ギヨームの憂鬱
城に戻ると、使用人の数が二人ほど減っていた。どうやら、乳母に派遣されたらしい。いつにも増して動きの速いジュスタンが、楽しそうに掃除を進めている。
「お帰りなさいませ、ジョアンナ様。先ずはお手を拭き取ってから、お着替えを致しましょう」
「えぇ。服を用意して置いて頂戴」
「畏まりました」
ジュスタンは短く言うと、使用人用の服を取りに階段を昇っていった。使用人服も随分といたについた物だと思いながら、食堂への道を急ぐ。苔生した天井に安堵と懐かしさを感じながら、食堂へ向かうと、丁寧にもフィンガーボールには既に水が張られていた。
私はその水で手を漱ぎ、服の裾で手を拭く。続けてフィンガーボールをギヨームに譲り、手に酢を掛けてもみ洗いを仕上げた。最後に再び水で濯ぎ、ギヨームが再使用するのを待ってから窓から水を捨てる。直下の川と一体化した水は、最早どこにあるか判別できない。
手を拭いながら食堂をぼんやりと見回していると、不意にギヨームが長い溜息を吐いた。
「何と言いますか、落ち着きますね、ここは」
「えぇ。住めば都って事ね……」
令嬢の宮殿からこの城に戻った時よりも、自分身体が暗がりに安堵を抱くようになったらしい。
小さな窓から差し込む光も明らかに見劣りするのに、こちらに住んでから特別な不満も感じなくなってしまった。
私はギヨームに皿を渡し、彼はそれを厨房に返しに向かう。考えてみれば、その仕事もかつては無かったに違いない。
住めば都と言うか、私達が無頓着になったというか。ジュスタンを待つ手遊びに、風景を眺めようと窓に近づいた。
畑作業は遠景ではあまりに殺風景で、茶色い土の上を二人の貧農が歩いている事しか確認できない。これではバナリテもまともに機能しないだろうな、などと思いながら視線をずらすと、紫色から一転して、緑色も徐々に損なわれつつある川縁の樹木畑があった。背の低いそれは葡萄の木で、規則的に連なりながら、横一列に綺麗に並べられている。こちらも土の色が見え始めており、窓に吹き込む木枯らしに思わず身を引いた。
楽しみの時期を過ぎれば、再び営みが続く。私には無関係な事だが、領民の暮らしは果たして幸福だろうか?
やがて、殺風景な食堂に、ジュスタンの声が響く。
「お召し物の準備が整いました」
「有難う、今向かうわ。じゃあー、後でね」
挨拶に対して、ギヨームは深く頭を下げた。私は足早に食堂を立ち去り、泥こそついていないがくたびれてしまった服を着替える為に自室へ向かった。
もし仮にこの世に主がおわしますならば、我が主人にこう憤慨したに違いない、「わが恵みを悪辣な金貨に代えるとは何事か」と。
沈黙する鎧は私にはあまりに太く、ギヨームにはあまりにも細い。今やその鎧を纏える者はここに居らず、食堂の彫刻と違いはあるまい。日中の食堂に堕胎薬の改良を施した試作品を持ち込んでいた私は、巨体の男が胸元から書簡を取り出すのを目撃した。酷く警戒しながらその書簡を取り出すので、私は試しに彼の目を借り受けようと試みた。両の目を交互に閉じては開け、ギヨームとの距離感を正確に確認する。全く、お人よしの領主と言うのは監視する絵画も配置しないのだから、困ったものだ。
食堂の椅子の位置を把握し、相手の左目を借り受けると、躊躇いがちに開かれた手紙の中身が確認できた。
おぉ……。これは……。
これは傑作だ!思わずにやけてしまう!あの年で若き日の過ちに思いを馳せるとは!ギヨーム殿は純粋であられるようだ!さながら湯浴みを恐れる子供のようだ!
私はプライベートなご事情に口をはさむつもりはありませんよ、えぇ。私は魔術を解き、左目を自分の視界に慣らした後で、食堂の扉を開いた。
「おぉ、ギヨーム様、お帰りなさい」
背中が飛び上がる。その反応がまさしく思春期の子供のようで、余りにも面白い。
「リオネル殿、ただいま帰りました。領内は平和なようだね」
「えぇ、タンクレード様も鼠の駆除を終え、すっかり領内は平和そのものです」
ギヨームは三度頷き、懐に手紙を納めなおした。バレていないと思っているのであればそれはそれで滑稽だが、仮に気づいていたとして気恥ずかしさから隠したのだとすれば、それも傑作であろう。
日は中天を徐々に降り、照り付ける陽射しも以前より眩くは無くなっていく。懐に手を収めたまま、、目を細めて窓の外を眺めた。
「リオネル殿、私は古い人間だ。しかし、ジョアンナ様の行動には……時に戸惑う事があるのだ」
「えぇ。貴方はそうでしょうね」
ギヨーム様は私の事を余り好いてはいないだろうが、少なくとも仕事に関して信頼を置いている。その私に対して、このように言うという事は、アビスで何かしら思う所があったのだろう。
彼は深く腰掛けて突き出た腹を大きく膨らませ、深く息を吐いた。
「かつてカペル王国は、秩序と信仰と……そして武勇に満ちた地であった。騎士たちは魔道と剣技を学び、若者は馬上槍試合によって自らの地位を高め合った。全てはロイ王の知性に‐闘争が損なわれたその時に‐その誇りを失ったのだ。私の時代からは武勇も損なわれていたうえ、貴族達は誇りさえ失ったように思う」
「ジョアンナ様は貴族としての誇りを捨てて、高利貸と手を組んだのでしょう。私はそれに特段違和感を覚えないのですが」
ギヨームは数秒間をおく。膝の上で手を組み、静かに窓の向こうを眺める。
「そうだろうね。君はそう言う人だ」
鶏の鳴き声が意味も無く響く。種蒔きをする男が背を叩き、道端では彼を送った御者が、調理道具を手に客を集める。頼んだものが届いた人はそれを買い、さらに彼の持つ道具を長く見つめる。
彼らは詐術を学び、詐術を受け入れる事によって彼の周りの人々を幸福にし続けた。商いとは元来「時間を売る」仕事であって、汗を流す仕事ではなく、また、神に愛される仕事ではない。それでも両の手に鍋を、すり鉢を持ち、陽気に声をかける彼らの姿を、「悪魔憑き」と揶揄する事が果たしてできるだろうか?もし仮に、彼らが悪魔付きであれば、貴族は魔王であり、王は魔神である。
ギヨームは自らの思いの丈を熱心に整理して、脳裏に浮かぶ不満を出来る限り隠すように、声をくぐもらせながら続けた。
「ジョアンナ様は……民を幸福にするよりも、高利貸を幸福にする。ノブリス・オーブリジェを体現させることは無いだろう。ヘンリー様が御存命であれば、と今でもよく思うよ……」
「確かに。ジョアンナ様は高利貸を幸福にするでしょうし、王の忠義にも背くでしょうね。貴方が彼女に従うのは、ヘンリー様の遺言に忠義を尽くす為だ。……正直、私は良い暮らしが出来ればいいのですが。貴方の年頃に、そのふくよかな腹を保てるほどの暮らしがね」
彼は眉を顰め、こちらを見つめた。
「ならば何故、今の暮らしにしがみつく?君にも忠義があるのではないのか?」
ヘンリー様への忠義があってこそ、お前は今の仕事を続けるのだろう?ギヨーム様の問いは、彼の同胞を作りたいが故の問いかけに他ならない。確信をもって、ジョアンナ様に仕える事が「正しい」のだと、そう思いたいに過ぎない。しかし、私はその願いに従う「忠義」はない。
「どうでしょうか。私は、今の暮らしが楽しくて仕方がありませんよ」
暫くにらみ合いが続く。諦めたらしい彼は、静かに目を伏せ、自嘲気味に鼻で笑った。
「それもまた、人の道か……」
彼は立ち上がり、ゆっくりと食堂を去っていく。酷くくたびれた背中が、仄暗い回廊の方へと消えていった。




