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一週間ほど学校を休んで、私は鏡の前に立った。
酷かった顔の腫れはほぼ引いており、化粧をすればいつもどおりの顔つきだ。
「……最低限、怪しまれなければいいか」
学校では、放課後生徒がガラの悪い連中にさらわれたという噂が目撃者の証言も有り瞬く間に広がったが、私が休んでいる間に収束したようだった。もともと休みがちな上、保健室登校の生徒である。組から学校へ手を回すのは容易かったのだろう。
今回私が助かったのは運が良かったに過ぎない。
一般人よりも血の気の多い連中と近しい限り、一週間前の出来事はいつでも起こる。
私は、自分が面倒な性質で人間的にも褒められた人格ではないという特殊性を理解していたが、その比にならないほど自身を取り巻く環境は特殊で血なまぐさいことを知った。
もし、これが白昼の学校で、保健室で、新宿のバーで、起こりえることだったら私は――。
自分の出自を今更恨みはしないが、無力な小娘であることに絶望する。
「ここで潮時かな」
保健室へ顔を出すといつものようにエアコンの冷気が身体に溜まった熱を冷やしてくれた。
夏休みも近くなりますます暑さが厳しくなってくるこの頃、冷暖房のない学校の中で数少ない癒しの場だった。この季節になると、大した用もないのに涼みに来る生徒もちらほらいるが今日は養護教諭一人が相変わらずデスクへ向かっているだけだった。
「おー。また久しぶりねえ」
「どーも」
私は自分用のイスを引いて座りながら、しばしテーブルに突っ伏して涼をとった。ひんやりした表面が冷たくて気持ちがいい。
「庄谷、毎日来てたよ」
「……そうですか。あの子もこんなとこばっか来てると友達いなくなっちゃうよ、もう」
「こんなところとは随分失礼ね?」
軽口を叩きながら奈津美のことを考える。
いつもどこかフラフラしていて危なっかしい。見た目が良い割には言動がボケている。そのくせ変な男には良くモテるからこっちの気は全然休まらない。
私が休んだたった一週間でさえ、どう過ごしていたのか気になる。
あの子のことを、考えてしまう。
「先生」
「どうしたの?」
「……胸が痛いです」
急にそんなことを言い出したものだから、養護教諭はぎょっとしてこちらを振り返る。
目が合って、私はおどけるように笑った。
「やーまあ、これ心の病なんで先生の出る幕じゃないんですけど」
「あら、心外ね。私いちおうこの学校では準スクールカウンセラーとしても働いてるのよ?」
準が付くのと付かないとで何が変わるのかイマイチわからなかったが、こういった相談事はお手の物というわけだ。
何かの気晴らしにでもなればいいかという軽い気持ちで私は口を開いた。
「……とあるところにそこそこ可愛くて、そこそこ頭が切れて、割と同性にもモテる女の子が居ました」
「……ふむ?」
「女の子は、非合法なことにも平気で手を染めるちょっとアレな家業の娘でした」
「なるほど」
「ある日女の子は自分と世界の埋められない隔たりを知ってしまいます」
「……ふうん」
「女の子には大好きな友達がいましたが、その子と一緒に居ることがその子の幸せにならないと知ってしまいます」
言葉を切って目を向けると養護教諭はコーヒーを一口飲み、続きを促した。
「女の子はそれなりにどちらの世界にも順応して生きてきましたが、そろそろちゃんとお別れしなきゃいけないかなと思って、……今、胸がとても痛いです」
ああ、例え話のつもりだったのにこれはプライバシー駄々漏れだ。一息に語ってしまった数秒前の自分を呪って再びテーブルに突っ伏した。
「……って今の話は嘘ですよ。私じゃないですからね」
ぼそりと付け足してみるも、デスクの方から鼻で笑うような声が聞こえた。ちょっとムカつく。
「……なかなか難しい問題ねぇ。一教師には荷の重い相談だわ」
本当にそう思っているのか怪しいほどには口調は軽いものだった。このオバサン、なかなか食えない。
「そうねえ、一教師ではなく年長者からの」
そう言いかけたところで室内のスピーカーから軽快な音が流れてきた。
チャイム。昼休みだ。
やっぱり、もう会えない。顔を見たら、決意が揺らいでしまう。
「――私からのアドバイスとしては、『そんなの関係ない』よ」チャイムが終わると何事もなかったように続きを言った。
「……私の話、聞いてました? 去年の職員会議出てましたよね? 私はヤクザの――」
そこから先は養護教諭が年季の入った椅子を回転させた軋み音で掻き消された。
黙って私の方を向くその顔は今まで見た中で一番柔らかな笑みを湛えていた。今までそんな視線を向けられたことは無かったため、どこかむず痒く感じる。
「あんたが普通の家庭に生まれたがってたんだって皆知ってるわよ」
「皆……? 知ってた?」
「男の子だったらそりゃ容赦なく跡目候補だろうけど、自分から極道者になりたがる娘なんて馬鹿なヤクザに惚れて嫁に来る女だけよ」
「私みたいなね」そう付け足して、話の意味を理解するのにしばしの沈黙。
「あら? 気づかなかった? 私、蔵野の妻よ。内縁だけど」
私は椅子から転げ落ちそうになった。
「え、ええ、えええぇぇ……」
またしても、日常に潜む極道。私の生活は既に包囲網が完成されていたのか。
「勘違いしてるようだから訂正するけど、あんたが入学決まる前から私はここに勤務よ。まあ、入学してからはそれとなく様子見を頼まれてはいたけれど」
私は今度は違う意味でテーブルに突っ伏し、嘆いた。極妻が保健室の先生とか、なんだその自由な職業選択は。
「カウンセラーだったらもっと心身に負担のない言葉でオブラートに真実を語って下さいよ……」
「まあまあ。それより、さっきの話だけど」
「敵からの施しは一切受け付けません」私はそっぽを向く。
「あらあら、すごい手のひら返し」
養護教諭(極妻)は肩を竦めて見せた。こいつは、去年の緊急職員会議の時に私がした保健室登校の提案を強く支持したに違いない。監視しやすければ管理もしやすいからだ。
「あのね、本当にカタギの世界にやりたくないなら組長は絶対あんたをこんな風に学校に通わせたりしないし、家から離れた場所に住まわせたりしないわ」
分かったような口に私はますます腹が立った。
だが、私は言い返すことができない。彼女の言葉に反論する材料がない。
本当に? そう思っているのだろうか?
「でも、それでも……私は……」
一週間前の、人が死んだ瞬間を思い出す。あんなことが起こる世界は正常じゃない。
正常じゃない世界で生まれた私に、今更――
「泉美っ! 来てたんだあ!」
ガラリと扉が開き、私を見とめた奈津美が嬉々として入ってきた。
傍までやってきて、私の顔を覗き込む。
「ずっと休んでたけど、大丈夫? 具合悪かったの? この前の風邪がぶり返したのかな? あ、お弁当持って来た? 私は今日購買なんだけど一緒に……」
一息にまくし立てる奈津美に私がタジタジとしていると奥で養護教諭が笑った。
「庄谷、病み上がりに質問攻めは可哀想だからそのへんにしておきなさいよ」
そう言われ、奈津美は「あっ」と気づくとバツが悪そうに頭を掻く。
私はというと、養護教諭との会話が中断された心残りと奈津美に会えたことによる嬉しさで複雑な気分である。案の定、顔を見てしまうとどうしても気持ちが揺らぐ。
「ごめん、やっぱ私もう帰るから」
私は鞄を手に取り、奈津美の横をすり抜ける。彼女の目を見ないように顔を伏せた。
「え、あ、泉美っ」
戸惑う彼女の声を背中に、保健室の扉を閉める。保健室とは違って廊下は暖かく篭った空気が肌に張り付く。
私は一息ついて、鞄を肩にかけ直した。
すると、閉めたばかりの扉がガラッと勢いよく開かれる。
「私も、一緒に帰る!」
「え……」
絶句する私を尻目に、奈津美は私の腕を掴むと半ば引きずるように昇降口へ歩き始めた。
「ちょ、ちょ、なんで……いきなり……」
「五限がね、体育なんだよね。もー朝からずっとテンション低かったんだ」
「そ、そんなこと別に……」
「どうせ、転んで怪我して保健室行っても奈津美いないんじゃ、やっぱり私も帰るよ」
めちゃくちゃな言い分を聞きながら、私は奈津美に連れられるまま校舎を出る。
校門の前で生徒指導の教師が私達に目を付けた。
「こらあ、何処行くんだ。早退か?」
「さぼりでーす」
非常に軽いノリで言い終わるやいなや、奈津美は私の腕を引く。
「ダッシュ!」
「え、ちょッ……」
私達は教師の制止も聞かず、そのまま校門脇の通用口からすり抜けた。
走りながら一瞬だけ振り返ると何やら喚いている教師の姿が見えたが学校を離れたら追ってくることもない。
通学路の坂を小走りで下りて、一度足がもつれて転びそうになった奈津美にヒヤヒヤしながら学校前のバス停でようやく止まった。
「はぁ、はぁ、はぁ……なんか、たのしいね」
「全然……」私は肩で息をしながら奈津美を睨む。
「えー、晴れた日に学校サボるの、楽しいよ?」
「常習犯か……」
私はぐったりとバス停の椅子に腰掛けながら呆れた。
そして、やや間が空いた後に奈津美が申し訳なさそうに私を見た。
「ごめん……もしかして、本当に具合悪かった?」
全力ダッシュさせた後に言う台詞じゃないと思ったが、上目遣いで情けない顔をしている奈津美を見て思わず噴出した。どんな表情をしていても可愛いなぁ、と私は惚気てしまう。
「全然。やー、ほんといい天気。ここ最近引きこもりだったから目に染みるよ」
「じゃあ、バス乗ってっちゃう?」
いたずらっぽく聞いてきた奈津美の後ろから都内循環バスがやってくる。途中の繁華街で降りれば遊ぶところはいくらでもあった。
私は、これで最後だからと自分に都合の良い言い訳をして奈津美の誘いに乗ることにした。




