マッカーサーの威厳
●38 マッカーサーの威厳
南雲がジョシーを送りだし、アッズ環礁へと駒を進めていたころ、大日本帝国陸軍の侵攻を受けたフィリピンでは、アメリカ極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサーが、いよいよ脱出を迫られる事態に陥っていた。
「おいジョン、船の整備はいつまでかかるんだ?」
六十二歳のマッカーサーは、ここ、コレヒドール島のコンクリート要塞を改造した司令部の私室にいた。執務机の前で、明るい窓をバックにして立ち、お気に入りの海軍将校ジョン・バクルリーを呼んで尋ねる。
「はい。五隻中三隻までは終わりましたが、あと二隻の仕上げは今日いっぱいかかるかと……」
あいかわらず実に明快な回答だ。
マッカーサーは満足そうにうなずく。
バクルリーは今年三十一歳になる才気煥発な将校だ。
思慮深く、なにより上官への敬意が感じられる。
「つまり、ミンダナオ島には明日行けるのだな?」
「はい。まったく問題ありません」
マッカーサーは長身をかがめるように腰に手をやり、意識的に尊大にふるまう。
私はいま、ここを逃げ出そうとしている。
だが、卑屈になったり、部下を気づかったりしてはならない。
逃げだす時こそ、威厳を重んじるべきなのだ。
「よし。では整備を急がせろ。われわれはいったんミンダナオ島を経由して、オーストラリアに渡り、この極東陸軍司令部を存続させねばならん。すなわち、この撤退にはアメリカの名誉がかかっている」
「イエッサー!」
ジョン・マクルリーは敬礼し、下がっていった。
フィリピンは台湾の南約五百キロのところに位置する島国で、その形は左を向いた骸骨がなにかを拾おうとしているようにも見える。骸骨の頭がルソン島で首都マニラはちょうど骸骨の口の中、そこから七百キロ南の骸骨の腰がミンダナオ島で、両島とも面積は十万平方キロほどあった。
その骸骨の上あご――バターン半島――には、現在八万人ものアメリカ軍と、フィリピン兵、そして現地人が蝟集していて、日本軍相手に籠城中だ。
昨年末の開戦いらい、台湾からの空襲で、すでにフィリピンのアメリカ空軍は壊滅し、首都マニラも無血占領されてしまった。そしてバターン半島の兵たちも、連日の爆撃で疲弊しきっている。
骸骨の上あごの下、前歯が一本外れたようにぽつんと小さくあるのが、いま、マッカーサーらが潜伏しているコレヒドール島だ。首都マニラからは海路で西にわずか五十キロ、面積も五キロ平方メートルしかない。
彼がここからミンダナオに向かうもうひとつの理由は、フィリピン大統領のマニュエル・ケソンと再会するためでもあった。
(やつにはなんとしても会わねばならん……)
マッカーサーは考えた。
彼とは、多額のワイロ金をもらう秘密の約束をしている。それを実行しないまま逃げ出すことは許されない。なんとしても支払わせてやらねば……。
だいたい、いくらアメリカの許可があったとはいえ、私より先に自分の国を捨て脱出するとは何事だ。フィリピンを五年後に独立させるという本国の決定も気に食わないが、そのためにケソンを保護するだと? 彼において行かれた私の立場はどうなる。
できればアメリカの軍事顧問として、それなりの立場のまま残り、しっかり蓄財して名誉ある凱旋帰国をしたい。そうして、いずれはアメリカ大統領にも立候補するのが私の計画なのだ。
そう。あのいまいましいジャップが来なければ、いや、あいつらがもっと弱ければ、いやいや、それよりもちゃんと本国が私の進言に従ってこのフィリピンの軍隊や装備をいち早く増強していれば……。
マッカーサーはいらだち、やたらと部屋を動き回り、窓を見つめる。
ズボンのポケットからマドロスパイプと煙草のケースをとりだし、指先で葉をつまんでパイプにつめる。マッチをすって火をつけると、大きく吸い込んだ。
この私が大統領になったら、今の上の連中、かつての副官や政治屋どもは一掃してやる。そのためにも、まずはミンダナオ島に行ってケソンに金をよこせと直談判するしかない。
それにしても、潜水艦で逃げろとはなんだ。
マッカーサーは本国からの指令を思いだして、歯ぎしりをした。
あの連中は、この私が閉所恐怖症なのを知っている。そんな私に潜水艦などと言うのは、命惜しさに乗ったと、あとで笑いものにするつもりだからだ。冗談じゃない。笑いものにされるのも、狭い潜水艦に押し込められるのも、まっぴらごめんだ。
だから私は脱出艇を、パトロール魚雷艇PT-41にしたのだ。
なにより海の上を走る船だし、船幅六メートルに満たない小さなモーター船だが、多少は威厳というものがある。
マッカーサーはベランダに出た。
目のまえにはジャングルを刈り取った広場があり、車両と多くの兵士が立ち働いているのが見える。遠くには海も一望できる。
パイプをかつん、とベランダの柵に打ちつけて灰を捨てる。
そうなのだ。私は逃げ出すのではなく、司令本部を移すだけのこと。
アメリカ本土では自分は日本軍と戦う英雄と報じられていると聞く。多くの市民から激励の手紙も届いており、国での人気はいまもって損なわれていない。ラジオ放送でも私が日本軍をやっつけていると嘘の内容を流させた。
だから、逃げる今こそ威厳が必要だ。
彼は到着したオーストラリアの空港で、新聞記者たち相手に話す内容をもうなんども練っていた。
『私はアメリカ大統領から、日本の戦線を突破してコレヒドールからオーストラリアに行けと命じられた。その目的は、私の了解するところでは、日本に対するアメリカの攻勢を準備することで、その最大の目的はフィリピンの救援にある。私はやってきたが、必ずや私は戻るだろう……』
どうだ、この一分のすきもないセリフ。
彼はその時の自分の威厳に満ちた態度と、感銘を受ける記者たちのようすを想像して、にんまりとする。
狭い私室にノックの音が鳴った。
「リチャード・サザランドです」
「入れ」
こんどは陸軍の将校が入ってきた。
「バナワンのレーダーサイトから日本の船団らしき影を見たとの報告がありました。それからバターン島の守備隊からも沿岸に日本の駆逐艦らしきものを見たと連絡が入っております。出発が明日では間に合わないかもしれません」
「なんだと?」
マッカサーは思案する。慌てるのは好きじゃない。
しかし電光石火のジャップがここを急襲してきたら?
「やはり明日まで待たれますか」
……いや、それはだめだ。
いま、ここで死ぬわけにはいかない。
「ジョンを呼べ」
ふたたび、海軍将校のジョン・D・マクルリーが呼ばれる。
「ジョン、先ほど五隻の準備完了には今日いっぱいかかると言ったな?」
「イエッサー」
「今、動けるのは何隻だね?」
「三隻であります司令官」
マッカーサーの質問の意図がわからず、ジョンはとまどった。
答えかたひとつ間違うと、この尊大な司令官の機嫌を損ね、信用を失うことになるのは、よくわかっていた。
「あとの二隻にはなにが積んであるのかね?」
「はい。司令官のお荷物であります」
「それを早くいいたまえ中尉!」
「失礼しました!」
「貨物なら明日の出発でも問題ない。だが作戦は一刻を争う。ならば今日三隻で出発できるとは思わないかね」
もともと敵の目を欺くため五隻での出発を命じたのはマッカーサー自身だが、いま、そんなことはどうでもいい。
「いますぐ三隻が出港可能です司令官!」
マッカーサーは満足そうにうなずいた。
「ではそれで行くとしよう。司令部の移転作戦は急務だ。部屋にいる私の家族にも連絡しろ」
「イエッサー!」
マッカーサーはふと、ジョンを連れていく気になった。もともと、自分ひとりが逃げ出したそしりを免れるため、陸軍の将校たちは連れていくつもりだったが、彼がいればいろいろ役に立つだろう。
「船は君が指揮をしろジョン。敵のいない航路を探すんだ」
「アイアイサー!」
自分の決断に満足したマッカーサーは、身の回りのものを整理し始めた。




