タマ蹴られてトントン
●32 タマ蹴られてトントン
ジョシーが真ん中のスペースに進み出た。
おお、木村と向かいあってなんか、腕組みしてるぞ。
木村は腰に手をやって、まだ、どうしたらいいのか迷ってるみたいだ。
周りのみんなは、ただ無責任にわいわい囃している。
そのうち、静かになった頃合いを見て、行司らしい、ランニング姿の若い兵士がひとり前に出てきた。
「はい、じゃあ二人とも、見合って」
「あ、あの……」
「なんだ木村。怖気づいたか」
「……う」
「ジョシー、ケガするなよ。木村も無茶すんな」
こいつら、マジで大丈夫か……?
ジョシーが小さな身体をレスリングスタイルに構えた。
それを見た木村が、くふう、と半笑いの表情になって、前屈の体勢になる。片足を前に出し、両腕を開いて、受ける感じに構えた。
「はっけよーい……」
行司が手刀を差しだす。
「のこった!」
木村が下がっている方の足を前に出そうとした瞬間――。
「HA!」
どすううううううう!
掛け声とともに、ジョシーのブーツが木村の股間にめりこんでいた。
「はうううううっ!」
股間を抑えて、木村がうずくまる。
「ふんっ!」
ジョシーが長い金髪をかきあげる。
「ええええええええええ?!」
みんなが驚き、ついで大笑いをするころ、すでにジョシーはおれのところに戻っていた。
「ジョ、ジョシー、相撲のルール知らないのか?」
「日本書紀には日本相撲の起源が書いてある。初めての天覧相撲は、足をあげて蹴り合い、最終的に出雲の国からきた野見宿禰が、当麻蹶速のあばら骨を蹴り折り、さらに腰を踏み折って勝利したそうだぞ」
そんな無体な……。
おれたちはベソをかいている木村を介抱し、食堂からほど近い、船体甲板へと連れだした。ここは最上部の飛行甲板とちがって、ちゃんと鉄柵もあるし、上に飛行甲板の天井があって暗いぶん、夜の海は明るく見えた。今も、ほぼ満月に近い月に照らされて、海面は白い波に輝いている。
「あたた…まだズキズキする。ひどいよジョセフィンちゃん……」
おれは木村の腰を、とんとんと手刀で叩いてやる。
「大丈夫か?」
「心配するな南雲。あれでも手加減はした」
ジョシーは海を向いて無表情につぶやく。
「ゆ、油断しました。自分の負けです」
でも木村、お前の反則勝ちだぞ?
「ワタシはアメリカで柔道を見たことがある。あれはなかなか凄い技術だな。日本人はみんなやっているんじゃないのか?」
たしかに、この時代のアメリカ人からすると、柔道なんて魔法みたいなもんだろうけど。
「おれはかなりやってた……らしいが、みんなはどうかな?学校では習うだろうが、本格的には限られるんじゃない? まあ総合格闘技で言うと、殴る蹴るがあって、そこから倒して関節技か絞めってのがセオリーだから、ジョシーが蹴ったのもまあ、あながち……」
「はあ……自分も少しは柔道をやりますが……まさか相撲で急所を蹴ってくるとは……気のゆるみです」
木村がしょんぼりしているのを見て、気の毒になる。
「……ま、油断はだめってことだね木村クン」
「は、はい」
とんとん……。
「その、とんとん、ってのはなにをやっている?」
ジョシーが不思議そうに木村の股間をのぞきこんだ。
「これか? これはタマ……いや、なんでもない」
「タマ? ……ああ、キンタ」
「も、もうもう、大丈夫っす!」
たまらず、木村が叫んだ。
「……?」
おれは船体甲板の鉄柵にもたれかかる。
「油断といえば、そろそろおれたちにも油断が生じてくるころだな。みんなの雰囲気もちょっとそんな感じだよな」
木村がはっとしたように姿勢をただす。
「さっきのことでありますか?」
「いや、そうじゃない。油断、というのがまずければ、疲労がたまっている、と言ってもいい。そういう意味じゃ、ストレスの解消はいいことだよ」
「すとれす」
「そうストレス。緊張状態がつづくことを言うんだ。そこからつい油断が生まれることがある」
「はい……なんとなく、わかります」
「おれは精神論は嫌いだ。油断するなというのは簡単だが、上役としては無責任なセリフだと思う。どうすれば油断せずにすむか、万一油断してしまっても、どうすればそれをカバーできるか、考えないとな」
「長官……」
……ん? なんか感激してる?
「勝って兜の緒を締めよとのお言葉、キンタ……いや、胸に命じます!」
いろいろ勘違いしてるぞ?
「月月火水木金金、で、ありますね」
月月火水木金金、と、なんか変な調子つけて歌う。
「木村、休みがいらんとは愚のこっちょだ」
骨頂だジョシー。
それに、木村の身体を悪くしたのはお前だ。
「まあいい。ちょっと考えるよ。休息することと、油断をなくすこと。これは両輪だ。激しい戦闘させてるおれが言うのもなんだが、手は打たないとな。お前も早く寝ろ」
そうやって部屋に戻ろうとしているところに、あわてた様子の当番兵が鉄扉を開けた。
「南雲長官おられますか!」
「ん、ここにいるぞ。どうした?」
「はい。司令部より緊急の入電あり。小野参謀がすぐ艦橋にお越しくださいとのことです」
おっと……。
浮かれている場合じゃないのはおれもだったか……。
艦橋に到着すると、そこにはもう大石、小野、源田ら、主な参謀たちがつめかけていた。昼間の緊張の連続で、この時間には休んでいた人間もいたはずだが、みんなはきちっとした格好をしている。
いつもは薄暗い艦橋だが、今夜は少しだけ明るめだ。
窓の外には、月と星と、ちょっと暗い海原が見えていた。
「緊急入電だって?」
おれは小野に問う。
「はい。読み上げます。軍令部発第一航空艦隊。英国トノ和議始ムニヨッテ即時停戦セヨ」
「軍令部?」
あれ?おかしいな。山本長官からじゃなく?
それに、停戦命令はまだマズイっしょ。
とうとう和議がはじまっちゃったのか? それとも今日の海戦を見て、イギリスが慌ててなにか言ってきたのか。
「もうひとつあります」
「ん?」
「軍令部発南雲忠一。貴官ヲインド洋連合艦隊司令長官ニ推挙の用意アリ」
「……」
「……」
……なるほど。だから太平洋艦隊司令長官命ではなく、軍令部命だったのか。
「長官!おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
最初はとまどっていたみんなが、なんとなくの空気で騒ぎはじめる。
いやいやいや……。
どっちも非常にマズイんだって。
おれは肩を落とす。
ちょっと厄介なことになってきた。
とてもじゃないが、どっちも唯々諾々ってわけにはいかない。
「どうした南雲忠一。停戦も出世も喜ばないのか?」
ジョシーめ。この意味をちゃんとわかっているくせに、にやにやしながらおれに皮肉を言ってやがる。
「みんな静まれ!」
大きな声を出したので、みんながきょとんとして口を閉じる。
おれは小野やみんなを見る。
「停戦は結構だがな、おれとしちゃイギリス海軍への攻撃はアッズ環礁まではやっておきたいんだ。でないとアフリカ、インドの西と東という三つの海路を遮断できず、イギリスはいつまでたっても本気で講和しないと思うからな。このままだと引き延ばされるだけ引き延ばされて、アメリカの生産が本格的に始動しだしたら、再戦になるぞ」
これにはみんなも同感だろう。
出かかったウンチはとめられない、なのだ。
「それと、今おれを太平洋から切り離すのは、たぶん永野総長か山本長官の考えだ。インド洋連合艦隊とは聞こえがいいが、しょせん担当海域が減っただけ。小うるさいおれをこっちに閉じ込めといて、ヘタするとこっちの戦力を削って米豪分断やハワイ方面に投入しかねない。それじゃあ、いつ足元をすくわれるかわからん」
うーん、鍋食った時には、そんな風には見えなかったがなあ。
はてさて、どうしたもんか。
「小野よ」
「はい」
「打電してくれ。一つ、すでに攻撃態勢なれば、停戦は三日後とされたし。二つ、太平洋インド洋いまだ波高く、機動艦隊のまま太平洋艦隊の直属とされたし」
「でも、それって命令にさからう内容ですよ。本当にいいんですか?」
小野通信参謀が心配そうに言う。
たしかになあ……。




