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吝嗇のバナリテ  作者: 民間人。
宵と明けの顔
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淑女フアナは月にも微笑む10

 神は細部に宿るという言葉がある。もしもこの部屋にある肖像画の視線が一つでも動かないならば、この言葉を想起させることは無かっただろう。フアナとヤーコプ、二人の冷徹な仕事ぶりは、その部屋の片隅に至るまで死角を許さない事によって示される。あらゆる瞳が動く絵画たちは、埃一つ見逃さないであろう。ブリュージュ伯爵邸に泊まった貴族は、歴代の領主や宗教画廊と呼ばれる絵画の続く回廊を見て驚嘆したと言われる。私がもし同じ場所を通ったならば、今のように冷静に立ち振る舞うことは出来なかったであろう。


「悪趣味だわ。どこを見ても視線が合うなんて」


 着座と同時にそう言うと、フアナは鼻で嗤い、一拍を打つ。その音に一斉に視線が向かうと、彼女は私を見て微笑んだ。


「これでよろしいかしら?」


「えぇ。ありがとう」


 私が答えるのとほぼ同じ頃に、私のもとに紅茶とお茶請けが配膳される。フアナは私の前にそれをかき混ぜて飲み、お茶請けも一口頬張った。


「……少しは信頼して下さったかしら?」


 口元を隠しながら彼女は訊ねる。私は紅茶を一口啜った。

 茶色い波紋がゆっくりと唇を湿らせながら喉を通り抜ける。


「えぇ。美味しい。お話も弾むと良いのだけど」


「まずは貴方から、話して頂こうかしら?」


「……。フィリップ卿に話した内容がすべてよ。私にはそれ以上の情報はないわ」


「そうでしょうね。私よりもあなたの方が情報を持っておられるはずはない。でもそれじゃあ釣り合わないじゃない?」


 フアナはまるで気軽な相談でもしているかのように、穏やかに微笑む。カップを下ろし、物思いにふける時のように顎を組んだ手の上に乗せる。その視線は私に向かい、肖像画達がぎょろぎょろと瞳を逸らすたびに、手を叩いてはその視線を自分に集めた。


「でも、貴方にはないものが私にあるのも事実」


 膝の上に置いていた手を顎に当て、深く悩み事でもするようにしながら、慎重に言葉を選んだ。フアナは自然と手を組み替えて、目を細める。


「ほう?興味深いですね」


 人を小馬鹿にするように、子供をいなすように微笑を零す。曰く、貴方のやっている事など、既に手を打っていると言わんばかりに。

 実際に、殆どすべてについて、彼女よりも私が勝っているものと言うものは本当に一つとしてない。

 しかし、それは、外交のカードが一切ない事を意味しない。何故なら、「勝っている事」と「持っている事」とは全く違う概念だからである。


「フィリップ卿から聞いたかしら?私は、今、乳母をビジネス化しようと考えているの」


「えぇ、伺いました。農民の小遣い稼ぎを事業に押し上げた先見の明は評価いたしますわ」


「そう、乳母が必要な人間は二通りあるの。高貴な人と、そうでない人。中には、身売りのために乳を求める者もいるわ」


 フアナはカップを構いながら続きを促す。彼女が紅茶に濡れた縁をなぞると、磁器特有の微かな音が鳴った。


「……貴女が何故カペル王国の最重要事項に近づけないのか、私は分かっています。だからこそ、私の『カード』は役に立つはずよ」


 カペル王国は開かれたブリュージュとの交易を閉ざすことは無い。しかし、それと同じく、情報を流出させる事もない。何故それを隠そうとするのか。それは、カペル王国に都合の悪い事情があるからである。しかし、最悪の事態を最上級職の者や官僚が知らないわけがない。


「貴女の特別遊撃隊、私に預けてみませんか?」


「ほう……」


 フアナは姿勢を正す。緊張が解けると同時に散逸した絵画の視線を、机を強く叩く事で集める。叩いた手はそのまま扇の羽側に添えられ、三人の侍女にその、外出用の道具を手渡した。


「奴隷はそちらの中で生産される筈……。首尾よくいけばそれも使えそうではなくって?」


 フアナは前髪を払う。少しだけ覗くでこは思ったよりも広く、書き上げた髪は耳の上で窮屈そうに留まっている。私は少しの間彼女の言葉を待つ。


「……あら?答え合わせが必要かしら?」


「いいえ、大丈夫よ。言いたいことは分かるわ。それは自由に解釈してもらって構わないから、黙っていたのだけれど……」


 実際、彼女の考えは的を射ている。乳母をビジネスとして活用する以上、奴隷商人は必然私の領地に集まってくる。その場所で諜報活動に活用できる技能を持っている奴隷を購入し、私の領地を彼乃至彼女の出身地として、カペル王国内の各領土にばら撒く事は可能である。

 問題は、その責任者が「私」とされるのか、「フアナ」とされるのか、といった責任の所在である。必然的に買い手の情報を公開する必要などないが、私が名板貸しのような事をするのであれば、彼女にも相応の負担をして貰いたいと思う。それは、この交渉とはまた別の問題である。


「奴隷商人から奴隷を買い付ける分には私は何も言わないけれど、その責任者は貴方と言う事になるのかしら?もしそうでないならば、責任を負いかねるのだけれど」


「あら、失礼。私はてっきりその程度の覚悟は出来ていると思っていたのだけれど……」


 フアナは意外そうに目を丸くした。私は姿勢を直す。自信なさげに首を垂れるわけにもいかない。その仕草の機微に対して何を感じたのか、フアナは立ち上がって私の席の背後へと近づいてきた。


「自国の王に背く時に、そんな姿勢では駄目よ。もっと、堂々としていなさい。……そう、そのようにね。私の介入を国王が阻止したい事は分かっていたわ。その問題が重大でなければ……」


 彼女は絵画の方を見く。既に視線はあちこちに散逸しており、重ならない視線達は唯不気味にギラギラとした瞳を揺り動かしていた。

 フアナは鼻を鳴らし、私の耳元で囁く。


「私は、貴方をカペル王国の重鎮にしてあげられなくもなくってよ」


 ブリュージュを領有しているという事……それは、ある一面で見れば文化的中心地と交易都市と緩衝地帯とを同時に獲得する事に他ならない。カペル王国の国境がブリュージュ分拡大するというのは、字面以上の成果である。もし、王に対して、私の名を一つでも持ちかけてくれるのならば、彼女の言葉はあながち間違いではないのだ。


「でも当然、貴方には、残るという選択肢があるのでは?」


「勿論。ですが、その時は唯貴方とのこの掛け合いが無かったことになるだけ……。貴方自身に悪影響は与えませんわ」


 そう言って、彼女はふわりとドレスを膨らませる。踊るように席に戻った彼女は、紅茶と茶うけをじっくりと楽しみながら、先程まで趣味の話でもしていたかのように振る舞い始めた。


「貴女の大事な軍隊を、少しだけ借り受けます。あと……少しばかり」


 私は耳飾りを構う。緑色の光が、良く磨かれた机の上に反射している。


「そうね。『ご友人』との付き合いは大事にしなくてはね?」


 彼女は小切手を一枚切り分ける。その小切手には、いとも容易く、2500ペアリス・リーブル相当と書かれていた。

「拠出金の足しにはなるかしら?」


 フアナはそう言って無邪気に笑った。私は苦笑で返す。


「いいえ、全然……」


 かくして、ナルボヌ家は自らの命運をかけて、ブリュージュの斥候の任を任せられたのである。

 フアナの紅茶に角砂糖が投入される。残り半分を切ったそれに対して、余りにも大量の砂糖が一瞬で溶けていった。


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