アジア連盟の誘惑
●1 アジア連盟の誘惑
海軍兵学校三十二期。
この言葉には特別な意味がある。
嶋田繁太郎、山本五十六という当代きっての海軍大将を二名も輩出したからだ。その嶋田繁太郎は昭和十七年(1942年)現在、海軍大臣の重職にあった。日露戦争では日本海海戦にも参加した経験があるし、戦艦比叡の艦長をつとめたこともある。軍人としての経歴は申し分ない。
ただ、軍人は政治にかかわるべからず、という海軍の常識があるせいか、政権の一員としての海軍大臣は、軍内でも常にむずかしい立場にあった。その証拠に、嶋田も評判はよろしくなく、東条英機の男妾などという、いやらしい揶揄を受けたり、山本や永野ともあまり仲が良くない。
嶋田は山本と同期とはいえ、九月生まれで現在は五十八歳。性格はいたって慎重、だが合理的だ。このあたりもお調子者でバクチ好きな山本とは相反するものがあった。
昨年末、大日本帝国が真珠湾攻撃による戦端を開いてから、ますます軍部の力は増し、国内ではデモクラシーは死んだも同然になっている。海軍においても、それは政治と軍の関係に微妙な陰影を落とし、その象徴が海軍大臣、嶋田繁太郎であった。
ノックの音がした。
「山本長官がお越しになりました」
「よお」
すわったまま手をあげる嶋田を、山本はちょっと眉をしかめて頭を下げる。
永野総長はすでに、白いカバーのかかった応接イスにすわり、嶋田とともに山本を待っていた。
「山本君ごくろうさま」
「いえ、遅れまして失礼しました」
「かまわんよ。まだ二分しかたってない。現場の責任者たる連合艦隊司令長官は、多忙だからな」
「いえいえ、現場は南雲や井上がやってくれてますからな。そのおかげで、私はもうずっと大和を降りっぱなしですよ」
さすがの山本も、この場では『オレ』を封印している。
嶋田海軍大臣が冗談を続けそうな山本を制して口を開いた。
「さて、今日集まってもらったのはほかでもない。永野さんも山本くんもご存じの通り、この昭和十七年三月、イギリスから停戦の申し入れがあった件です。単刀直入に言おう。あんたたちはなぜ結論を引き延ばすのか」
「いや、オレは賛成ですよ。だが南雲のやつが……」
山本はたちまち地が出て、私がオレになる。
嶋田が手で制する。
「先日のインド洋でのイギリス艦隊、特に空母を二隻もやってくれたのは見事だった。真珠湾からこっち、南雲の活躍は驚くばかりだ。海軍兵学校三十六期、私や山本くんからすると三つも下だが、彼は優秀だ」
嶋田は真珠湾から以降、この太平洋からインド洋をわがものとばかりに席巻している、第一機動艦隊司令長官、南雲忠一の活躍を誉めた。軍部では独断専行とのうわさもあったが、抜群の功績は嶋田にも聞こえており、国内での評判もうなぎ登りだ。
「なかなか機転の利く男ですよ」
山本が自分のことのようにうれしそうな顔になる。
「しかし、今朝もトルコ大使から外務省に電話があったよ。とりあえず停戦に合意しないと、講和のチャンスをなくすとね」
「くりかえしますが、私は即時停戦に賛成なんですよ嶋田大臣。永野総長はそうでもないかも、ですが」
「ははは。英国の時間稼ぎにつきあうなら、駄賃はもらっておきたいだけですよ」
鷹揚に笑った永野修身は、横にいる嶋田を見る。
「大臣、これは南雲くんがわたしや山本くんに語った話で、そして今ではわれわれの共通した意見ですが……」
「ほう。南雲くんが……」
嶋田は身をのりだした。ならば耳を傾けるしかないだろう。
「資源も十分にあり、工業力もあるアメリカは当面講和はしますまい。したがって、この戦争を唯一我が国の有利に終わらせるには英国と講和し、あとはなし崩し的に米国と講和するしかない。その英国の弱点がインド洋での通商破壊だから、われわれはインド洋に出て、そこを抑える。……ま、だからこそ、チャーチルが泡を食って停戦と和議の申し入れをしてきたのですな」
「もうアメリカにも空母ありませんけどね」
山本がまぜっかえす。
永野は特にあわてることなく、
「そう。君がやってくれたんだ山本くん。だけどね、アメリカは今も戦時体制で戦艦も空母も航空機も増産してると思うよ。なにしろあの人口、資源、土地がある。あの国はおそろしい」
と、諭すように言う。
嶋田もわが意を得たり、とうなずいた。
「同感ですな。私が最終的に戦争に賛意したのも、アメリカがフィリピンにB17を三百機も配備する計画を知ったからだ。あそこからなら日本に絨毯爆撃してウラジオストクに着陸できる。だからなんとしても防がにゃならんかった。だがイギリスが停戦するなら、そっちは急いでも罰は当たらんでしょう」
「で、その南雲くんが、これだけはやらせてくれと言って来ておるんですぞ」
「ふーむ南雲がね……これはまだ部外秘なんだが」
嶋田が言いよどんだ。
「実は、今朝のトルコ大使の電話には、具体的な講和条件の提示がありました」
「ほう」
「その条件とは?」
「アジアの国際管理だそうだ。ただしその議長国は日本。あと、そこに英領ビルマから西、セイロン、インドは含まない」
と、でっぷりした腹を撫でながら嶋田海軍大臣が言う。
永野、山本はその意味を考えている。
「いかにもイギリスらしい……」
しばらくして、永野軍令部総長が唸るように言った。
「つまり、イギリスの権益さえ守ってくれれば、あとは君らで話し合え、と?」
「アメリカとの講和も仲介すると言っておるよ」
「ふん!なにが仲介か!おまえらが黒幕じゃないか」
まだ国の体裁を整えていない国家の多い東南アジア、そして中国。それらの国々と資源を、国際管理の名のものとに、先進諸国で分けあおうという趣旨だ。そして大東亜共栄圏の提唱国である日本のメンツをたてて、議長国としてまつりあげる。
あとはお得意の論理交渉と数の力で、ロンドン軍縮会議のように、実質的な利益を掠めとればいいとでも思っているのだろう。ただし、ビルマ、セイロン、インドの植民地は渡す気がない。
「それではアメリカが講和する保証がない!」
山本が膝を叩いてくやしそうに床を睨んだ。
「それどころか、ヘタするとアメリカとの単独戦が残りますよ」
「それともうひとつ。こっちのほうが面白いんだが……」
嶋田大臣がすこし目を細くして言う。
「日独伊三国同盟の破棄を求めている」
「!」
「!」
「たしかに、これがあるかぎり、ヨーロッパの戦いに日本が関わってくる。ソ連とも戦うだろうし、アフリカの戦いに日本が関与することにもなりかねない。わが国からしても、それらが得策じゃないことは、みんながわかっておる」
永野もうなづく。
「もともと三国同盟は、中国をめぐってソ連やアメリカや西欧諸国と対立するわが国の、けん制としての役割ですからな。つまり、開戦しないための方策だった。だが、こうやって開戦してしまえば、もうなんの意味もない」
嶋田が口を開く。
「というわけで、英国の停戦条件は、それほど悪くない。アジアの国際管理……いわばアジア連盟ですな。そしてその前提たる三国同盟の破棄」
「まずはイギリスとの停戦発表、つぎに三国同盟の破棄とアメリカとの停戦、そして最後は太平洋戦争当事国での講和会議……こんな順番ですかな」
「そうです。しかしその前に、われわれは国内と世論を味方にせねばならん」
「南雲は……どうしますか。イギリス東洋艦隊の撃滅まではやらせてくれと言っとりますが」
「山本くん、わたしもイギリスにアメリカの停戦合意をとらせるまでは、攻撃を継続させようと思っていたよ。しかし、、国を挙げての停戦の空気づくりのためには、ここでまず海軍が範をしめすべきと、嶋田大臣はお考えなのだ」
嶋田はうなずく。
「こういうことは態度で示さねばならない。海軍の意思を内外に知らせるには即時停戦が不可欠だ」
「オレもすぐ停戦させるべきだと思いますよ。相手の待てに刀を止めるのが武士道でしょう。それに、そうすれば南雲を太平洋にまわせる」
「山本連合艦隊司令長官、攻撃は明日だそうだね。すぐにでも停戦を命令してくれ」
「わかりました」
「ではたのんだよ。なにぶん国内の親独勢力と、世論は好戦的だ。……」
「あとは畏れ多くも……」
そう言う嶋田を見て、永野と山本は背筋をのばす。
「お上のご決断ですな」
しばらく、沈黙がおとずれる。
「なんにせよ、問題はアメリカだ。あの国と帝国との単独決戦になれば、イギリスとの講和も意味がない」
山本はそう言いながらふと、南雲の顔が浮かんだ。もしや彼なら、もうそのことを考えているんじゃないか。アメリカを黙らせるなにかいい方策を……。
『マッカーサーの航路ハ沿岸ニアラズ 南雲』
マッカーサーの拿捕という、むずかしい任務を南雲から託されている山口多聞は、この電文を空母翔鶴で受けとったあと、すぐさま艦隊をミンドロ島近海へと向かわせた。この島はフィリピンを骸骨が左を向いた姿だとすると、ちょうど肋骨の外側にあたる。
マッカーサーはフィリピンのコレヒドールを脱出して、ミンダナオ島の空港へ逃げ出そうとしている。となれば、本来ならミンドロ島を東にむかい、骸骨の体内を進めば、それがミンダナオ島への最短コースだが、それは電文でいうところの沿岸コースということになる。
それが違うとなれば、では、どこを通るかだが、ミンドロ島のすぐ西には腕のような長細いパラワン島が三百キロ以上ものびており、さすがにこの腕の外側を通ることは考えにくい。それだと距離が長すぎるのだ。
となれば、マッカーサーの船は、ミンドロ島と、パラワン島の間を通るのではないか。というのが山口多聞の見立てだった。それなら沿岸コースではないし、少し遠回りにはなるが、日本軍にも見つかりにくく、比較的安全が見込める。と、これはいかにも慎重なマッカーサーの考えそうなことだった。
艦載機が飛行甲板に引き出され、搭乗員が最後の各部点検を行っている。
すでに風上に向かって空母は進路をとり、船首からは白い蒸気が出され、風向きと甲板上の直線を示していた。
翔鶴の艦橋にたち、山口は双眼鏡で前方をながめた。
今朝から、いつでも飛び立てるように、艦載機は準備を整えている。
マッカーサーの乗ったアメリカの魚雷艇が四十ノットの速力が出ることは南雲から聞いていた。だとしたら、それに追いつける高速艇は自分たちにはない。船では拿捕できないのだ。
敵魚雷艇をうまく発見できるか、まずはそれが問題だ。
山口の心配はもうひとつあった。
それは殺さずに捕獲できるかどうかだ。敵の戦闘機が護衛につけば、こちらとの空戦になるし、その場合は魚雷艇の捕獲がより困難になる。
(撃沈でよければ簡単なんだが……)
だが、南雲の指示はあくまでも捕獲だった。
殺害してしまうのは、底力のあるアメリカをますます怒らせるだけ、というのが南雲の考えなのだ。それが正しいかどうかは山口には判断できないが、過去一連の作戦を見れば、南雲の言葉は十分信頼にあたいする。
そこで、山口は考えた。
翔鶴の艦載機でコレヒドール島までの海域を哨戒、発見したら包囲して機銃を威嚇射撃し停船させる。停船したら水上機で近づき、乗員を確保する。もしも包囲をかいくぐって逃げ出すなら、やむをえず攻撃して撃沈させ、海から救助する。
それが山口の出した回答だった。
伝令係が顔をあげた。
「電探室から伝令!」
「どうした?」
「コレヒドール上空に警戒機と思われる機影あり」
「出たか!」
きっと、魚雷艇が出発したんだな。機影はその護衛機に違いない。
山口は確信した。
「数は?」
伝令係が電探を制御する下階とやりとりをする。
「おそらく十機以上と思われます」
係員からの報告を受け、双眼鏡を胸の前に構えた山口多聞は、大きな声をあげた。
「よし、艦載機を飛ばせ。全機コレヒドールに迎い、敵護衛機を撃墜せよ!」
「はっ!」
さて、どうするか。
護衛機は先行したゼロ戦で叩き落す。
そうしなければ、探索の前に敵の護衛機と先に遭遇してしまうからだが、しかし本来の目的は魚雷艇の捕獲なのだ。
しかも相手はおそらく複数の船で別々のコースをたどるだろう。
それらの船をすべて捕獲しなければ、獲りもらすことになる……。
「第一隊はたしか六小隊十八機だな」
航空参謀に問う。
「そうです」
「ではあと六小隊飛ばせ。こちらは戦闘空域にはいかず、しゃにむに、この海域を旋回して小隊単位で魚雷艇を探索し、見つけたら一隻ごとに一小隊三機で追跡、旋回攻撃して停船させろ」
「母艦を見失いませんか?」
「なら、無電をずっと打ってやれ。航空機を旋回飛行すれば、電波の出所はなんとなくわかる」
「しかし司令官、そんなことしたら、沿岸の敵にこちらの場所が……」
「かまわん! 知られたら、その時はその時だ。敵機が来たら全部堕とせばいいじゃないか」
南雲とは違って、こっちは見事なまでの精神論である。




