淑女フアナは月にも微笑む7
「あ、イタッ!」
混雑する街を歩いていると、ドレスの裾に足を取られて転倒する。通行人に日傘が当たり、私は短い悲鳴の跡にすぐさま謝罪した。カペル国内の社交会には事ある毎に出ていただけにある程度顔の知れ渡った私を見た通行人は、無下に扱う事も出来ずに丁寧に頭を下げて立ち去っていく。商人達の中には見知った顔もいくつか見受けられる。やはりブリュージュがブリュージュたる所以はそこにあるのだろう。
「今日も夢見心地と言ったところですか」
リオネルは口の端で笑いながら、私の横につく。雑踏は途切れもせず、また流れもしない。遅々として進まないのはあちこちにある屋台に足止めを食らうからであり、カーニヴァルの壮大さが見て取れる。
「大体ね。いや、私も悪いのよ?だけどあなたが彼方此方行ってしまうから、まんまと出汁にされたじゃない。きちんとブレーキがないと……その、婚期を逃さないために必死な人があんなの理性で止められるわけないじゃない?」
「いいえ?ジョアンナ様は何もめぼしい情報を持っておられないので、別に放っておいてもいいかと思いまして」
「ほう、今日は酷く直截的じゃない。余程頭が回らないと見えるわ」
苦しい皮肉で切り返すと、リオネルは毒キノコの堕胎薬を私の胸に押し付けて、「精々一線を越えませんように?」と切り返した。その厭味ったらしい笑みの、何と殴りたくなることか。
街を出歩く事を提案したのはリオネルである。勿論、ブリュージュの観光をしに来たわけではなく、町に集まった有力者と改めて接触するためである。リオネルは社交辞令だけは私のいない間に済ませていたようだが、舞踏会に参加しない者とも接触したいようだ。
昨日の夢が醒めてみれば、街並みも見るに鮮やかなブリュージュの、汚い所が良く目につく。鼻に障る魚や家畜の臭気や、摺りの瞬間を間近で目撃する事もある。両替商が天秤の裏に一枚分の銅貨を貼り、重りを調整していたりもする。町というものの繁栄の裏には必ず黒いものがあるという事だが、それを祭りの雰囲気が隠匿する事によって、ブリュージュと言う国は文化先進国として飛び立ったのかもしれない。
「そういえば、ジョアンナ様。ヤーコプ殿下とお話をした際なのですが、貴方の耳飾りがお美しいと、言っておいででしたよ」
「あの人って、そんな事を言う人なの?」
私は目を丸くする。ヤーコプ・フォン・エストーラと言えば、東の大国エストーラ、そして帝国を支配する有力者の一族である。彼の噂と言えばとにかく陰険で陰湿で、ことある毎に子細な注文を付ける厄介な人物と言われている。それだけに、容姿に関する事など言及するイメージはなかった。
暫く、リオネルの微妙な表情に言葉を待って、やっと、それが隠語であることに気が付く。要するに、「フアナに関する情報が気になる」と言う事だろう。私は耳飾りを触って、返答を考える。
直截的な言葉は何者かに聞かれかねない。町を歩く事をあえて選んだのは、もしかしたらそれが最大の隠れ蓑だからなのかもしれなかった。
「……そうね。私も気に入っているのよ。殿下にまた会えたら、どうぞ見に来て頂戴と言っておきなさい」
「畏まりました、ジョアンナ様。「そのように」伝えておきます」
リオネルはわざとらしく礼をした。私の情報網など大したことは無いが、彼の水晶玉の一つでも覗かせてくれるならば、それは一つ意義のある事だろう。
とはいえ、彼の言葉をどの程度信用してよいかは問題でもある。彼は基本的に、監視して役に立ちそうになければ、簡単に切り捨てる人物である。それだけに、フィリップ美伯にこちらの情報を洗いざらい話してしまった今、切り捨てられずにいられるかどうか。リオネルが言った、「警戒すべきは盗撮が趣味のヤーコプ」の事である、警戒するに越したことは無い。
「……今回会話するにあたって、めぼしい情報が入ったとは思っておりませんが、ヤーコプ殿下としては、何事も諍いなく、と言う立場におられるようです」
「『諍いなく』……。そう……」
要するに、彼は現状維持を望んでいる、と言う事だろう。そうなると、カペル王国の事をどうこうしたいという思惑はない、と言う事だ。もしかしたら、昨今の宗教対立で国内が大いに荒れているらしいことも原因なのかもしれない。いずれにしても、私を踏み台にしたいとは考えていないようだ。
私は蒸れた首元を扇がせる。リオネルが路地裏を見たので、私もそれに合わせた。彼は少し考えた後、両の手の指を絡ませ親指を回すいつもの仕草を始めた。
「……少々、失礼します」
「……気を付けて」
私は護衛数名に近づく様に指示し、さらにそこから二名ほどの背中を手で押した。背中を押された二名はリオネルの後ろにつき、私は護衛に守られるようにして雑踏の流れに乗る。リオネルはその場に暫くとどまり、そして、涼しい笑顔のままで路地裏へと入っていった。




