瀕死の帰艦
●34 瀕死の帰艦
板谷は抉れてしまった右翼から、燃料が漏れていくのを冷静に見ていた。
燃料が漏れても、航続距離はなんとかなる。ゼロ戦の翼には右と左のタンクがあり、そもそも飛行士は三十分ごとにこれを切りかえて使用するし、さらに翼の燃料が亡くなれば、操縦席下のものを使用すればいい。
板谷は左翼のタンクに切りかえた。
ただ、問題はそういう事態――燃料が漏れるほどの損傷をもたらした翼の被害の方だ。
右の翼は敵機が急降下した際、中ほどをおそらくは相手のプロペラが、半部ちかく削りとってしまっていた。このまま無理をすればたちまち右翼がちぎれ、墜落はまのがれないだろう。
ただちに戦闘空域を離脱するべきだったが、このまま逃げ出すのも癪にさわる。
どうしようかと迷っているうちに、板谷は自然に危険な空域をはなれていた。
ちぎれかけている右翼は、風の抵抗でぶるぶると不気味に震えている。
これでは長官の言うように、無理せず帰ろうとしても、帰れる保証はどこにもない。
むしろ、途中で翼が折れ、太平洋の海原に落下するかもしれない。そうなるくらいなら、やはりサラトガの甲板に身をもって一撃を加えたほうがいいじゃないか?
板谷は操縦かんをにぎりしめた。
そのとき……。
右目の端に、並んで飛行する味方の機体が見えた。
(……?)
それは、淵田隊長機の九七艦攻だった。
ゼロ戦の機体がまたガクガクと揺れた。
板谷は慎重にほんの少し上昇し、九七艦攻のキャノピーが見える位置をとった。
無線を入れ、並飛行する淵田との会話を試みる。
「板谷より淵田機へ。帰艦ですか?」
後席の淵田がキャノピーを開けようとして、力なく諦めるのが見えた。どうやら負傷しているようだ。
「こちら淵田。負傷一名、これより帰艦する」
(た、隊長がケガをされている!)
板谷は身をのりだした。
ケガならきっと敵機の機銃弾を受けたのだ。浅い傷ですむハズがない。
案の定、淵田は青ざめた顔で、ぐったりしている。
「淵田より板谷。飛行に問題はないか」
淵田隊長がこちらを気にして指をさしている。無理して笑っているようにも見えた。
板谷は急に泣きそうになった。
この状況で、隊長はまだ部下を気づかっている。俺が弱気を出してどうする?
それに、もし海に落ちても、誰にも知られず落ちるんじゃあない。
あくまで帰艦をめざし、最後まで操縦かんを放さなかったと、淵田隊長が見てくれている。
南雲司令長官にも、故郷の家族たちにも、きっと俺の最後が正しく伝わる……。
それだけで、充分じゃないか……。
板谷は無線に口を近づけた。
「こちら板谷。飛行に支障あるため帰艦して機を交換する」
淵田隊長がうん、うんと頷いているように見えた。
……そうだ。
帰艦するのが目的じゃない。
また戦うために、俺は帰艦するんだ。
がくがく揺れる右翼を抑えこみながら、板谷は前を向いた……。
空母瑞鶴の飛行隊長は嶋崎重和である。
嶋崎は奈良に生まれ、名門上野中学校から愛知県に移り、海軍兵学校、練習航空隊高等科学生を出て、赤城の分隊長などを歴任したのち、空母瑞鶴の飛行隊長に任命された。
当年三十三歳、順風満帆、まさにエリートを絵にかいたような人生だった。
(そう。俺はいつでも、ついとるんじゃ……)
彼は出撃のときにうけた、原少将からの無線を思いだしていた。
『敵甲板への爆撃を先行させよ』
奇しくも、今回、嶋崎が操縦かんをにぎるのは、九九式艦上爆撃機である。先のエンタープライズ戦で愛機が大きな損傷を受けたため、この爆撃機に搭乗していたのだ。
(……これこそ、仏さんのお導きやな)
制空を担当する部隊が敵機と激しい交戦をしている間、嶋崎ら爆弾と水雷を搭載した機は、少し離れたところを旋回して、攻撃の機会をうかがっている。
一刻も早く、なんとしても敵機の発艦を阻止しなくてはならない。
いく度目かの旋回のあとで、あれほどまとわりついていた敵の戦闘機が一瞬いなくなり、ふっとサラトガまでの視界が通った。
「よし、一番槍もろた!」
プロペラピッチを調整し、スロットルを押しこんで、その間隙を抜ける。
そのまま思いっきり上空に位置をとった。
とにかく、乱戦から抜け出なくてはならない。
高度三千、四千……。
まだまだ余裕だ。この九九艦爆は高度八千までの上昇能力がある。
「後席、敵機警戒せよ」
「準備よし」
エレベータトリムを動かす。
ダイブ用のブレーキをわざとかけてスロットルをゆるめる。
がくんと速度が落ちて、うなだれるように機体は降下に移った。
斜め下方に嶋崎の九九艦爆が切り込んでいく。
眼下の海には、空母サラトガがまるで灰色の子船のように小さく見えている。
甲板からは今も敵機が飛び立っているようだ。
高角砲が飛んでくる。だが、この高度なら平気だ。
嶋崎はサラトガに照準をあわせる。
スロットルをさらに押してエンジンの回転をあげた。
高鳴るプロペラの音が、やがて集中力で聞こえなくなる。
迫る空母。機体が急降下の空気抵抗でビリビリと震える。
近づく。
まだ近づく……。
「投下~~!」
弾投下のレバーが引かれる。
(……あ、ちょっと早かったか)
ヒュルルルルルルルルル……!
急降下ブレーキをかけ上昇に転じる。
夕焼けの空が眼前をめぐる。
(あ~くそっ!失敗した!)
「命中~~~っ!」
後席の兵士が大声で叫んだ。
(なにっ?)
(やったんか?)
嶋崎はおのれの戦果をたしかめるため、上空をゆっくりと旋回した。
真っ黒な煙が、サラトガの甲板から立ち昇っていた。
味方の九九爆撃機が、われも続けとばかりに空母の上空を狙い始める。
敵のF4Fが、そうはさせじと追いかける。
それを機会と見た雷撃機が、大きく旋回して水平飛行に入った。
バルバルッ……バルッ!
(いかん!燃料切れだ)
板谷はあわてて燃料タンクを胴体内に切りかえた。
さきほどから、少しずつジュラルミンの装甲が剥がれ、右翼はいよいよ骨だけになっている。ともすれば右が重くなり、回転しそうになるのを板谷は必死に尾翼操作で抑えこんでいる。
このままだと一分もつかどうか。
そんな恐怖と戦いながら、板谷はただひたすら前を行く淵田機を見つめていた。
たぶん少しでも風圧を受け持つつもりだろう。淵田機は速度を限界まで落とし、板谷機を先導してくれている。
ときおり、はからずも上下に揺れるため、後ろ向きの淵田と目が合う。
そのたびに、淵田は白い歯を見せてくれる。
(隊長すみません……自分も頑張りますので、隊長もこらえてください)
レシプロ機は下部への視界が極端に悪い。
そのため、真後ろについても淵田の顔がしっかり見えるわけではない。それでも、板谷は淵田がずっと自分を気にかけていてくれるのを感じていた……。
数分後、ついに、遠い海上に母艦が見え始めた。
少し黒煙をたなびかせた空母赤城をふくむ、第一、第二航空戦隊がこちらに向かって来ている。
「いける!」
羽根を振って、淵田機が下降を始めた。
板谷も操縦かんを押し下げる。
ギギ……ギギギギ
不気味な音が機体に鳴り響いた。
だが、板谷は音のする方を見ない。見ても仕方がない。
今はただ、まっすぐ、ゆっくり慎重に、着艦するだけだ。
ギギギギギギ―――――!
先行する淵田機はさらに高度を下げていく。
パイロットの声が受声機から聞こえる。
「……板谷、先に行け」
「板谷、諒解」
淵田機が速度を落として、自分の後方に回る。
赤城から着陸許可がでる。
速度を確認すると六十五ノットしかない。だがこれ以上速度をあげると……。
バリバリ、バリバリバリ、バリバリ!
異様な音がして、右翼の装甲がさらに剥がれた。
機体の姿勢維持が困難になる。
フットバーを目いっぱい左に押しこむ。
それでなくても飛行機は上行姿勢だと左に寄りやすい。
右翼が短い状態ではさらに空気抵抗は左へ、上昇気流は右へと、不安定を極めた。
(くそっ!ここまで来ておきながら……)
板谷はスロットルを絞り、速度をあげた。
このままでは失速する。いちかばちかだ。
ふらつく機体が、やや右に向いたまま直進するという、奇妙な姿勢で上下する。
(も、もうだめだ!)
まだ母艦の赤城はまだ三百メートルも先だ。このままだと制御を失ってしまうし、よしんば甲板までたどり着いたとしても、船のどこかにぶつけてしまうかもしれない。
バキ――――――!
決定的ななにかが壊れた。
独楽のように機体がくるくると回転する。周囲がめまぐるしく動く。
ド―――――――ン!!
風防に水しぶきが上がった。
板谷機は、とうとう母艦にたどりつけず、海に落下したのだった。




