4
都立病院に入院しているキョーコさんを訪ねに行ったのは『ブレイクショット』に顔を出した次の日だった。
店長が質の悪い冗談でも吐いて私を遠ざけようとしていたのかと思ってキョーコさんの部屋に行ったが、誰も出てくれなかった。
私があまりに何度もインターホンを鳴らすので訝しんだ隣人のおじさんが玄関から顔を出した。見咎められた恥ずかしさで我に返り、それでも気を取り直して話しかける。
おじさんは眉をひそめたまま「警察が来たからなんか事件でも起こしたんじゃないの、隣」とぶっきらぼうに返してから今度こそドアを固く閉ざした。
「私さあ、煙草はいいけどお酒全然駄目でさ。店でも飲んでないでしょ。アルコール入れてたらヤバかったって」
「……煙草だって消極的な自殺だと思いますけど」
病室の扉を開けるのが恐ろしかったのが数分前。意を決して力を込めるとドアはするすると開き、いくつか閉まったカーテンのベッドが見えて少しだけホッとした。扉から見て窓際の右奥にキョーコさんはいた。
いつもの調子で、何の憂いも無さそうな顔で、世間話でもするように自殺失敗の原因を語る。気持ちが悪いほどキョーコさんは普段と変わらない。ただ顔色だけが病人のそれらしく酷く悪い。
それに気づいたのか、キョーコさんはふいと顔を逸らして窓の外を眺める。私も白いシーツに目を落とした。
「ああ、吸いたいなぁ。だるくてしょうがないよ」
「今まで不摂生した分を取り戻すいい機会ですよ。ついでに禁煙治療もしてもらったらどうですか?」
いつものように言葉を返す。空々しい気分だ。私は何しにここへ来たんだ。返そうと思ってたスウェットも、持って来ていないのに。
「笑いにきたの?」
急に降ってきた言葉は作り物じみた空気を壊すには充分な冷たさを孕んでいた。
来る前に店長が少しだけ話してくれた。
キョーコさんは、付き合っていた女の子と死のうとしたらしい。
幸い、ふたりとも一命を取り留めたが、相手方の親が烈火の如く怒っているとの話。
「…………なんで」
そんな馬鹿なことを、とかあんなに幸せそうだったじゃないですかとか、そんな言葉も投げかけられないくらい、振り返ったキョーコさんの顔にはゾッとするほど表情がなかった。
何もない。空洞みたいな瞳が私を見つめる。こんなキョーコさんは知らない。
「私じゃ、あの子を幸せにできなかったから」
「どこにも、行けなかったから」
「あの子も、それを知ってて、だから私は離れるべきだった。でも」
「じゃあ、私を幸せにできないなら一緒に死んでよって」
乾いた笑い声が消毒液臭い空気を震わせる。こんなところ、もう一分一秒も居たくない。
「……それなら叶えてあげられると思っちゃった」
糸が切れた人形のように、肩から崩れ落ちる。
あんなに強そうだった人が、脆くて弱い女の子みたいにベッドへ頭を垂れる。
震える腕で自らの両肩を抱くと、嗚咽した。
「もう逢えない。……逢えないよぉ」
*
「仙庭って、嘘、マジであの仙庭? これの?」
言いながら頬に親指で線を引くような仕草。怖いもの知らずな子供のような無邪気さで彼らが噂するのは私の実家のことだろう。
高校へ上がってからは家から大分離れた場所で一人暮らしをしていたが、血の繋がりは薄れない。多少無理して受けた学区外受験だったが、やはり狭い地域の中での悪あがきに過ぎないのだ。
私にはこれといって大きな問題ではなかったし、そんな話題はひと月もすれば学校行事がどうのだの、あの先生が気に食わないだの当たり障りの無い会話に変わると思っていた。
「知ってる? 仙庭さんの、中学の時の友達……お父さんが……」
「私、その話一緒に塾行ってた子に聞いたんだけど……仙庭さんって、アレらしいじゃん……それで」
「……やだ、私だったら絶対ムリ」
「友達、かわいそう。ていうか、それ絶対許せない」
有象無象の囁き声は程なくして目に見える形に変わった。
一部女子を中心として、挙げるのも下らない嫌がらせの数々が飽きもせず毎日のように続いた。他は無関心の層。
嫌がらせといっても、彼女たちにとってはそれは正義の断罪に近かった。
ヤクザの娘を学校に置いていいのか、変な薬を勧められた奴はいないか、奴の周囲に気をつけろ、そんなようなことを声高に話す。他の生徒を守っているつもりでいたのかもしれない。
最初は親しく接していたクラスメイトも私を伺うような目に変わっていったかと思ったらいつの間にか中心グループの女子の中に混ざっていた。これといって悪口や陰口を言うわけではない。ただ、距離をとるという一番罪悪感のない選択肢だ。
とうとう私は面倒になって、ある日のホームルームで手を挙げた。
「あの、すいません。私いま鈴木さんたちのグループにいじめられてるんですけど、なんとかしてもらえませんかね」
その場の凍りつきようは面白かった。真面目な顔を作っているのが困難なくらい吹き出すのを我慢していた。
口を開けてこちらを見るいじめグループの顔はリアクション芸人さながらである。ちょっとだけ鈴木さんのことが好きになってしまった。
そして、その日の緊急職員会議は紛糾したという。
職員会議で取り沙汰されたのは恐らく噂になっている私の家業のことで、私の処遇に困り果てた学校側の戸惑いが透けて見えた。だから一つの妥協案を提示することにした。
私はいじめによって不登校になるのではなく、あくまで自分自身の内面の問題から保健室登校を希望する。それが平和的解決に最も近い手段だった。
実家にいじめなんてあったと知れた日には両親は黙っていないだろう。学校への圧力、いじめグループの粛清、可愛い愛娘を貶めた輩には絶対に手を抜かない、カタギだろうが関係ない。ケジメをつけさせる。
やくざ者に対する世間との軋轢を考えれば過剰とも言える思いだったが、待ち望んだ末遅くに出来た一人娘は何よりも溺愛する対象だったらしい。
そうして私は特別待遇を手に入れ、面倒な人間関係からも隔絶されることに成功した。
もともと、何かに期待していたわけではない。うんざりするほど自身の特殊性を理解していたので尚更だ。
自然と学校へ行く日も少なくなり、暇を埋めるためにどこでもなく街へ出た。
ある時期、暇を持て余した挙句に凝っていたことの一つが気まぐれに乗った山手線で一眠りして起きた駅で降りて散策するという時間を最大限に無駄遣いした暇つぶしだった。
ラッシュを避けて乗り込み、携帯ゲームで遊んだり漫画を読みながら眠くなったら寝落ちし、目が覚めた時に降りる。下手に漫画喫茶へ行くより経済的な上、無駄に東京の地理に詳しくなれるという。
ある日微睡みの中一度チラリと目に見えた駅の名前が新宿。一つ、暇を持て余す更なる余興を思い付いた。
もう一回寝て、起きて新宿だったら降りてみよう。一周するのに一時間程かかるので、運がいいとまた同じ駅だ。最近では自分の睡眠サイクルも把握できるようになってきた。
降りたら噂の二丁目とやらに行ってみようか。自分と同じ嗜好の人々が居る街は、きっと退屈な今より楽しいだろう。
そんな風に考えながら再びうとうとして、次に意識が浮上する時には予想していなかった事が起きた。
「……お嬢」
薄く目を開けると目前に威圧感のある大男。柄が悪くて血色もあまり良くない強面が眉をへの字に下げて私を見下ろしていた。
こいつは、実家で見たことがある。蔵野の傍でうろちょろしてる奴だ。
「こんなところで、何して――」
「っ……触んないでよ!」
寝起きの機嫌の悪さと無粋なプライバシーの侵害を感じて私は思わず声を荒げた。ラッシュの時間を過ぎていたからか車中にはそれほど客はいなかったが私の声を聞き咎めた何人かが不思議そうに視線をやって、逸らした。
柄の悪い男とそれに食いかかる少女の組み合わせは、多分日常生活では望まないトラブルの種だろう。
車掌の車内アナウンスが次は新宿と告げる。悔しいことにコイツに起こしてもらわなければ乗り過ごしていたかもしれない。それすら苛立ちとなって、私は男を睨み上げる。男は困惑しているのかそれ以上言葉を継げられないでいた。
車内が僅かに振動し、ブレーキの制動が身体にかかる。
新宿、新宿――お忘れ物のないようにお気をつけください
アナウンスが響き、ドアが開く。外で待ち構えた人々が車内に乗り込もうとしているのが目の端に映り、そして――急に腕を引っ張られた。
「おいで」
え、と言う暇もなく私は横からやってきた細い腕に手を引かれ、するりと男の前から抜け出した。
呆然と私を見送る男と目があって、そして目の前でドアが閉まる。私は電車の外に居た。
「大丈夫? 変なことされなかった?」
振り返ると長身で、モデルみたいなスタイルの美人なお姉さん。カッコイイけど、通った鼻筋とその奥に見える双眸はドキッとする程色っぽい。私は自分が思ったより小心なのだと実感した。掴まれた肌が熱い。
「やー……どうも。たすかりました」
実は知り合いでしたと言えるような空気ではない。そもそも、険悪な空気を出していたのはこっちなのだし、ここは誤魔化すことにした。
「でもよく突っかかる気になったね。それっぽい家業の人に見えたけど」
まあ、アレうちの下っ端なんで。
とは言えないだろう。私は変に詮索されないうちにその場を去ろうとした。
――が、動けない。
「あの、腕……」
まだ掴まれたままの腕は解かれていなくて、無意識に囚われたように感じた。それは、彼女の目が私をまっすぐ見つめていることからも起因している。むやみにドキドキしているのを見破られそうで、また鼓動が早くなった。
そこまで後ろ暗いことはないのに、彼女の目にはそうさせる気のようなものがあった。こういう目に弱い女の子、居るだろうな。そう思って、なぜそう感じたのか不思議になる。
「あんたさあ、山手線ぐるぐる回ってたでしょ。暇なの?」
僅かに首を傾げて問われた。まさか、そんなところまで見られているとは思っていなかった。
「え、や。……なんで知ってるんです。ちなみに特に意味はなかったんですけど」
呆れたように彼女は手を離した。離れる体温に少し安堵する。
「やっぱ暇なんじゃない。私、昼間はそこのジュースバーで働いてるから、同じ子が日がな一日ずっと寝ながら回ってるの気づいちゃったわけ」
指差す先にはたまに私も買いに行くホーム上にあるジュースバー。気づかれたからにはなおさら恥ずかしい。
「……実は山手線の座席の乗り心地をモニターするお仕事を」
「今流行のニートか……」
初対面の人間に結構失礼を言う人だ。顎に手を当て勝手に考えこんでいる彼女を無視して立ち去ろうとしたら、
「ああ、名前言ってなかった。私、雫月香子。よろしく」と自己紹介されてしまう。
「え、ああ、仙庭泉美です。え、まだなにか御用ですか?」
戸惑いながらも返す言葉できちんと挨拶した私に香子と名乗った女性が爽やかに笑う。
「暇してんでしょ? うちの店で働かない?」
……あのジュースバーで?
私は曖昧な笑みを浮かべた。
「二丁目にあるからって身構えなくていいよ。バーって言っても色んな人来るし。まあ、ウチは完全レディースオンリーだから変に酔っ払った男連中とか面白半分の冷やかしは来ないと思うけど」
二丁目に、連れて行かれてしまった。
知らない人に着いて行くなときつく両親から箴言されていたのを頭の片隅に追いやって、思ったよりアッサリと思い描いていた世界へと足を踏み入れた。
ビリヤード台が真っ二つになっている、非常にクールなカウンターには三十代後半と思われる女性がニコニコしてこちらを見ている。気のいい姉御、といった風体だった。
「急に前の子が辞めちゃってさ。ちょうど人手不足だったんだ。女の子だったら誰でも歓迎だよ」
私の外見は高校生に見られていないようだった。童顔ではないので、ある程度化粧すれば二十歳くらいには見えるのだろう。あわよくば、書類も偽装してしまえば気づかれずにここで働かせてもらえそうな雰囲気である。
それにしても、とカウンターの女性がニヤついてキョーコさんを見た。
「この子は可愛いけど、あんたが引っ掛けてくるのはもっと年下だと思ってたわ」
「……店長、そーいうことはホント言わないでくださいよ」
困ったように微笑むキョーコさんの顔を見て、合点がいく。ああ、なるほどあのちょっとドキドキする目は女たらしの目だったのか。
「キョーコさんのタイプじゃなくて残念ですけど、私もキョーコさんはタイプじゃないので気にしなくていいですよ」
おや、と目を丸くする店長と得心したように笑うキョーコさん。同類を嗅ぎ分ける何かが、あるんだろうか。
「店長、この生意気なニートに社会ってものを教えてやりましょうか」
「よぉーし、じゃあまずはイイ女の見分け方から」
「いや、そこでボケなくていいんで……」
適当な人たちだ、と思いながら心の奥から笑いがこみ上げてくる。
温かい気持ちで顔が綻ぶのはいつ以来だろう。
ここでは何を気にする必要もない。私が何であるかは関係ない。
個と個の繋がりだけで成り立つ街。世間から煙たがられたり、からかわれたりしても意に介さない強さを街のエネルギーとして毎夜を越していく。
キョーコさんは、そんな街に連れてきてくれたのだ。
あの時、電車で掴まれた腕が暖かい。
力強い瞳で見つめて、あの人混みだらけの電車の中から私を見出してくれたことは、今でも感謝という言葉では表しきれない。
だから、あんなに脆いキョーコさんは、私の知る彼女ではなかった。




