 着拒したでしょ!」
ああ、そういえばそんなことしたかもしれない。あの日別れたすぐ後に虚ろな頭でそんな設定をした覚えがある。
「ごめんごめん。間違えてしちゃったかも」
悪びれもせず謝る私に奈津美は肩を落として溜息を吐いた。
「それより、腕、どうしたの。擦りむいちゃった?」
「あ……えと、さっきワックスかけたばっかの床で滑っちゃって」
どんくさー……という言葉を飲み込み、私は養護教諭がいないこといい事に勝手知ったる保健室の棚を物色する。
「いいの? 勝手に」
「私は特別待遇だからねー」
もちろん勝手に生徒を治療していいなんて許可は下りていないが。
適当に見繕って、以前怪我してやってきた生徒への処置を思い出す。
「……っううう」患部に消毒液を染み込ませた綿をピンセットで近づけると奈津美が呻いた。まだ触れてもいないのに随分な怖がりようだ。
「はーい痛くしますよー」
「それはやだぁー!」思わず腕を引っ込める奈津美。
「そんなこといっても、消毒しないと絆創膏貼れないよ?」
「……舐めておくからいい」
「人間の口の中の雑菌の数知ったら多分後悔するよ」壁に張り出されている保健推進ポスターを見ながら言う。
回れ右しようとしていた頭がぎこちなく戻ってきた。観念したように奈津美は再び腕を差し出した。
「なるべく、痛くしないで」
「それは保証できないかなぁ。私先生じゃないし」
「え? 保健委員とかじゃないの?」
驚く奈津美に、私も違う意味で少なからず驚いた。何故私がここにいるのか知らない様子だった。
「あれ? 私のことって噂になってたりしないの?」
「仙庭さんって……有名人?」
「……どうだろう」
首を傾げる奈津美に、私も思わず反対向きへ首を傾げる。クラスが遠いと案外と不登校の生徒の名前まで聞こえてこないらしい。
それはそれで好都合だと思い直し、私は何気ない風を装って質問した。
「そういえば、彼氏とは上手くいってるの?」
途端、項垂れる奈津美。
「…………フラれました。ていうか、メールも電話も出てくれなくて、学校でも避けられちゃって。これは駄目だなぁと」
これで目の前の彼女は再び売り出し中の好物件になったのである。そんな下衆い思考がふと頭を掠めて自嘲した。
「そっかそっか。それは悲しいねー」
「し、しみる、しみるー!」
私はなんとも言えない気分で傷口に綿の消毒液を染み込ませる。奈津美は座りながら地団駄した。
「ほらほら、そんな暴れると垂れちゃうよ」
「……おまけにこんな生傷作って、ほんと最近イイコトないよ……」
「そのうちあるかもよ?」
絆創膏を張りながら私はまたしても無意識に根拠のない言葉を垂れ流した。悪癖だ。
「たとえば……?」案の定、胡乱げに突っ込みを入れてくる奈津美に対して私は少しだけ考えて、答えた。
「今ならなんと、怪我をしても絆創膏を貼ってくれる私と友達になれる権利が与えられます。ほら、イイコトあったでしょ」
すると、今度こそ奈津美はきょとんとして、それから悲しげに眉を下げた。
「もう友達だと思ってたんだけど」
「ぅえッ!?」
変な声が出た。
あれ、なんで私顔が熱いんだ。手のひらで頬を触る。おかしい。おかしいな?
なんだか自分の発言が恥ずかしいもののように思えて私は奈津美から目を逸らした。
「『えっ』て、なに? もしかして私の一方通行だったの?」
「いや、まあ……その……」
むしろ当初は私の方がナンパしようとしてたんだけど。そう言いたくなるのをぐっと飲み込む。
こういう不意打ちは酷い。どうしようもなく照れて、嬉しいのに少しだけ悲しくなる。
まるで恋愛対象じゃないからこそ言える台詞だ。こんなことでいちいち一喜一憂してどうする。いい加減自分の嗜好が自虐的に過ぎることを反省すべきだろう。
「――で、なんでそこのお二人はお医者さんゴッコやってるのかしら?」
突然の背後からのドスの利いた声に飛び上がる。振り向くと用事を済ませて帰ってきた養護教諭が居た。
私の持つ治療器具と彼女の腕の絆創膏を見比べながら溜息をつく。
奈津美との会話の続きも有耶無耶のまま、私達は養護教諭から有難いお小言を頂いたのである。
次の日も、その次の日も彼女はやってきた。
「仙庭さんてなんで授業受けないの?」
すごく純真そうな瞳で問う奈津美に私はまたしても驚きを通り越して呆れた。
「なんで、ってそういうデリケートな部分を率直に訊くんだ……」
「だって、仙庭さん普通に元気そうじゃない。クーラー効いた部屋で、いいなぁ」
まるで仮病を使ってズル休みをする子供を羨ましがるような言い方に流石の私もイラッと来た。
「いいわけないでしょ。教室にいられないからここにいるんだけど」
「私、仙庭さんだったらイジメとか全然余裕な人だと思ってた」心外である。
「あいにく、私のハートは取り扱い注意のガラス製で、プレパラートより脆いんだよ?」
「あれ、割ると先生に怒られたよねー」
奈津美がけらけらと笑う。つい釣られて私も思い出し笑いをした。
「授業中三枚も割って反省文書かされたなぁ。同じ班の子からは白い目で見られたっけ」
「や、それは割り過ぎでしょ……」
それならば私の心が奈津美によって都合三回は割られることになる。笑えない。
「ん、でもそっか。仙庭さんの事情は分かった!」
ちょっとまて、何一つ話していないが。
奈津美は何故か一人納得すると、立ち上がる。私は置いてきぼりな気分で奈津美を見上げた。
「明日から、お昼はここで食べるね」
「え、そんな」
同情じみたことをしなくてもいいのに。
そう言いそうになるのを奈津美の顔を見て引っ込める。憐れみの目が向けられていると思ったが、反してその顔は楽しそうだった。その笑顔に、屈託がなさ過ぎてドキッとする。
「じゃあ、また明日」
言いたいことを言ってスッキリしたのか、彼女は颯爽と保健室を出て行った。あれでまた転ばなければいいが。
「……いい友だち出来たじゃない」
奥のデスクで書類仕事をしながら存在感を消していた養護教諭が余計な一言を言う。人生経験が多い大人独特の余裕ぶった言い回しに私は少し苛立った。
「別に、学校でそういうのいらないですけど」
「その割にはここ最近ちゃんと学校来てたのはどこの不登校児かしら。素直じゃない子ねー」
ぐぬ、と二の句を継げない自分に更に苛立ちを覚えながら、確かに保健室で誰かを待とうなんて気持ちが少なからず自分の中にあったことに動揺する。
ちがう、待っていたわけじゃない。
どうせ、店には行けないし家にいてもつまらないから――そう理由付けをしていきながら決定的に否定出来ない自分の甘さに項垂れる。
ああ、駄目だ、この流れはダメだ。
あんな子、本気になっちゃいけない。思えば思うほど奈津美の顔が頭のなかでチラついた。
まるで世間知らずで馬鹿で、駄目な男に引っかかって、よく転んで、見ててハラハラするというのを通り越して苛立ちすら覚える。
だが、放っておけない。これは庇護欲なのか、形を変えた支配欲なのかもよくわからない。
ああ、あんな子本気になっちゃいけない。




