セイロンの湖畔にて
●11 セイロンの湖畔にて
ジョセフィン・マイヤーズは、セイロン島コロンボ近くの、ベイラ湖畔の別荘に滞在していた。
ここは裕福なシンハラ人の商人が所有しており、現在はイギリス軍が借り上げている。湖に面した白く大きな建物で、近くにはガンガラーマという立派な寺院もあって、一日に何度かは、お祈りの声がした。
アメリカとの講和には原子爆弾の開発と核実験が必要だと感じた彼女は、帰国するためインド洋沖でいったん南雲と別れた。駆逐艦でひそかにセイロン島の沿岸に移送してもらい、捕獲された日本軍からの脱出を装う。幸い沿岸を警備していた兵士にすぐ保護されて、この別荘へと案内された。
「マイヤーズ少佐、ご身分の確認とアメリカまでの飛行航路の決定には数日を要するものと思われます。しばらくこの家でゆっくりなさってください」
連絡係のイギリス人兵士が、にこやかに言った。
「すまないランス・ロニー・マッカンドレス」
緊張した面持ちの彼は、上等兵の階級をつけた育ちのよさそうな若い海兵隊員だった。
ジョセフィンは上陸のときに泳いだせいで少し風邪をひいて、白いベットに身をおこした姿勢でこたえている。まだなんとなく熱っぽいのだ。
ふっと窓から涼やかな風がふいてくる。
「身の回りの世話は、この召使いにお申しつけください。名前をシャンドリカといいます」
紹介されて、上等兵の後ろから、十五歳くらいの少女がおずおずと顔をのぞかせた。
ジョセフィンと同じくらいの身長で、黒い髪をセンターでわけ、後ろできつく束ねている。衣服は汚れた赤い布を身体に巻き付けただけの、粗末なものだ。
「英語は話せるのかシャンドリカ?」
ジョセフィンはやさしく問いかける。
「は、はい。すこし、はなせますお嬢さま」
「お嬢さまはよせ。よろしくシャンドリカ」
少女は恥ずかしそうに微笑む。
ジョセフィンは若い兵士にベットのまま、握手の手を差しだした。
「ではランス、確認があり次第連絡を頼む。……方法はこの家の電話か?」
これだけの家ならば、電話ぐらいあるだろう。
「はい。まだ基地は爆撃の影響で混乱しておりますが、なんとか平常をとりもどしつつあります。電話でのご連絡は必ず……」
「わかった」
そう言って、ジョセフィンは窓から見えるセイロンのガンガラーマ寺院に目をやり、それからそっと目を閉じた。
逆三角形をしたインドの右下にくっつくようにしてあるセイロン島。面積はワシントン州より小さく、1942年現在の人口は約七百万人だが、その歴史は意外に古い。
文化的な人類の上陸は、紀元前五世紀にはすでに行われていたそうだ。インドからシンハラ人の祖とされるヴィジャヤ王子というのが来て、アヌラーダプラ王国を作ったという。
その後は断続的にタミル人移住者があり、支配者シンハラ人、その中で異質な少数民族の被支配者タミル人という、現在の民族構成の原型になった。
また西洋諸国もこの地をかわるがわる植民地とした。
1505年にはポルトガル人が、また1658年にはオランダ人が来航して植民地にした。そして十八世紀にはイギリスの東インド会社がコロンボを占拠、結局、1802年フランスのナポレオンとイギリスの間でかわされたアミアン講和条約で、正式にイギリスの領有となった。
それとほぼ同時に、イギリスはセイロンの王都キャンディーを制圧して、その結果、王国は消滅、ウィーン会議でオランダからイギリスへの譲渡が正式決定。また十八世紀以降はセンロン茶の栽培をさせる目的で、イギリス人がインド本土から多くのタミル人を連れてきたが、その数は百万人にものぼる。
そして今回は、この太平洋戦争で、アジアの先進国である大日本帝国が、コロンボとトリンコマリーを空爆したというわけだ。
セイロン島の歴史は、インドからやってきた支配層のシンハラ人と、被支配者のタミル人、そして西洋列強によるかわるがわるの統治という、三つ巴の闘いの歴史でもあったのだ。
「……その傷はどうした?」
昼食を運んできたシャンドリカの首に赤い擦過傷がついている。
「あ、いえ……けが、しました」
「誰につけられたケガなのだ?」
「ぎ、ぎんこうのひと」
「どういうことだ?」
斜めの陽射しが食堂に長く伸びて、ジョセフィンのポニーテールの影を固い石の床に映している。
小麦粉を焼いたパンケーキをサフランのスープにひたしながら、ジョセフィンは怪訝な顔になる。
「ここの銀行はいつからギャングになった?」
「わたし、お母さんにたのまれました。でもぎんこう、お金、返してくれません」
あずけた金を銀行が返してくれない、とでも言うのだろうか?
「それは書類を紛失したからか? それともあずかってないとでも?」
「お父さんあずけました。お父さん死にました。だから返してくれない」
そういうことか……。
父親がわずかな金を銀行にあずけた。その経緯はわからないが、貧乏な一家がなけなしの金をあずけるには、それなりの理由があったと見える。たとえば金利につられたとか、働いた工場がその銀行の系列で強制されたとか。
いずれにせよ、父親は死に、銀行は本人がもういないことを理由に返却を拒否しているのだろう。
「で、母親はなんと?」
「お母さん言いました。ワタシタチ、タミル人だから、返してくれない」
淋しそうに笑う。
原因は単に遺産の相続とか、そういう問題ではなさそうだ。
シャンドリカは多くを語れない。それでも汚れてほつれた衣服や、荒れてふくらんだ指、そしてなにより赤い首の傷が、まずしい親子の悲しさを物語っていた。
次の日、またコロンボ基地からロニー・マッカンドレスがやってきた。
「少佐どの、困ったことになりました。イギリスの司令部が、貴女をアメリカではなく、英国に移送するようにと言ってきました」
「司令部とはどこのことで、お前に命じているのは誰だ?」
ジョセフィンは目を上げず、冷ややかに尋ねた。
この別荘に置いてあった本はほとんど読んでしまった。
今は地元セイロンの民族衣装を着て、絨毯に寝転がり、ひまつぶしに百科事典をめくっている。
イギリスの軍装はサイズが合わなかったのだ。
「海軍省のダドリー・パウンド第一海軍卿じきじきのご命令と聞いております」
ジョセフィンはふっと笑う。
「……少し時間をくれロニー、こちらも上にかけあってみる。無線機はあるか?」
「はい、聞いてみます」
「シャンドリカ!」
あけ放たれたドアの向こうで、椅子にすわっている少女に声をかける。
「はい、なんでしょうお嬢さま」
「お嬢さまはよせ」
「はい。なんでしょうジョセフィンさま」
この数日の滞在で、ふたりはすっかり仲良くなっていた。
「のどが渇いたから、お茶をたのむ。よかったらみんなで一緒に甘いお菓子を愉しもう」
「は、はい!」
「ちなみに訊くが」
絨毯にあぐらをかき、あらためてロニーを見る。
「このセイロンからどうやってイギリスに行くつもりだ?」
「イラン、トルコ、ソ連を経由して北極まわりで大英帝国へお越しいただきたいとのことです」
「それはまずいな。そのコースではドイツに狙われる。私が重要な機密を持っていることは?」
「そ、そうなんですか?」
「ああ、この機密をわがアメリカ、ひいては貴国に伝えることは、この戦争の結果に大きな意味をもたらすだろう。ところで、キサマの上官は誰だ?」
すっかり怖くなったロニーは、あっさり将官の名前を口にする。
「バ、バーンズ大尉であります」
「ではバーンズに伝えてくれないかランス・マッカンドレス。見せたいものがあるのでぜひ今夜お越しいただきたい。できれば夕食など一緒にどうか、とな」
「はあ」
ロニーは不思議な顔をする。そこへお茶とお菓子が運ばれてきた。
「まあ靴を脱いでこの上にすわれ。うまいぞこのお茶は……」




