淑女フアナは月にも微笑む8
もしこの場に主がおわしますならば、この異臭まみれの路地裏を見てこう驚愕された事でしょう。「否、これは私の知る楽園にはあらず」と。
遥かに入り組んだ薄暗い路地裏の中を、二つの人影が動き回る。逃れようとあちこちの角を回るその足音は軽快であり、女性の身軽さがあった。
そして、私は深追いを避けようにも、その女の背後にある者に触れずにはいられなかった。何よりも、今回の件は出来る限り慎重に進めなければならないからである。
例えば、彼女の用意した寝室には、当然のように彼女のための機器が置かれている。彼女の行動がヤーコプにも伝わるというのは、逆も然り、と言うべきである。そうなると非常に都合が悪い。外で話すと決めた以上、そうしたリスクは織り込み済みであったが、もし、彼女のもとにその言葉が伝わろうものならば、速やかに対処する必要がある。例えば、女が町娘のうちに火消しをするなり、行動一般の信憑性を損なわせるなり。
私と接触したかの町娘風の諜報員が、こちらを見つめながら、歯をむき出しにする。
「隠れるのが下手……と言えれば、私も幸せだったことでしょう」
彼女の背後に幾つかの人影が見える。してやられた、そう思ったが、最早煉瓦と煉瓦の隙間にしか呼吸を出来る空気はない。私は腹を括り、涼しい笑顔のままで顎を引く。かの女は口元だけで笑みをこぼすと、自ら壁伝いに闇に塗れていった。
代わりに、ギラギラと輝く鉛の群れが、弓や、剣など、この場に合わせた長さの武器を幾つか携えて姿を現した。
飛び道具持ちでかつ、この狭い路地では、私の魔法も役には立つまい。私は後ろで手を組み、指をくい、と曲げて護衛を呼び寄せる。彼らの持つ武器では鎖帷子の隙間を突き刺す事しか叶わないであろうが、路地裏であれば、まだ私を逃がす盾にだけはなってくれるであろう。一歩後ずさりすると、屈強な騎士たちの背後から、くつくつと言う女性の笑い声が響き始めた。
「ごめんなさいね、リオネル様。私、こう見えて敵が多くって」
「これはこれは……。お目にかかれて光栄に存じます、フアナ様」
私は慇懃に礼をする。薄っすらとした女性の形をした影が近づくと、思わずその全容に目を見開く。
絢爛な服装を捨てたフアナ自身が、厚手の上衣と、体の線が露出したズボンに身を包んでいる。彼女自身が携えるのは短剣と言った護身用のものと、腰に帯びた携帯香炉‐それにはまだ火は灯っていない‐であった。
「私も嬉しいわ、素敵なご友人の、「厄介な」家臣ですものね」
護衛同士が武器を構える。フアナと私だけが、一切の戦闘体勢を取らなかった。涼しい笑みに対して涼しい笑みを返す。私の手癖が胸元に戻ってくると、フアナはくすくすと口を隠して笑った。
「元より隠すつもりもございませんでしたけれども、やんちゃな子犬と言うものは教育で立派な成犬にしなくてはならないものです。貴方のご主人、手綱ばかり握って、ワンちゃんを甘やかしすぎてはいませんか?」
「フアナ様、その批判は、お門違いと言うものです。私がいう事を聞かぬというだけですよ。それに、私は立派な忠犬で御座います」
「私の甥っ子が世話になったようですね」
彼女は先ほどの諜報員より種火を受け取り、それを弄びながら、貴族らしい優雅な仕草で私を睨んだ。
往来する人々に助けを求めようにも、私が口を開こうとすると彼女は路地裏の闇に消える。種火は多くの人の手に渡りながら、最後には彼女の香炉のそばに戻っていく。
護衛が前に出る。鋭い弓矢の刃が光に当たって輝いた。
「いつから、ご存知で?」
「不思議な事を仰いますのね。格好の交流の場で、身動ぎしない男が二人で語らう内容など、高が知れていましてよ?」
要するに、子細に内容は知らなかった、と言う事である。文字通り、私はしてやられたのである。ヤーコプは自分が設置したものの在り処も、その運用状況も知っているからこそ、あの場所で私との会話に踏み切ったのであるが、それを見逃さない恐ろしい女の事や、田舎貴族の腹心の在り様などまでは見抜けなかったという事だろうか。
私は大仰に臍を噛んで見せた。そうする事でしか、現状を打破するだけの時間も与えられそうにないのである。
しかし、彼女も手練れである。外交において何よりも油断が大敵であることを知っている。
「貴方の腹積もりが気に入りませんね……。私の事をこそこそと嗅ぎまわり、ただ仲良くしたいだけだというのに」
彼女は香を焚く。小火の時にそうであるように煙が濛々と立ちこめ、耐え難い甘い匂いが溢れ出した。
私の魔法で姿を消す事は、実際に見えなくすることではなく、対象の視界の死角を自分の形に見せない事である。それだけに、複数人に見られない事は難しいと言える。彼女はどちらの原理かを判別しかねたために、ここで香を焚いたのであろう。私は「死角に入る」魔法を使っても、何名が隠れているか判別できない以上、とても補いきれない。一方で、仮に肉体を透過させる類の魔法を用いたとしても、非常に分かりづらいが渦巻く煙の動きが「人の形を導く」為に、それも叶わない。そして、恐らくこの狭い路地では、射れば当たるのである。
「腹積もりが気に入らないのは、こちらも同じでしてよ、フアナ様」
聞き馴れた声に驚く。振り返ると、煙の中に微かに、翡翠の耳飾りが輝いたのである。
いっそ、腹を割って話した方がいいのではないか?私は、フィリップと踊っていたときに霞んでいた思考が戻ってから、そう考えるようになった。
社交辞令を交わす間柄には何とかこぎつけたものの、互いに信頼を寄せあっているわけではない私とフアナとの間では、いかに「相手から情報を抜き取るか」だけが重視される。カペル王国を敵に回すにしても、まずはフアナから信頼を勝ち取る事が重要なのではないだろうか?彼女はカペル王国の秘匿された情報を求めている。寧ろその点で、私と利害は一致していないだろうか?
「ジョアンナ様……。何故、このようなところに」
呆然とするリオネルと、驚愕の表情を煙の中に隠すフアナ。私は重い耳飾りが揺れるのを感じながら、頭を持ち上げた。
「貴女が、こうして導いてくださったのではないですか。他人の家臣を犬呼ばわりして、躾がなっていないなどと。あまりに不躾ではありませんか?」
屈強な男の影が動くのを認める。私は大声で怒鳴りつけた。
「此方に、貴女の甥が付いている事を忘れての狼藉ですか!?」
フアナの言葉を純粋に聞き取るならば、彼女はリオネルとヤーコプが話していた事実のみを知っている事になる。どれだけこちらが強く結託していないかまで知らないはずである。
ならば、こちらから虚勢を張ればこの場を乗り切る事は出来るのではないか?
煙が薄くなる。香の火が安定して燃えだしたのか、何者かによって鎮火したのかは定かではない。
案の定、フアナは自分の脚元から胸元を舐めるように見つめた。彼女の服装は、明らかに人を処分するための服装である。それを領主に見られただけでも、都合が悪い事だろう。アンリ王に知られれば、国際問題にも発展しかねない。それを彼女が望んでいない事は明白である。
「今この場で、貴女をどうこうする事など私は考えておりません。貴女の邸宅でも構いませんから、腹を割って話そうではありませんか。互いの腹積もりが気に入らない者同士で、ね」
狼狽したリオネルの姿が確認できる。フアナはその後ろで、焚いた香が再びぶり返すのを待つように、風を扇いでいた。彼女の背後には屈強な騎士たち。誰もが細い兜の間から事の成り行きを見回っている。
狭い路地裏の窓が開く。私は捲し立てるように言った。
「この場で事を収めるのは難しいではありませんか。そうでしょう?」
「仕方ありません……。では、我が邸宅でお待ちしておりますわ」
彼女は私達よりはるかに素早く闇の中に消えていった。窓から覗く人影がやっと私を見つけた時に、私は大声でその人に叫んだ。
「気づいてくれたのね!道に迷ってしまったのだけれど!どっちへ行けば表通りに帰れるのかしら!」
そう叫ぶと、彼は右手を指さしながら、「路地裏は全部直線で繋がっていますよ!そう言う都市計画なので!」と親切に教えてくれた。
私は礼を言うと、腰を抜かしたようにも見えるリオネルの服を引っ張る。
「有難うございます!ほら、もっと明るい場所に出ましょう!」
リオネルは涼しい笑みのままで覚束ない様子で立ち上がる。私の耳元で一つ、深い思いの籠った礼を言った彼は、服についた埃を払った。香の残り香が少しずつ薄まり、土と石の臭いが戻ってくる。
「今は路地裏の掏り師も街中だから大丈夫だとは思うが、お気をつけて」
そう言った男はさっさと窓を閉めた。如何にもお騒がせな観光客に辟易しているようで、窓硝子が揺れるほど大きな音が立った後、私達は顔を見合わせて、周りを慎重に見回しながら、その場を後にした。




