山本五十六の春
●40 山本五十六の春
「えっくし!」
横須賀にある特別執務室で、山本五十六は上半身裸のまま、大きなくしゃみをした。
「まだ外はお寒いでしょう。窓を閉めましょうか?」
若い事務方の兵士がくすくすと笑う。
「いや、開いているほうが気持ちがいい」
山本はそそくさとメリヤスのシャツをかぶり、その上から軍装を身に着けた。
窓の外には、早咲きの桜が見える。
「乾布摩擦は健康の秘訣だぞ。君もやってみたまえ」
もう春だと言うのに、今年の日本は寒い。外で上半身裸になり、手ぬぐいでゴシゴシ身体をこすると、皮膚の血行が良くなり風邪をひかないのだ。……と信じて、山本はいつもやっている。
「あ、さきほど郵便が来ておりましたよ」
兵士が自席から立ち上がり、山本に一通の角封筒を手渡した。手触りが固い。
裏を返してみると、知人の名前がある。
ああそうだった、と思いだし、山本は封を切って中身をとりだした。
「ふん、なかなかの美人じゃあないか」
「どうされました」
椅子に腰をおろす。
「いや、南雲の息子さんの見合い相手だよ」
「ああ、たしか、進くんとか」
兵士が明るい声になる。見れば南雲進とは同じくらいの年代だ。
きっと、同世代の見合い話は、人ごとでも楽しいものなんだろう。
「ああ、オレが仲人になってやるつもりだ」
「それはそれは」
お、羨ましそうな顔をしてるな。
ま、そりゃそうか。
なんたってオレは栄光ある太平洋連合艦隊司令長官だからな。オレが仲人をするということは、この海軍での出世は約束されたようなもんだ。
南雲も最近はよくやってはいるが、まだオレの名声や人望にはかなうまい。息子の見合い話を持ちかけたら、きっとオレに感謝するだろうし、世間にもオレの存在を知らしめることになる。まさに一石二鳥だ。
満足そうにうなずき、山本は見合い写真を机に置いた。
それにしても、南雲がインド洋連合艦隊司令長官を断ってくれて、ちょっとほっとした。連合艦隊司令長官というポストは、今までひとつしかなかったのに、やつがここんとこあまりに戦果をあげるので、軍令部がインド洋に新たな連合艦隊を創設するとかいいだし、南雲の昇進を決めた。
オレとしちゃ賛成するしかなかったが、本来ならおれが世界連合艦隊司令長官になるべきだった。その旗下にインド洋と太平洋があるなら、格好もつく。
南雲がよくやっているのは認めるが、同格になるのはさすがに面子が立たないからな。
ただ、イギリスとの停戦を三日引き延ばして、残った艦隊を攻撃するというあいかわらずの勝手な行動の罰として、この昇進がふいになったのは、ちょっと可哀そうだった……。
「嶋はんとの会議は十時だったな?」
「さようです。今日は嶋田海軍大臣、永野軍令部総長との三者会談になります」
「わかった。じゃ、それまでに、ちょっとこいつを出す用意をしておこう」
そう言いながら、山本は机から便せんをとりだし、南雲忠一の妻りきへの手紙をしたためはじめた。
机の上の見合い写真には、『佐伯四海 十九歳』と書かれた和紙のしおりがひらひらとそよぎ、桜の花びらが一枚、ふっと舞いおちた。
第二章はこれで終了となります。あいかわらず固くて読みづらい文章で申し訳ありません。第三章は原子爆弾の開発と核実験が大きなテーマになります。一応次章を最終章にする予定ですので、もうしばらくだけ、おつきあいいただければ幸いです。
なお、この「山本五十六の春」の段落は少し落ち着いたら加筆修正する予定です。




