準備よし
●65 準備よし
クエゼリン島を出て、ビキニ環礁まで百マイルの海域に赤城艦隊を移動させるため、おれたちは午前八時を待って出航した。
この島からビキニ環礁までは二百三十マイル(海里)ほどだから、計算では、五時間もあれば到着するはずだった。
その後の予定は次の通り。
午後一時、空母赤城から飛行観察隊発艦
午後二時 富嶽到着 模擬弾投下
午後三時 原子爆弾投下
とにかく観察のチャンスは一度しかない。
飛行隊は高度一万メートルからあらゆる写真、映像、録音、計器などにより記録を行い、その後、航空機は直接クエゼリン基地に帰投したのち、ラジオファクシミリで全世界にむけて、その成果を発表するはずだった。
また、国内はもとより、海外の一部記者を含む新聞記者たちには、北のロンジェラップ島に停泊中の空母加賀に滞在してもらっていた。彼らの原稿は、完成次第クエゼリン島に空輸して、本国へ電送することになっている。おれはこの実験を通じて、世界のマスコミとの関りを確立するつもりでいた。
これからの時代は情報をうまく公開して世論を味方につけなければいけない。今のように政府と軍部だけが情報を握り、一般民衆はなにも知らされない、そんな世の中は一日も早く変えてやるべきなのだ。
「長官、お手を……」
そう言われて、おれは腕をまくった。
ここは赤城艦内にある、将官用の医務室だ。大勢の人間が順番を待つ室内には、消毒液とアルコールの強い匂いが満ちている。
比奈かずこさんが、おれの右腕をとって二の腕をゴムで縛った。
アルコールを浸した綿で静脈の場所を拭くと、ひんやりとした清涼感があった。だが、旧式の注射針は、めちゃくちゃ太くて、びっくりするほど痛かった。
「あああいた!」
「我慢してくださいね」
「うう……血液まで検査するんだな」
「ですわね。放射能の影響を調べるとか」
「なる、ほど」
いたた、とつぶやきながら、腕をさする。
この実験に参加するすべての将兵と民間人は、その直前と直後の二回にくわえ、その後も一日おきに合計五回(必要ならそれ以上)観察のために血液採取をすることになっていた。放射能に対する生理学的観察のために、そう決まったらしい。
「それでは、お写真をいただきます」
血液を採り終わったら、待機していたカメラマン――といっても、写真の得意な兵士だったが――がおれの前に三脚を据える。
これも原爆の前と後で外見に変化がないかを調べるんだそうだ。原爆という未知の兵器を前に、記録観察班はけして抜かりがないように、万全を期しているようだった。
ふと、ジェット機の音がしたような気がして、おれはそれで、まだ見ぬ富嶽を思いやった。
(いまごろ、富嶽の連中もやってるんだろうか。機中に軍医やカメラマンも乗ってるのかな……?)
おれはいまも太平洋上空を飛んでいるはずの、その巨大な機体を思い浮かべた。兵士たちは優秀なやつばかりだ。きっと、無駄口ひとつきかず、これ以上ないほど、真剣なまなざしで着席しているんだろうなあ……。
「痛ってえええええ!」
「あ、コラ!動くなと言ってるのがわからんのかッ」
巨体の軍医に針を刺された若い兵士がのけぞる。
全長四十五メートル、全幅六十五メートルの巨体にもかかわらず、六発のエンジンで高高度飛行する富嶽の機内では、分厚い飛行服を身に着け、酸素マスクをつけた若い兵士たちが、慣れない血液採取に大騒ぎをしていた。
高度一万二千メートルの上空には地上の二割しか空気がない。だがこの機体は室内へ空気を押しこむための圧縮装置を備え、低気圧スペースとの圧力隔壁を装備した、ほぼ完ぺきな密閉構造になっている。たが、万が一のことを考え、乗員は全員、酸素マスクの着用を義務づけられていたのだった。
とはいえ、室内に空気はちゃんとあるし、乗員たちは勝手なことが好きな海軍の航空士たちばかりである。機内にしっかり括りつけられた酸素ボンベからゴムのパイプでつながれたマスクを、アゴにずらして平気な顔をしている。
「機外圧力低下。前方低気圧を避けるため少し高度を落とす。高度一万二千より一万」
「高度一万へ降下」
「噴進機関圧力よし……おい、あいつら大丈夫か?」
計器を読み上げていた機長の淵田美津雄が、後ろの騒ぎに頬をぴくりと動かして言った。
「噴進機関よし……大丈夫でしょう。気圧が低くなると痛みを感じやすいですから」
淵田ほど、とはいかないが、これも経験豊かな副操縦士の上嶋がこともなげに言った。まだ飛行半ばであり、若い彼らは、ずっと緊張ばかりはしていられないのだろう。
「内燃機関圧力、温度、よし……おい君、すまんが、ちょっと注意してきてくれ」
やはり気になるようだ。いざとなったら勇猛果敢。だが準備には念には念を入れる。隊長はそういう男だった。
「……そうですね、わかりました」
上嶋は素直にベルトを外し、二名の通信士と二名の航空士を通り過ぎ、さらに後部へと向かう。
この富嶽には六名の飛行要員の他に、原爆投下要員として四名、軍医が二名、そして撮影班がさらに二名、機乗していた。大きな機体だから、狭くはないのだが、問題は機内中央に床から盛り上がった、一辺が一メートルを超える大きな箱が二つ縦列にあることだった。
もちろん、これが原子爆弾の投下用格納庫だ。ひとつは模擬爆弾であり、もうひとつが本物だった。
ところが、これがあるために、奥のスペースは前を視界が隔絶されることになって、操縦席からではなにをやっているのか見えなかった。
上嶋はその格納庫に手をやりながら、奥へと進んだ。上嶋の目に、血液採取される兵士と、その傍らで撮影班が写真を撮影しているのが見えた。
「おい、少し静かにしろ」
「……は。申しわけありません」
とたんに四名の兵士たちがシュンとなる。
彼らのうち、二名は陸軍から派兵されていた。陸海の仲は、昔と違って、少なくとも現場レベルではすっかり良くなっている。おそらく打ち解けあうつもりで、ついはしゃぎ過ぎたのだろう、と上嶋は思った。
「帝国の兵士が注射なんぞで騒ぐな。撃たれたらもっと痛いんだぞ」
バシャっと音がして、フラッシュが焚かれる。
「あ、ちょうど良かった。上嶋一飛曹、ここにお越しください」
二人いるうちの若い方の軍医が、にこやかに手招きをした。
「ん? しかし、こういうのはまずは隊長を先に……」
「同じことですよ。席にお戻りになったら、隊長をお呼びください」
そう言いながら、早くも若い軍医は上嶋の腕をまくり始めている。
「ちょ、いや」
ゴムをぎゅっと閉められ、腕の皮がよじれる。
アルコールをガーゼに湿らせ、腕の内側を拭きとると、銀色のアルミケースから取り出した注射針を、上嶋の腕にぶす~っと突き刺した。
「うわあ!」
叫んでしまってから、慌てて周囲に目をやると、どの顔も吹きだしそうにしている。やたらと針が太い。まるで馬に刺すような太さだ。血液を採取するために、こんなに太い針が必要なのか。それになんだこの痛さは! 気圧が低いと、ここまで痛みに敏感になってしまうのか。戦闘機で榴弾の破片を受けたこともあるが、こんなことはなかった。やはり戦いの最中だったからか?
きゅううっと血を抜かれる間の激痛に耐え、また太い針を抜かれて腕を揉みながら、なんとか写真撮影まで終わらせると、操縦席に帰る。
「また誰か叫んでおったな」
「隊長、軍医が呼んでおります」
「ん?」
「ささ。操縦を代わりましょう」
「あ、ああ」
「どうぞどうぞ」
「じゃ」
淵田がベルトを外して後部に向かう。
上嶋が自動操縦のランプを確認して、高度計に目をやったころ、後席の方から淵田の叫び声が聞こえた。
「あほう!痛いやないか!」
さて、準備おこたらぬ大日本帝国です。はたしてうまくいくでしょうか。ご感想、ご指摘にはいつも励まされております。ブックマークをよろしくお願いいたします。




