愛しのウィストンちゃん
●26 愛しのウィストンちゃん
「そういや半導体はどうなったんだ? たしかに超短波へとむかう電波兵器の開発に真空管はとても大事だ。……でも、半導体ができればなにもかもが解決する」
「ああ、あれなら、原理だけは理解できたそうです……」
「できたのかよ!」
お前ら、すごすぎ。
「あ、いや、もちろん私にはわかりませんが……」
進は慌ててつけ加える。
とはいうものの、今日本では、兎にも角にも大量の科学者が動員されて、あのカニンガム報告書の内容に沿った次世代技術の国家プロジェクトが始動しているらしい。
レーダー、VT信管、半導体、いずれもそれなりの成果が期待できそう……。
ま、あとは時間の問題かな。
おれは草鹿の目を見る。
「ところで草鹿、暗号についてはどうなってる? 大本営からはなにか言ってきたか? まさか海域をアルファベットで表す馬鹿なやり方をまだやってるんじゃあないだろうな」
「はい。ちょうどこの赤城と一緒に連絡員が来ましたよ。来月から暗号表もすべて新しくなりますし、海域記号そのものも日々変わることになります」
「おかげで、こっちは大騒動ですよ」
大石が笑いながら言う。
「小野通信参謀がいないのは、そういうわけです」
「……それはよかった。ま、心配の半分は消えたよ」
ここは大英帝国・内閣戦時執務室である。
ロンドンのウェストミンスター・ホワイトホール官庁街大蔵省庁舎の地下にあり、3エーカーほどの広大な地下複合施設の一角にあった。
ヨーロッパ戦線がはじまった1939年に設けられ、今では戦争全般の遂行、ならびに指揮統制を担っている。
イギリス首相ウィストン・チャーチルは、その中の、チャーチル・スイートと呼ばれる彼と家族のための一室で、必死に焦燥と戦っていた。
「いったい、アメリカはなにをしておるのだ」
巨体をゆすりながら、瀟洒な部屋を行ったり来たりしながら、チャーチルはともすれば大きくなりそうな声を、なんとか自制している。
かたわらにいるのは、妻のクレメンティンだ。30年ほど前の、古びたサクラの木で作られたテーブルにすわり、夫を見ることもなく、親戚の娘ジェシカへの手紙を書いている。ジェシカの夫エズモンドは、去年の十一月、ドイツとの戦闘で戦死していた。
チャーチルは熊のような巨体をゆすりながら、独り言をくり返している。もうすぐ閣議が開かれるが、彼には、その前にいつも自分の考えをこうして整理する癖があった。
「せっかくジャップどもが真珠湾を攻撃してわれわれと同じ船に乗ったというのに、負け続けではないか! 空母三隻を瞬く間に失い、いまやわが東洋艦隊が停泊するはずのフィリピンまでをも失いかけておる!」
チャーチルはにぎりしめたこぶしを噛んだ。
「このままアメリカが下がり続け、ハワイより東に押し込められたらどうなる? オーストラリアはあてにはできんし、西海岸の防衛で手いっぱいになったら……」
チャーチルは眉間にしわを寄せてまたこぶしを振った。
「わが大英帝国の東洋艦隊もふがいない。その名に恥ずかしくないよう名実ともに整備したというのに、シンガポールの港すら守れんとは!そんなことだからマレー沖海戦でプリンス・オブ・ウェールズとレパルスという、わが国の至宝二隻の戦艦を失うことになるのだ!」
「マレーにくわえてフィリピンですか……。日本はずいぶん強いんですね」
クレメンティンがつぶやくように言う。
強いだと……?
あの東洋のサルどもが?
こうやって妻が口をはさむのは、彼に冷静な判断をさせたいがためだ。そのことをチャーチルはよく知っていた。
「いや、知っている。やつらは強い。資源もなく山ばかりのあの島で、やつらは戦闘機を磨き上げ、やつらの皇帝のために命を捨てて襲いかかってくる。海の上では無敵だ。特にあのナグモ!」
チャーチルは真珠湾を攻撃し、その後も太平洋を荒らしまわっているという、日本の提督の名前を口にした。
「いまいましいジャップめ! チビのサルめ! 武士道とかいう偽善の輩め! ああ、認めてやるとも。やつは今のところ敵なしだ。やつを止めなくてはアッズの完成どころか、アメリカの出番すらなくなってしまう。だが、アメリカには国力がある!」
チャーチルは演説のときのように、天井をあおいで大声をあげ、その後うつむいて首を左右に振った。
「長引けば長引くほど有利になるのだ! なにかいい手はないか。なにか……」
「日本はなにが欲しいんです?」
「資源だよクレメンティン」
チャーチルはようやく長年連れ添った妻の方をむいた。
妻は今も目を手紙に落としたままで、彼を見ようとはしない。
「あの島国にはなにもないからな。あれだけの軍隊をささえる鉄や油、アルミがないのだ。だからマレー、フィリピン、インドネシアを強奪した。そもそもドイツに征服されてわれわれが太平洋にまで手が回らないのをいいことに、フランス領インドシナをやつらが獲ったことがはじまりだった」
「では資源をあげれば……」
「馬鹿なことを言うな! そんなことをしたら世界が全部やつらのものになる!」
「ふりをするだけですよサー」
妻はサーと呼ばれると夫の機嫌がよくなることを知っていた。
「ふりだと?」
「そこの駆け引きはお手のものでしょサー」
「ウーム……」
しばらく思案にくれる。
「そうだ。いずれアメリカの勝利は見えておる。ただ、このままだと早晩、わが大英帝国の東洋艦隊は全滅してしまうだろう。そうなればアフリカへもロシアへもインドへも補給が出来なくなる」
「時間が必要ってことですか?」
「……」
クレメンティンはもうそれ以上なにも言わず、また机に目を落とす。
チャーチルはしばらく瞑目したあと、決心したように目を見開いた。
「よし、わかったぞクレメンテイン。水面下で交渉をしかけよう。最初はすぐにでも講和するかのように見せて攻撃をやめさせ、その実はえんえんと引き延ばしてやる。あのインドの川のようにな!」
「すばらしいわ! さすがはわたしのウィストンちゃん!」
この奇妙で醜悪な男は、権威主義者でありながらも、同時にまるで少年のように扱われることも好んだ。
「そして、その間にわれわれは態勢を立て直すのだ! フィリップス提督が戦死したあと継がせたレイトン提督はまるでダメだった。わが東洋艦隊はシンガポール陥落を見たらセイロンのトリンコマリーまで後退しよう。あのH部隊の英傑、サー・ジェームズ・サマヴィル提督にセイロンに向かわせ、レイトンから指揮権を引き継がせるのだ! ……す、すぐにルーズベルトに……」
そういうと、チャーチルは洗面所に駆け込んでいく。
そこが盗聴を防止された、アメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトとのホットライン室になっているのだ。
「あらまあ、いそがしいこと……」
いつもの決意に満ちた夫にもどったことを見て、クレメンティンはようやく安心するのだった。
息子の進が別の船で日本に帰り、草鹿が三隻の潜水艦隊を率いてパナマ運河に向けて出発、そして山口多聞に託した翔鶴とその護衛艦隊を残したおれたちは、空母赤城、加賀、瑞鶴、蒼龍、飛龍の五隻と戦艦霧島、榛名、金剛、重巡利根、筑摩、他六隻の駆逐艦らとともに、トラック島を出航することになった。
目指すはインド洋上の、イギリス艦隊だ……。
インドネシアのセレベス島に寄港し、その足でさらに西へと進む。
途中、アメリカの駆逐艦を発見し、第一水雷戦隊があっさりと葬る。もちろん救助は入念に行って、同じくインドネシアのチラチャップを空爆したあと、陸軍へと引き渡したのは、三月のはじめだった……。
「イギリスから講和の申し入れがあったって?」
おれとジョシーは、赤城の甲板から夕陽をながめるのが好きになっていた。
「おまえの思惑通りか?」
「山本長官から電信があったよ。トルコ大使館を通じてイギリスから停戦合意について打診があったと。太平洋とインド洋において両国の戦闘をただちに停止し、その後講和に向けての交渉を行いたいんだとさ」
空母の甲板では、連日兵士たちが柔道や剣道など、決められた運動を行うことが多かったが、さすがに夕方ともなると、配置の兵以外は誰もいない。
きらめく海面を目を細めて見ながら、おれは笑う。
「山本長官からは待機せよ、と言われたが、そうもいかんよなあ」
「なにを言う。お前でも、政府の決定を覆すのはできまい」
「いや、こういうのって、よくある話なのさ。停戦合意なんて、交渉を長引かせるだけの欺瞞でしかない。だから合意破りはしょっちゅうおこるし、なかなか戦争は終わらない。それが本当に停戦になるのは、前線が均衡して、このまま終わってもなんとかお互い納得できる場合だけ」
「本気じゃないってことか」
「ああ、だから、本気にさせてやる」




