フィリピンに鷹を見た
●2 フィリピンに鷹を見た
とはいえ、部下の前では豪胆苛烈を装う山口も、その実、ちゃんと計算をしていたのである。
(四十ノットなら二時間もあれば海域を出る。六小隊で二時間以内に百五十キロ四方の海上探索をせねばならん……。やはり、一刻も早く敵を倒し、全機を探索にあてるしかない)
まずは敵の護衛機を撃墜するのが先のようだ。
(それに、壊滅させたとばかり思っていた敵の航空機が十機もいた。敵の攻撃にもそなえねばならんな)
山口多聞、案外、慎重だった……。
快晴の上空をゼロ戦が飛ぶ。
翔鶴から発艦した第一攻撃隊の白坂喜栄少尉は、右手で操縦かんを握りしめ、左腕にはめた幅四・八センチ、厚み一・七センチという自慢の海軍天測時計に目をやった。
時刻は午前九時一八分。
発艦が八時五十八分だったから、すでに二十分飛行していることになる。
下方の視界を確保するためにときどき翼をふったり上下動をしながら、目的地へと急ぐ。もうすぐミンドロ島だ。
二十七歳の屈強な身体は、高度六千メートルという、低圧の寒さにもびくともしない。フィリピン総司令官マッカーサーの拿捕という、重大な作戦にむしろ頬は紅潮している。
今日は幸い天気がいいようだ。視界も良好だし、おあつらえむきの空戦日和だ。これなら、きっといい戦績が残せるだろう。
白坂は元来、楽天的な性格だった。なにごともあまり気に病まず、悪く言えば能天気なのだが、腕は確かで、そのため飛行隊長の高橋からも可愛がられていた。
しかし、その楽天家の白坂も、最近は気が優れなかった。一向に戦果に恵まれないのだ。
「そろそろ目ぼしい勲章をあげないとな」
高橋飛行隊長の言葉がよみがえる。
真珠湾には参加しておらず、オーストラリアの戦いでめぼしい敵と遭遇しなかった白坂は、セイロン沖の戦いでも、護衛を任され、自慢できる戦果はなかった。今回も相手は大物とは言え、海上探査かと、いささか落胆していたところだ。
一転、敵護衛機を撃墜せよとの命令に、いやがおうにも血気は横溢していた。
(……っ!)
遠方下方に、緑色の集団が見えた。
「……あれか?」
まだおそらくこちらには気づいていない敵の護衛機が、低空を旋回しているのが見えた。
海上にも目をやるが、さすがに五千メートルの高空からはなにも見えないし、ゆっくり見ているひまもない。
操縦かんを押し下げ、三機小隊の列機二機と、攻撃戦闘態勢に入る。
「ようし、首を洗って待っていやがれ!」
三十秒もしないうちに、敵の一団が反応しはじめる。
こちらは上空、位置はいいが、見つけられやすい。
数を数えるが、やはり十機以上はいるようだ。
先端がずんぐりとしていて、特徴的なカラーリングも施されている。カーチス・ライトP―40に違いない。
フィリピンのアメリカ空軍はもういないと聞いていたが、こういうときのために温存されていたんだろう。
敵数機が機首を上げ、間近に迫る。
カーチスの両翼からババッと白煙があがり、十二・七ミリ機関砲の音が聞こえる。
ガガガガガガガ!
機銃の曳光が見える。
白坂はぐっと左に押し下げた操縦かんを手のひらを反すように右に振り、フェイントをかけながらフットバーを踏み込む。ひと回りきりもみをして、すれ違いざま軽く撃ち返す。
ガガガガガガ!
さらに宙返り。
僚機の散開しながら舞う姿を目の端に見て、重力の変化を感じる。もうすぐ敵機が見えるはずだ。
白坂は左手の機銃レバーに手をかける。
……見えた!
左に逃げようとする大きな翼を、二十ミリ機関砲で撃つ。
ガガガガガガガガガガガ!
バシーン!
カーチスの右翼が吹き飛んだ。
「おっしゃああああ!」
実戦で戦果はあげられていなくても、こんな空戦はいやというほど訓練でやってきたのだ。遅くて拙いこんな相手に負けるはずがない。
白坂はいったん上空に退避して、かるく旋回し、戦闘空域を見下ろす。
「ん?」
黄色いラインが入った、奇妙に動きのいいカーチスがいた。
白坂は気になって、もういちど旋回する。
そのカーチスはさっき白坂がやったように陽動と切り返しをずっとやっている。半径の大きい宙返りを、速度をゆるめて失速ぎりぎりで反転するやり方でカバーして、なかなか僚機に後ろをとらせない。それどころか、ささっと左右に首を振っては、それまで無関係だったゼロ戦に狙いを変えて機関砲を短く撃ちかける。
ガガガ!
ガガガガ!
味方の一機が燃料タンクを撃ちぬかれて離脱していく。
(なんてやつだ……)
よほどの手練れなんだろう。
黄色いラインはもしかすると、そういう証なのかもな。
相手に不足はない。
「オレが……相手だ!」
あんな目立つ黄色い塗装をしたことを後悔させてやろう。
気合をひとついれ、ぐいっとスロットルレバーを押しこむ。
相手も素早く反応してくる。
「こっち行こうぜ」
操縦かんを右へ倒す。
こいつとは乱戦で戦いたくない。
わざと腹を見せながら、少し離れた空域を目指すと、黄色いラインのそいつもついてくるようだ。
ガガガ!
「おっと!」
目の前を曳光弾がひゅん、と飛んでいくのが見える。
きりもみし、今度は左に切る。
カーチスはそれにはついてこず、白坂は一瞬敵機を見失った。
「ちっ」
こういう時はとにかく上空に逃げる。
思い切りスロットルをあげ、計器を見る。姿勢を制御しつつ、反端の機会をうかがう。
よし、これくらいでいいだろう。黄色はどこへいった?
水平にと機体を戻した瞬間……。
ガガガガ!
バシッ!
「うわっ!」
下からの銃撃が白坂機の左翼を撃ちぬいた。
あわてて右に傾ける。燃料もれは……?
わからないが、今はそれを確認しているヒマはなかった。
「ちくしょうっ! どこだ!?」
斜め下にいたのは間違いない。こんど銃撃が来たら、宙返りを……。
ガガガガ!
「うおい!」
あわてて宙返りに入る。
なんてこった!
このオレが、追い立てられてるぞ!
二回、三回と、複雑に宙返りをするが、そのたびに白坂は敵機を見失い、危うく撃たれそうになった。
(フィリピンに、こんなやつがいるなんて……)
今度は機を横倒しにした姿勢で、水平に旋回をはじめる。
五回転しても、まだ形勢が逆転しない。
もうちょっとのところで、上下に切りかえしてこちらの視界から消え、機銃を撃ってくる。
もうだめか、とあきらめかけた時、ごおっと音がして周りが急に暗くなった。
(なんだ?! どうした!)
すっかりうろたえていた白坂は、思わずキャノピーから顔をだした。いつのまにか、黄色いラインのカーチスはいない。
白坂はようやく周りを見る余裕をとりもどした。
上空から飛来したのは、台南海軍航空隊のゼロ戦十七機だった。




