原爆実験成功す
●67 原爆実験成功す
昭和十七年九月十一日。
ついに、人類史上初の、原子爆弾投下実験が開始された。
高度一万メートル上空の富嶽より投下された模擬爆弾は、風の影響で模擬艦隊の中心にある米空母エンタープライズの約一マイル南西の海に落下した。それはただちに富嶽に知らされ、風速から逆算した投下ポイントの修正が指示される。
そして、まもなく午後三時になる。
富嶽の機内では、縦列後部の爆弾槽を開け、兵士たちが投下準備のための配置についていた。
操縦席ではすでに修正された投下ポイントに向けて、一定速度の飛行をはじめている。一万メートルというのは、海面に浮かぶ艦隊がほぼ小さなゴミくらいにしか見えない高度だ。もっと低い高度から投下すれば楽にすむのだが、この高さから目標地点に投下せしめる技術試験をも、この実験はかねている。
「富嶽、投下地点まであと五分。飛行観察隊は注意。原爆投下五分前」
基地や各隊に無線を送る航空士の声に、淵田が館内マイクを持ち上げる。広い富嶽の内部では、プロペラやジェットの騒音もあって肉声は伝わりにくい。機内には放送設備が完備されていた。
「第二爆弾槽の投下安全装置を外せ」
淵田の声を聞いた兵士たちが、四名態勢でラッチを解く。正確には左右両側から二名が解き、もう二名がその点検をする、という念の入れようだった。
「安全装置解除、よし」
淵田は雲の切れぎれに届く太陽の光に目をすがめる。
「現在高度八千メートル。投下準備よし」
「投下準備よし」
「全員防護メガネを装着せよ」
ガスマスクは酸素マスクをつけているため必要ない。隊長の淵田をはじめ、搭乗員たちが濃い色のメガネを着用する。
「富嶽、原爆投下まであと一分。各隊は防護メガネとガスマスクをつけよ。秒読みを始める」
となりで上嶋が無線で各隊に指示を送る。
もう下を見る余裕はない。ただひたすら、投下地点にむけてまっすぐ飛行しなければならない。
淵田が投下レバーに手をかける。これほど大勢の乗員による共同作業になっても、最後の投下は淵田自身がやらなくてはいけない。
「五十秒……」
航空士の声が機内に響く。外では噴進機関の甲高い噴射音と、プロペラの重い風切り音が聞こえている。空は明るく、ときおり通り過ぎる雲海がその時だけ視界を遮る。
「四十秒……」
どっという音がして、気圧の変化を感じる。ぐらりと機体が傾くのを、淵田は慎重に操縦かんを操作して復元する。
「三十秒……」
今ので少し左へずれたか? ここでの数メートルが、下界では数百メートルにもなってしまう。針路を勘で少しだけ右へと修正する。
さっきの模擬爆弾では風により思いのほかずれてしまった。その修正はやったものの、やはり一万メートルという高高度からの投下は並大抵の技ではない。敵艦隊やアメリカ本土軍事施設へ爆撃するときは、もっと低高度でやるべきだ、と進言しよう。
「二十秒……」
ここから計画通り上昇していく。めざすは高度一万メートルだ。
「富嶽、原爆投下のため高度一万に上昇中。各隊は待機せよ」
「十秒、九、八、七……」
水平飛行に入る。機体を安定させ、操縦かんをまっすぐに持つ。
「五、四、三、二、投下!」
がっと投下レバーを押す。
がくん!という大きな揺れを感じる。さっきの模擬弾の時と同じだ。巨大な質量が消え、機体がぐっと持ち上がる。
「投下、投下、投下!」
航空士が叫んでいる。ぐっと機首を持ち上げ、大きくターンさせる。機体がバンクし、ジェット音が高くなる。
◇◆◇
板谷は永遠にも思える長い沈黙を数えていた。
「投下、投下、投下……」
そう告げられても、海上にはなんの変化もない。原爆が海上一キロほどの空中に達するまで、一分ほどの時間がかかるはずだった。だが、未知の爆発は実際にこの目にするまで、どんなものか知る由もない。もしかしたら、二十マイルも離れたこの空域では、なにも見えないのではないか、そういぶかしんだ。
大きな旋回曲線を描いて、飛行観察隊は模擬艦隊の周囲を飛んでいる。高度は三千である。板谷自身も、後席の兵も、僚機の搭乗員も、みんな防護メガネとガスマスクを装着している。わずかな爆発なら、みすごしてしまうかもしれない。撮影班はちゃんとフィルムを回しているんだろうか。こんなに静かで、なにを撮影しろというのか……?
ピカッ!
なにかが光った!
その方向に目をやる。そして、淵田は見た。
突然轟々と雲が立ち上がり始めた。
積乱雲に似ているが、今までに見たこともない速さと、大きさの雲だ。ぐんぐんと盛り上がる。
(おおお!)
海面を灼熱に滾らせ、どんな自然現象でも不可能なほどの水蒸気を生んだ爆発は、想像だにしていなかった高度にまで垂直に上がっていく。やがて恐ろしい速さでキノコのような傘をひろげはじめる。
もはや見あげるまでになったその雲は、おそらく一万メートルにも達しているだろうか。なんと恐ろしい! なんだあれは?あんなものが、人間の手によって作られたというのか?!
まだ傘は大きくなる。白から黄色、ピンク色に色を変え、空中に広がり続けている。あたかも板谷たちの観察隊を、すっぽり傘の下に収めてしまいそうな、そんな気さえした。
板谷はその時になって、放射能のことを思い出した。人体に危険と言われるほどの放射能を、あの雲は周囲に撒き散らしているはずだ。
「飛行観察隊、風上を維持しろ。各隊はガイガー計数管を測れ」
しばらくして無線が入る。
『宇宙線反応以外はありません』
「こちらも同じ」
よかった! これだけの距離をとっておいてよかった。あの中にまきこまれていたら、きっと無事ではすまなかったろう。
だが、富嶽は……?
板谷はふと富嶽のことを思い出す。
富嶽は高度一万で投下したのではなかったか?
だとすると、この異常ともいえる爆発雲の、ちょうどあの傘の中にいるのではないか?
風上を旋回しながら、やや上昇してみる。雲の行方を撮影するためでもあるが、富嶽の姿を見て安心したかった。模擬爆弾投下のときに見た、あの巨大で勇猛な姿を、もういちどこの目で見て、無事を確かめたかった。
だが、その目的は別の方法で達せられた。
『富嶽……れより……定通……飛行して帰投……』
淵田美津雄の声が、無線からとぎれとぎれに聞こえてきた。
大丈夫だ。放射能が無線を妨害しているんだ。飛行前の訓示で言っていたじゃないか。原爆が爆発したら、しばらくは無線が使えないかもしれないと……。
板谷はそうわかっていながらも、マイクを口にあてがう。
「富嶽、無事か。富嶽、無事か」
返答はすぐに帰って来た。
『富嶽無事、富嶽無事、富嶽無事』
ようやく息を吐いた板谷は、いまや成層圏へと上昇を続けている褐色のキノコ雲を見あげた。
上じゃない。俺たちは下に用がある。
板谷は自分たちの務めを果たすべく、操縦かんを下へと向ける。さあ、これからが俺たちの本番だ。模擬艦隊がどうなったのか、できるかぎりの低空で、観察と記録をするんだ。
煙を吐いて炎上している船たちが見えてくるころになって、板谷はようやく防護メガネを外した。
原爆実験は無事成功いたしました。その威力は?そしてそのころ南雲ッちは? ご感想、ご指摘にはいつも励まされております。ブックマークをよろしくお願いいたします。




