勝負2
深夜の身支度と言うものは、いつにも増して緊張し興奮するものだ。なぜか自分が悪い事をしているかのように思えて、落ち着きなく、荷物を漁ってしまう。万事不利益無きように、と。
整頓された化粧台の上の鏡を覗き込むと、少し頬が窪んだらしい自分の顔が映る。フアナの言った、少し太った方がいいというのは、舐められない為にと言う意味ではなく、本当に身を案じていったのかもしれないと思わせてくれる。
こうして忙しなく出立の準備をすること自体、収穫した葡萄の圧搾が始まるであろうこの時期に、酷く勿体ない時間の過ごし方のようにも思われる。貴族は圧搾を見届けて初物ワインを楽しむ方が有意義なように思うし、何より、何も考えずに舌鼓を打つ時間ほど贅沢な過ごし方はない。
しかし、今は修道院に贈られるワインたちと同じ量を、全て他人の喉に届ける事しか関心は無くなっていた。二束三文でもいいので私の喉を通る分を金に換え、その利益の分を返済に充てる方が余程利益にかなうように思われるからだ。
アグルダインによる利益の獲得のためには、ある程度栄えた市場に赴く必要がある。旅費交通費やその他費用を考慮すれば、私達が受けられる報酬はせいぜいが数十ペアリス・リーブルなのかもしれない。それでも引き受けた以上は、うまくやる必要がある。
私が外出用の衣服を仕舞い終えると、さらに広くがらんどうの部屋に、取り残されたように女の影が一つ伸びていた。私は自分から伸びるその影が手持ち無沙汰にする左の手を握っては離して、季節に似合わぬ汗をかいているのを感じる。じっとりとした手がべたりと引っ付き、その度に堪えかねて手を開く。手を開けばその手は風にさらされ、尚更気持ちが悪い。仕方がないので、泥で少し黄ばみ始めた使用人服で手を拭った。
殺風景な部屋の中央で苔の生した壁を見つめる。令嬢の宮殿でこの薬草と雑草の間のような臭いを嗅いだことは無かったが、すっかり籠った湿気にも慣れている自分に驚く。終日開き放しの小さな窓から明かりを取るこのひもじい日々もまた、今では現実に溶け込んで不便を感じる事もない。
これが、住めば都と言うものか。
改めて、父の心からの配慮‐美しいものだけを感じさせる配慮‐は、虚しいものだったと思い知らされる。人の善意は虚しく、詐術や脅迫の方が利益に適う事が多い。
例えば、アーカテニアの金持ち子爵を丸め込んで二人の『淑女』を世話役に派遣したり、偶々方向性が同じ望みを持つ人々に向けて、自分の望みを『施し』として提示する事などだ。
そうしてぼんやりと月光に背中を焼く時間を過ごしていると、湧き上がる郷愁の多い事にも驚かされる。しかしそれもすぐに、現実に引き戻される事だろう。一時も、時間は止められはしないからだ。
「ジョアンナ様、ご報告いたします」
ほら、来た。フーケの声だ。
「入りなさい。支度はできているわ」
緊張した面持ちのフーケが、丁寧な挨拶と共に入室する。彼もまた私と同じように少しやせたようだが、ギヨーム程歓迎すべき変化ではなさそうだ。
「夜分遅くに失礼いたします。今回の一件では私はここに留まる事になるので……どうしても幾つか申し上げたいことが御座いまして」
「そう、ありがとう。座って」
乳母ビジネスを軌道に乗せる為に、フーケはその時間の多くを‐ナルボヌの会計報告書類や日報を記載する時間の余暇を全て‐彼のビジネスの為に使わざるを得なくなった。じりじりと売り上げは出ているものの、バナリテと吝嗇ほど劇的な変化ではなく、やはり軌道に乗せる為には道が必要不可欠であると言わざるを得ないようだ。
しかし、行商人の往来が増えてきているのは、彼の成果だと思われる。領民は生活必需品が増え、また報酬も多少貰えた事で物を買う余裕も出来たらしい。この取り組みは、乳母ビジネス自体の成果よりも、領地全体の変化がやはり重要だという事だ。
それでも、彼のプライドから来るものなのか、事業を何としても軌道に乗せたいという鋼の意思が、彼の時間を圧迫しているのかもしれない。
席に着き、衣装の分の煌びやかさも失った部屋を一周見回したフーケは、今度は前屈みになり、出来る限りの小さな声で続けた。
「アグルダインの取引は時流に合わせた取引です。ですから……事前に様々な知識を頭に入れて置いて、今回は『安全に』利益を獲得する事を目指しましょう」
「でも、大勝しやすいのもこの取引の強みなのよね?だったら……」
フーケは語気を強めた。
「だからこそです。大勝と大敗が、明暗が大いに分れる取引だからこそ、この取引でどうしても理解してほしい事があるのです」
「……そうね。聞くわ」
私は泥付きの衣服の裾を持ち上げ、寝床に深く腰掛けた。フーケは一瞬自分の立ち位置を気にして狼狽えたが、私が微笑んで首を振ると、深く頭を下げてその場に留まった。
「有難うございます。ジョルジュ支店長の提示した取引記録によれば、アグルダインは今、『売りと買いが混雑する危険な状況にある』のです」
「どういう事?」
私はつい眉間にしわを寄せる。殺風景で広いだけに、疑義を投ずる声は反響して大仰に聞こえる。フーケは一拍置いて、手元でメモを取るようなしぐさをしながら続けた。
「取引記録では、一年前から1.5倍にまで金額が伸びているのに、現在は徐々にその伸び率が鈍化している状況が分かります。現時点、67ペアリス・リーブル分の価値は、ここ数週間の伸び率を見ると2%弱、つまり、買い取り手が一頻り買い、売り手側が徐々に飽和していく過程にあります。勿論、それでも、この物価の動きは大きい方ではありますが」
「つまり、近いうちに価値がなくなると言いたいの?」
フーケは頷く。深い溜息のような、言いにくそうな萎んだ声が漏れた。
「まさにその通りです。正確に言えば、本来の価値へと向かって行く時期にある、と言うべきでしょう。需要ははっきりとある金属です、ですが、今の価値は異常な状態、ですから、ジョアンナ様に任された役割は……」
フーケは更に声量を絞って続けた。
「『売り抜け』です。最大の利益となる地点での売り抜けを、安全に狙って行きましょう」
フーケはメモを取るようなしぐさをやめ、視線を落とす。薄着では冷え込む夜の秋風が微かに頬を掠めた。
「必ず、今からいう事を守って下さい……。絶対安全、これが原則です」
声音はさらに低く、恐ろしい色を呈し始める。思わず息を呑むが、彼は容赦なく、高い喉仏を揺らし続けた。




