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今日でテスト期間が終了した。
私立ではないためテスト休みなんてシステムは存在しないがここからしばらくは気の抜けたような空気が学校を満たすだろう。
割とすぐに迫っている期末テストの存在も今は忘れてもいい、それが学生というものよと養護教諭は私のテスト用紙を回収しながら遥か昔のことに思いを馳せているようだった。
「ちょっとこれ職員室に届けに行くから、少し待っててくれる?」
用紙の束を抱えて出て行く。私はすぐに立ち上がり、彼女のいつも掛けているデスクへ近寄った。目当ては生徒の来室、罹患記録。
机上に雑然と置いてある書類の脇にそれらしいバインダーがあった。軽くめくっていくとおよそ一ヶ月分の記録。近い日付から遡っていく。記録の所々にその名前はあった。本当にドジな子らしい。最新の日付にはこう書かれている。
庄谷奈津美。体育科の授業の際、足を擦りむいたので来室。
「……案外、近くに咲いてたんだ」
自分でも嬉しいのかどうかよく分からない気分だった。
ただ、クズみたいな人間に先に見つけられて踏み躙られていたという不快感で気持ちが悪い。
関わらなきゃよかったという後悔と、何故か胸の奥でふつふつと湧いてくる嗜虐的な感情がアンバランスに感じた。ああ、だから私は面倒な性質の人間なんだろう。
踏み躙って苦しめることで心を満たすのは人間である限り切り離せない欲求だ。
そうでなくても、人は誰かを支配したくなる。
私だって、彼女が欲しかったのだ。
*
「ね、私のこと、ほんとに好き?」
好きだよ、当たり前じゃない。そういう答えを期待して、望み通りのものが手に入るだろうと半ば確信していた問い。これは、ただの確認作業なのだと思った。
けれど、彼女は目を伏せて顔を上げない。どうしてだろう、言葉に詰まるような聞き方をしたつもりはないのに。私が気づかないだけで困るようなことを言ってしまったんだろうか。
「…………ごめん、……ごめんなさい」
いつの間にか、涙を流して許しを請う姿に私はひどく動揺した。
微笑み合って、キスをして、それから少しのこと。幸せな恋人同士のそれだったはずなのに、どうして彼女は泣いているんだ。
私は彼女を壁に押し付けた。
「こっち向いてよ」顎に手をかけて、まっすぐこちらの瞳に映るように捉える。
「……泉美、」
何かを言いかけた彼女の唇を塞ぐ。
長く、あまりの長さに彼女が身じろいで私の肩に手を掛けたあたりで身体を離した。お互いに不足した酸素を取り込む。肩で息をしながら私はまた問うた。
「私のこと、好きだよね?」
一瞬の嫌悪。逸らした視線にその感情を読み取り、私は目の奥が熱くなって同時に体が冷えるのを感じた。こんなに近くにいるのに、彼女の暖かさを見失う。もしかしたらそれは、私が勝手にそう感じていただけの温もりだったのだろうか。
「私もう転校するんだ」
そんなことか、と私は呆れた。それと、私と彼女が恋人同士であることに関係はない。そう反論しようとして、けれど彼女の次の言葉に塞がれる。
「お父さんの会社はね、泉美のお父さんの会社から沢山借金してたんだよ。泉美は知らなかったかもしれないけど……」
うちの父……父はそう、確かに“金融業も”営んでいる。借金、それは知らなかった。けれど金を貸すのが仕事なだけだ、そういう契約をして商売をする企業なのだ、問題はないはずだ。
私と、彼女の間に挟む事情じゃない。
「私は、泉美とは友達でいたかったよ」
「私は……好きだよ。友達としてじゃなく、好き。愛してる」
「……やめて、やめてよ」
耳を塞ぐ。拒絶の意。
「どうして、私も好きって、言ってくれたのは……」
「嘘だよ……」
彼女の父は首を吊っていた。
忙しい世間のニュースはそんなことをいちいち報道はしない。けれど、父の会社について誰もが黒い噂を囁く。
私は、ずっと関係無いと思っていた。身内の出自や世間の目など関係なく私は個の人間として生きていると思っていた。
自分が誰になんの影響を与えるかなんて考えられない幼子だったのだ。
*
だから、今の私は全ての立場を理解した上で、最低の手段も厭わない。
「ナオミちゃんって言ったっけ」
「……ぅあ……ご、ごめんなさ……」
髭面の男に後ろで両腕を羽交い絞めされた少女がガクガクと膝を揺らしている。首筋には柄の悪そうな男がナイフを押し当てていた。
「あ、違う。アケミちゃんか」
私はクルクルとストラップを摘んで携帯を回す。過剰にデコったデザインはもちろん私の趣味じゃない。
回していた携帯を片手に納めて画面を開く。ポチポチと操作してからアケミの目の高さに持っていく。
「お友達のアドレスってどれ? いつもつるんでる男二人」
「あ、あの……許して、ごめん……ほんとに……」
恐怖心からか上手く舌が回らないようで蚊の鳴くような声が痛々しい。それでも私の心は微塵も動かなかった。
「やー聞こえなかったかな。あいつらのアドレス、どれよ」
開いたままの携帯を眉間に押し付ける。自由を奪われている彼女はされるがままだ。ようやく質問を理解したのか男の名前を震えながら呟いた。
私は自身に芽生えた支配欲に少なからず酔いながら、携帯を操作して二人を別の場所へ呼び出す旨のメールを送信した。彼女に対する彼らの態度を見る限り反古にすることはないだろう。
「さて……」
再び自分に矛先が向いたと気づいたのかアケミの身体がビクリと震える。
「ここに、すごく気持ち良くなれるお薬があります。飲むよね?」ポケットから小指の先ほどの大きさに折り畳まれたパラフィン紙を取り出す。
アケミは首だけを小刻みに振った。
私は彼女の後ろと横にいる男に目配せして顔以外身動き一つ出来ないように再度拘束させた。
「んんッ……んー!」
アケミの肩に手を置いて、私は薬を口に含むと彼女の唇をこじ開けて舌を入れた。口内で錠剤の表面を舌で転がしながら少し溶かす。
噛まれる前に、薬だけ喉の奥に押し込んで唾液を流し息が出来ないように鼻も押さえて、そのまま無理矢理嚥下させた。
「……っは」
解放された彼女が愕然としたような顔をしてから、しきりにえづく様を一瞥して、後ろに控えていたサングラスを掛けた男の一人、蔵野に話しかけた。
「じゃあ、あとはこっちで適当にやるから帰っていいよ。ありがと」
「……あまり遊びが過ぎるとおやじが心配しますよ」
「いいよ。だってどうせ組の中で暇な誰かが私のこといつも見てるんでしょ。GPSケータイなんて電源切ってれば何の役にも立たないもんね」
「お嬢が変なところへ出入りしてなければ誰も見張りなんて」
「私は、そういう変なところが大好きなんだよ」
指定暴力団鷹尾組を一次団体とした、地元のシマを預かる仙庭組の舎弟頭は苦笑しながら車に乗り込み、静かに去っていった。
子供の遊びと少なからず蔑まれている自覚はある。組の中には私にへりくだるのをよしとしない連中もいるが、蔵野たちは長の望むことに忠実になれる男だ。
アケミを拘束していた男たちも同様に安っぽいクーペに乗り込んでエンジンを掛ける。私が先ほどメールで指定した場所に向かうのだ。ちょっと過ぎた子供のお遊びを注意してもらう予定である。
特に彼女と“付き合っている”男は念入りに叱ってやらなければならない。同情じみた思いを中途半端に垂れ流していた様を思い出して苛々する。見た目は可愛いし、どうせ付き合っているうちに好きになったんだろう。そういうのも鬱陶しさではトップクラスだから私の目に入らないようにしてもらう。
「やー良い感じになってきた?」
私は床に仰臥したアケミをじっと見つめる。取り乱していた時と違い大人しく横たわっており恐怖を張り付けていた顔は赤く、扇情的に瞳を潤ませていた。激しい運動をした後のように呼吸が乱れている状態に驚いているようで、私に縋るような眼差しを向ける。
「……っは、これ……どういう……やだ、いやだぁ……」
「大丈夫、気持ち良くなるっていったでしょ? 痛くしないから」
いつだったかのキョーコさんのような台詞が口をついて出て、言ってから苦笑した。
「アケミちゃんはさぁ、クズみたいな性根の曲がった性格ブスだけど顔は割と私の好みなんだよ」
アケミが恐怖からなのか、敏感になった五感に刺激が強すぎるのか、顔を歪ませる。
ああ、可愛いなぁと思う私も相当歪んでいるんだろう。
「さ、じゃあちょっと……楽しもっか」
視界に映る天井がぐらぐらと廻る。目が覚めてからしばらくは最悪な気分だったが部屋にあったミネラルウォーターを片っ端から飲んで寝たら割合良くなった。
寝返りを打つと部屋の向こうからピーッという機械音が聞こえた。洗濯機が動作を終了したのだ。
「ちょっとやり過ぎたかなあ」
私は枕元に置いていた携帯を開いて画面をつらつらと眺める。昨晩の楽しかった遊びが記録されていた。
どうやら彼女に飲ませた薬の影響が私にも出たのか最後の方はなかなか、記憶が定かではないほど脳が痺れていた。それでもちゃんと撮影を怠らなかったのは我ながら感心である。
「アケミちゃんお望みのハメ撮り、綺麗に撮れてるよ」
一通り確認してから興味を失って、携帯をベッドに放り立ち上がった。
「やーこっちもばっちり」
最近導入した乾燥付き洗濯機の威力を満足げに眺めて、紙袋へスウェットをしまう。
私はリビングでぐしゃぐしゃに置きっぱなしになっていた衣服をまとめてニューカマーの中へ放り込んだ。量が多かったので何度か往復するはめになった。
一人暮らしの高校生が住むにはやや広すぎるマンションだが、実家の息苦しい空気を吸うよりかは数百倍もマシだ。心配症な親が何度か強面の男を使いに遣らせてきて辟易したこともあったが無理を言って一人暮らしを認めさせた代償としてはごくごく軽いものなので気にしない。
私の気分は外の天気と違って澄んでいた。青空とまではいかないけれど重く濁った雲は消えている。
奈津美を解放した。
それでどうということは無いし、私の自己満足の範疇だが苛立ちと嫌悪感は大分薄れていた。
よっぽど私の顔が意外だったのか、しばらく目を見開いたまま店長は固まった。
「……もう来んなっつったでしょー。あんたの頭は鳥なのか、ニワトリだったのか」
レディースオンリーの看板を掲げる新宿二丁目雑居ビルのワンフロア。あの日追い出された朝から、既に懐かしいような気分を感じている。
『ブレイクショット』なんて名前をしているのにあろうことか真っ二つにしたビリヤード台でバーカウンターを構成している頭のおかしい店だ。本当はビリヤード台とテーブル、カウンターを設えた内装にしたかったらしいが、思ったよりも店が手狭でそんなものを置けるスペースがなかったという経緯から大胆なインテリアに行き着いたという。
「やーこないだまで身を粉にして働いてた従業員に対してその台詞はさすがに泣いちゃうんですけど」
「年齢詐称してた輩が言うかね。あんた、学校は」
「定期テストを保健室で受ければオッケーっていう特別待遇なんですよねー。ほら、最近の学校って子供に対してちょーデリケートだから」
「うちはアンタみたいな半端モンを雇う気はないよ。きちんと学校行って、卒業してからもう一回来な。もしそんとき成人してたら一杯ぐらいは奢ってやるよ」
「やーそんな未来の話今されてもよくわかんないですし、その時になったらもしかしたらこのお店潰れて」「よぉーし、歯ァー食いしばれー」
「店長、店長、暴力駄目、ゼッタイ!」慌ててカンナさんが止めに入る。振り上げられた拳による傷害事件は未然に防がれた。
「でも、店長の言うこともほんとだからね。泉美ちゃん、法律はちゃんと守らないと」
私より背の低い、古株スタッフのカンナさんが子供に言い聞かせる母親のように優しく諭す。今日はこの二人が店にいるようだった。
「あれ、キョーコさんは? 今日シフトでしょ?」
店長は私の声が聞こえなかったのか、開店準備の手を止めない。まだ歳じゃないと思っていたが耳から老化し始めたのか。
「やー、テンチョー聞いてます?」
「香子…………今、病院だよ」
「えっ?」
ガシャン、と沢山のグラスが入った籠を流しへ置く。
テーブルを拭くカンナさんの方へ振り向いたら、意識してなのか私から目を逸らしたように見えた。
「あの馬鹿、自殺したんだよ」




