58 地獄ポータル 前編
長野市北部に密集する巨大な団地群。その団地群を東西南北十字にぶった切る県道とバイパスの両脇には、延々と商業施設が立ち並び、地元住民のみならず近隣市町村の人々までもが様々な目的を持ってやって来る経済拠点でもある。
そのバイパス添いにある個人経営の店コーヒータイムでは今、店にいる者全てが口をつぐみ、緊張に包まれた時間を過ごしている。
週末金曜日の夜。若者が街に繰り出し、平日を働く者たちは自宅で日々の疲れを癒す、俗にフライデーナイトと呼ばれる今日この夜は、喫茶店コーヒータイムにとっては諦めの日と表現しても過言ではないほどに夜の客足は遠く、逆に言えばマスターとアルバイトの江森美央は一週間の中で一番のんびり出来る曜日である。
なのにこの、今日の金曜日に限ってそんなユルユルの空気が微塵も感じられずに、店は緊張感に包まれて誰一人無駄口を叩かない。
カウンターの席には毎度毎度の常連客である藤巻博昭が定位置につき、不思議な事に普段ならカウンター前に立つマスターも、藤巻に肩を並べて客席に座っている。そして何故かマスターの隣には池田祥子までもが座り、三人が三人揃ってカウンター奥の厨房を無言のまま凝視している。
カウンター奥、厨房にいるのは江森美央。
藤巻とマスター、そして普段なら常連の藤巻とブッキングしない様に配慮しているのか、藤巻来店時には絶対に店に顔を出さない祥子の計三名が見詰める先には美央がおり、彼女の一挙手一投足が全て注目されている。
……繊維を断ち切る様にスライスした玉ねぎを電子レンジに入れて水分を飛ばし“しんなり”するまで加熱する。
鍋にオリーブオイルをひいてニンニク微塵切りを少々入れて加熱開始。ニンニクの香ばしい匂いがふわっと上がって来たら、水分を飛ばしておいた玉ねぎスライスをジャッ! っと入れて、更に水分を飛ばしながら様子を見つつ、玉ねぎが焦げないように中火から弱火に変化させつつ炒め続ける。
十五分から二十分ぐらい炒め続けると、玉ねぎはいよいよ飴色のペーストへと変化を遂げて行く、このままカレーを作り始めても良いほどだ。
充分火が通り、玉ねぎの甘い甘い香りが鍋から立ち上ったら、そこに市販の固形のコンソメを溶いた水を入れ、多少の塩で味を調整して「スープ」に仕上げる。
スープの完成が見えて来た頃合いを見計らって、薄く切っておいたバゲットをオーブンに入れてこんがりと焼き上げ、耐熱のシチューポットに熱々のスープを入れてバゲットを浮かべ、そこにチーズを振りかけた後に再びオーブンに入れてチーズをトロトロに溶かす。
「……最後にイタリアンパセリ少々と粗挽きのブラックペッパーを振りかけて」
それまで一切黙したまま真剣に作業していた美央が仕上げの段階でそう呟き、全てが終わったと満足げな表情のまま顔を上げ、カウンター席に座る三人に向かってこう言った。
「オニオングラタンスープ、出来上がりました! 」
おおっ! と……どよめく三人。
料理下手な美央が仕込みから完成まで一人で頑張って作り上げたこの料理。三人とも一時も目を離さずに彼女が調理する姿を見詰めて来たが、これと言って「あちゃー」と頭を抱える局面は無かった。つまりは成功と言う事なのだが、問題は味。
頑張りました、努力しましたが通用せず、最終的に美味いか不味いかで判断されてしまうのが料理の世界であり、店のレパートリーに加えてくれと言われればなおさら審査のハードルは高くなる。
三人の前に個々に出された一人前サイズのシチューポットからは熱々の湯気が上がり、炒めた玉ねぎの甘い匂いがその湯気を伝って藤巻たちの鼻腔をくすぐる。ーー間違い無く食欲をそそる香りである
「……いただきます」
スプーンを手に、三人が三人とも厳粛な顔付きで審査開始を口にすると、舌が火傷しないように「ふうふう」とすくったスープに息を吹きかけ、一口二口と味を確かめ始める。
「うむ、美味いね」
マスターのその意識したかのような低い声は、子供のいないマスターにとって本当の子供のように可愛がって来た姪っ子の成長ぶりを喜びながらも、それを前面に出す事の気恥ずかしさから来るものであり、その一言は間違いなく合格だと言える。
「美央ちゃん、やったじゃない。文句無く美味しいよ! 」
池田祥子が我が事のように喜びながらサムズアップを繰り返すのには訳があり、このオニオングラタンスープのレシピから作り方まで全てを美央に教え込んだ張本人が祥子であると言う事。
つまりは祥子と美央は師弟関係にあり、弟子の大成功を諸手を挙げて喜んでいる姿であったのだ。
「これは美味いね、マスターが許可するなら店で出しても良いんじゃないかな? 」
マスターと祥子が美央との会話に夢中になっている間に全てを平らげてしまった藤巻は、最初こそ俺はコンソメ派じゃなくてポタージュ派なんだよなあと難色を示していたのだが、結果として誰よりもニコニコしながら、誰よりも満足げな顔で、誰よりも早く完食してしまったのだ。
ーーフレンチのフルコースで最初にスープが出て来る。高級フレンチへ行くとコンソメスープにするかポタージュにするかと二択で問いかけて来るのだが、通ぶる人間はコンソメスープを選ぶんだ。
その黄金色の透明なスープにどれだけの材料を使って仕込んだかで、その店のシェフの技量が見えてしまうと言う理由であり、逆に店側もコンソメスープを頼む客を警戒して手を抜けなくなるからなのだと聞く。
だが俺はフレンチなんて料理と時間を相手と共有するトータルバランスで判断したいから、コンソメスープに固執したくないんだ。だからあえてポタージュスープを頼んで晴れ晴れと美味しく頂くし、いちいちウェイターやソムリエに素人丸出しで質問しては納得して笑顔でいるのさ。
と、美央のオニオングラタンスープ試験が始まる前に藤巻はお得意のひねくれ理論を展開したのだが、誰よりも美味しく胃に収めた事で、藤巻のコンソメスープ嫌いも勝手に収まるものと考えられた。
ただ、藤巻のこの自分にしか通用しないひねくれ理論が実は、看過出来ない事実に従って構築されている事に気付く。それに気付いたのは祥子と美央の二人。
藤巻がフレンチは料理と時間を相手と共有してうんぬんかんぬんと言い出した時、祥子も美央も腹の底で大声を出して、盛大なツッコミを入れていたのである。
“お前ふざけんなよ、誰とフレンチに行ってんだよ。誰と時間を共有してんだよ、ああん! 言ってみろ! ” と
二人とも心の声に留めていた事もあってそれは大騒ぎにならず、オニオングラタンスープは見事コーヒータイムの正式なメニューに採用されるのであった。
ただ、今の季節は冷たいものが尊ばれる初夏であり、熱々メニューのオニオングラタンスープに注文の声がかかるのは秋以降となってしまう。ーー実は将来的にコーヒータイムのオススメ看板メニューにまで昇華するのだが、このオニオングラタンスープが起死回生の一皿だと信じている者は、この時点ではまだ誰もいない。
ーーさて、店のメニューとしてお客様に提供するにあたり、改めて考えねばならない事があるーー
家庭で作るのと違って商業目的の飲食物である事から、レシピや材料のコスト面などを明確にする必然性が発生するのだと、マスターと美央そして祥子が真剣に話し合いを開始した。
美央がスープのベースにしたのはあくまでも市販の固形コンソメであり、本家的なスープを目指すならブイヨン作りから始めなければならない。
コンソメもブイヨンも似たようなものじゃないかと勘違いされている諸兄もいるかも知れないが、ブイヨンとはフランス語で「出汁」を意味する言葉であり、コンソメとはフランス語で「完成品」を意味している。
つまりはブイヨンとコンソメでは天と地ほどの差があり、本家的なブイヨン作りから始めるのか喫茶店にそこまで求めるのもと、三人とも熱い議論を交わしている。
藤巻は誰にも相手にされない事に腹を立てる事もなく、そんな三人をにこやかに見詰めながらジャックダニエルの水割りをちびちびと喉に流し込むのだが、人間暇だとロクな考えが浮かばないとは良く言ったもので、ついつい自分の腹の奥底だけにしまっておいた秘密が脳裏をよぎり始めた。
思い出したのは、あの女性の幽霊。
厳しい冬の真っ只中にあった今年の正月明けに、友人の三輪を通じて解決の依頼を受けた心霊騒動で、殺人事件のあったマンションに夜な夜な現れる女の幽霊を調査したところ、幽霊の正体は殺された女性ではなく古くからそのマンションにいたお節介な霊で、殺人事件の犯人を教えていた事が判明して解決に至った。
そのお節介な幽霊の名前は臼井圭子、二十二年も前にそのマンションから転落死した女性だ。
当時は病床にあった母親の介護に疲れ飛び降り自殺したとする説や、インフルエンザ新薬の副作用で前後不覚となって落ちたと言う説が有力視され、いずれにしても事件性の無い死亡事故と処理されてしまったのだが、その臼井圭子の霊と藤巻が対面した際に、別れの言葉として彼女はこう言ったのであるーー「私は殺された」と
商業として探偵業を営む以上、利益の出ない仕事は仕事ではない。
それを重々承知の上で、藤巻は誰にもそれを言わないまま、空いた時間を利用する形で調査を行なっていたのである。
『犯人は今も、のうのうと生きている』
藤巻を突き動かすのは、このたった一言の真実。
臼井圭子の背中を押した者が今もどこかで平々凡々と生きて、美味いものを食って平和な顔をして安眠を貪っていると言う怒り。
殺人事件の犯人を教えてくれた臼井圭子の霊に対する、藤巻なりの恩返しでもあったのだ。
ーー彼女は生前、小さな土建屋で事務職として雇われていた。勤務態度に問題は無く、経営者や目上の作業員からは「ケイちゃん」と呼ばれて親しまれていたーー
しかしその土建屋の事務職で得る給料だけでは母親の介護もままならなかったのか、彼女は夜の繁華街で働き出す。長野駅前の繁華街にある「スナックみすず」、穏やかな性格で気の利く彼女はあっという間にママの信頼を得て、チーママとなって店の切り盛りに精を出した。もちろん、土建屋には内緒のアルバイトとして。
……ここまでは何とか調べ上げる事が出来た。
土建屋の経営者と作業員に怪しい者はいなかったし、彼女と個人的に繋がっている者もいなかった以上、夜の商売で接点がある者が、彼女をマンションの五階から突き落としたと考え、ホステス時代の交流関係を探ろうとする藤巻は今、暗礁に乗り掛かっている。
当時スナックみすずで働いていた従業員数名と接触し、臼井圭子についての証言を得たのだが、怪しい影が全く無いのだ。
つまりは反社会的勢力の男性と付き合っていたなんて証言は無く、某企業の役員の愛人であったと言う証言も無く、夜の商売に従事してはいるが、あくまでも生活費を稼ぐための正当なビジネスとしての観念を持って夜の街に赴き、夜の世界に拘泥していなかったのである。
よって彼女は清貧、清く貧しくそしてたくましくその時代を生きていたのである。
だからこそ藤巻は迷路にいる
男女トラブルではなく、金銭トラブルでもなく、そう言う胡散臭い影が彼女の周りに充満している訳ではなかったのに、それでも何故彼女は殺されたのか……
ここ最近の成果と言えば、長野駅前の繁華街に古くから提灯を下げる「おでん屋もへじ」の女主人で夜の街の生き字引とも言って良いお婆ちゃまが、スナックみすずのママの本名を教えてくれた事くらいで、そのママすら長野冬季オリンピック後の不況で店をたたみ、今は日本のどこへやら。藤巻は高い高い壁にぶち当たっていたのだ。
それでも臼井圭子の魂がいつか安らかに鎮まる事を願う気持ちに変わりはなく、はやる気持ちを諌めながら、諦めの悪さを武器に調査を続ける藤巻。
その正義の心を胸に秘めたまま、新メニューについてけんけん轟々と議論を重ねる三人を楽しげに見詰めている。そして議論が切れたタイミングを見計らい、マスター話し合い中に悪いけど水割りおかわりちょうだいと、ちゃっかりジャックダニエルのお代わりを催促したのである。
ちょうどその時だ、ちょうどその時、コーヒータイムは思いがけない客の訪問を受ける。
もう閉店間際だと言うのに、店のドアベルがカランコロンと軽快な金属音を立てながら客の来訪を告げるのをきっかけに、おや、と思って一同が振り返った先に、木内奈津子と弟の浩太郎が立っていたのだ。




