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吝嗇のバナリテ  作者: 民間人。
ゆりかごを覗く時の顔は
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淑女フアナは月にも微笑む5

 ナルボヌ城は川を利用して守りを固めたヴァッサーブルクである。川を天然の壕にして作られているので、当然川魚などの水資源はそれなりに豊富に残っている。

 城の外周を巡る壕である川縁で、リオネルは深く腰掛けて釣り糸を垂らし始めた。


 彼方の水車がかき乱す水の流れが、ここまで波紋を広げることは無いが、水車小屋の様相はここからも望む事ができ、収穫作業を終えた小麦粉を製粉所へ運ぶ人々の群れが見える。水車小屋の軋む悲鳴が聞こえそうなフル稼働を見て、私は思わず口角を持ち上げた。


「いい稼ぎね」


「はい?あぁ、水車小屋ですか。それはもう、そうですね」


 リオネルは曖昧に答え、釣り糸を凝視している。私は網を持ったまま手持ち無沙汰に水車小屋の様子を眺める。穀物を運ぶ牛車の行列と言うのは、確かに壮観と言えるかもしれない。


 リオネルは機嫌よさげに釣竿をちらちらと動かし、生餌がうねるように促している。魚が時折近づいてくるのが微かに認められるが、多くが少しだけ生餌を齧り、そのまま離れてしまう。それを何度も繰り返すばかりで、一向に糸が引く感覚は見られないようだった。


(何が楽しいのだろうか……?)


 リオネルは、仕事や不思議な趣味が多いのだが、釣りはその中では非常に健全で一般大衆向けであって、ある意味彼らしからぬと言える趣味である。

 しかし、彼の趣味の中で最も私に近い感性の人々が楽しむこの釣りという趣味の魅力を、私は未だ解しかねていた。


 退屈だ。網を立て、小さな欠伸をすると、リオネルが釣り糸を川から引き揚げた。何事かと釣り針を見たが、エサがなくなっているわけではない。リオネルは取り上げた釣り糸の先を手繰り寄せ、未だ痛みにうねる生餌を見つめた。


「ジョアンナ様。ギヨーム様でなくこちらに来たのは、話があったという理由もあったのではありませんか?」


「……。あったというか、そっちがメインよ。ブリュージュの事、フアナ様の事、私何も知らないもの」


 フアナとの邂逅は決して初めてではない。父と共に社交会に出れば当然顔は見るし、馬上槍試合の観戦する姿も見た。しかし、逆に言えば、私は彼女の実態としての姿を見ているだけで、フアナ・フォン・ブリュージュ・ツ・エストーラと言う人物の実際の姿を見たことがない。まして、彼女はそうした社交辞令のプロフェッショナルだ。王族にも劣らない精神的な秘匿性に、不安を抱かないはずもない。


 リオネルは生餌を釣り針に深く刺しこむ。痛みに身を丸める生餌に助かる術は最早ない。


「食われるのを待つばかりの生餌に、生きる術はない。フアナ嬢の悪い噂など、星の数ほども聞きましたが、全ては噂に過ぎない。外務官とは、どの噂が真実に近いのかを探る密偵で御座います。……よろしい。私の、知りうる限りの情報を開示いたします」


 リオネルは静かに釣竿をふった。生餌がうねりながら弧を描き、音もなく着水する。僅かな波紋に紛れて、その身を齧られた生餌が必死に身をくねらせている。


「フアナ・フォンブリュージュ・ツ・エストーラある所に、女を侍らせてはならない。その女は彼女の忠実なる特別遊撃隊であるから」


「……ブリュージュは、女の軍隊を持っているの?」


 リオネルは首を振る。静かに水面を揺らす生餌の呻きはここまでは届かない。それに集う魚たちは、最早逃げ場のない生餌を、尻や、頭や、腹から少しずつ摘まんでいく。その度にうねる生餌の様を、リオネルは無表情で見つめていた。


「特別遊撃隊とは、フアナが伯爵に秘匿しながら直属で抱えていると言われる諜報員部隊です……。フアナ様には軍隊を動かす力はなく、その権威があるのはあくまでブリュージュ伯爵フィリップ・フォン・ブリュージュにしかありません。しかし、彼女はブリュージュを中心として各国や各領邦と関係を築き、それを通して情報網を張り巡らせてきました。彼女は常に優位の味方となるとまで言われていますが、それを支えるのが明にはこの情報網、暗には特別遊撃隊であると言われています。この情報が確かかどうかは……正直、可能性は高いとしか言えません」


 フアナ直属の諜報員集団「特別遊撃隊」。あくまで噂であっても、それをリオネルが可能性が高いと言うという事は、相応の理由があると考えられる。私は、リオネルに言葉を催促する。リオネルは静かに頷き、一匹の小魚をつり上げて桶に離すと、手際よく新たな生餌を釣り針に刺した。


「そう考える理由ですか?強いて言えば、うまく行き過ぎている事と、女官を引き連れてくる事が多いのですが、帰国時には一人二人減っている、と言った証言がある事でしょうか。いずれにせよ、フアナ様とかかわる場合には、女性の影にご注意ください」


「わかったわ」


 釣り糸が引く。突然大きな声で「これはでかい!」と立ち上がるリオネルは、私が上司であることも忘れたのか、網を強引に引っ張り、「ほら、早くしてください!」と興奮気味に叫ぶ。私はなされるがまま網を伸ばし、魚を掬い上げる。釣り針の貫通した下顎を外そうと、尾でばちゃばちゃと水面を弾く。飛び散る水飛沫を避けるために、私は網を早急に持ち上げた。魚が網の上をのたうち回る。巨大な尾ひれで網の上をつるつると滑る魚を、リオネルは興奮した様子で乱暴に桶に放り込む。水を張った小さな桶の中に、微かに赤い血が滲む。血は、煙のように広がり霧散した。

 リオネルは満足げに溜息を吐き、目を輝かせる。その目を汚すようなことを続けるのは憚られた。


 しかし、憚られた言葉を続けたのは、リオネルの方であった。


「大きな魚を釣るにはリスクが伴います。今だけは、その情報網にあやかりましょう」


 私は面食らって、目を見開いて彼を見る。彼は顎の外れた大魚が桶の中で静かに水を弾く様を見下ろしていた。


「……ジョアンナ様。私はね、実のところ、カペル王国内部の秘匿された事実について。まさにそちらに興味があるのですよ。それを解き明かすために、私が直接、特別遊撃隊たちと接触したいと、私はそう考えています」


「それが何になるというの?王国を瓦解させる事にメリットがあると?」


 リオネルは片眉を持ち上げて、気味の悪い笑みを浮かべた。


「最も大きなビジネスは、人を殺すビジネスだという事でしょうかね」


 リオネルはそう言うと、突然ゆっくりと立ち上がり、桶ごと川縁を移動する。彼は振り返り、目を細めて微笑んだ。


「人がいなくなれば波が引くのもまた、ビジネスですがねぇ……」


 川を上り、城を離れるにつれ、川中の魚影はより多く、より大きくなっていく。意味も分からず、背中に寒気が走った。


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