サンオイルに女の肌の匂いあり
●3 サンオイルに女の肌の匂いあり
おれは空母赤城の司令官自室に戻ってみた。
部屋にはオアフ島の地図と、ハワイとミッドウェーを結ぶやや大きな海図が貼ってあり、机には兵員の名簿や家族の手紙などがあった。
机の上の壁面には『海軍謹製』とあるゴツい掛け時計があって、時間は午後の五時をしめしている。
寝台の横にはちょっとした応接のテーブルも置いていて、その上には空腹を満たすためなのか、まんじゅうとリンゴが盛られてあった。
「南雲忠一かあ……」
おれはあのとき、屋上から足を踏み外して落下して死に、そしてなにかの運命で、この時代の南雲忠一に憑依か、転生をしてしまったんだ。
そう。転生……流行りの転生ですよ。
ついにおれも転生ヒーローの仲間入りか?
だとしたら、こういう場合、おれにはきっと、なにかの使命があるんじゃね?
それって、なんだ?
もしかすると、おれが卒論で研究したことか?
つまり、南雲忠一愚将論の汚名をはらすことだよな。
そういえば、おれにもそう――南雲が愚将だと思っていた時代があったっけ。
おれはあのときの、ゼミ旅行での仁科教授との会話を思い出す。
「あの時代の戦争は、とにかく航空機の戦争なんですよね」
おれは砂に船の絵を描きながらせいいっぱい背伸びして言った。
仁科教授は長い脚を組んで、サンオイルを塗っている。
頭上には輝く太陽が、強い光を放っていた。
「広い太平洋では空母で飛行機を運ぶ必要があったし、しかもアメリカの空母って、たしかこのとき全部で七隻、そのうちの四隻は大西洋にいて、この太平洋には三隻しかいないんですよ」
「霧島クンよく調べたね。もうすっかりアマチュア研究家じゃん」
仁科教授は、くすくすと笑った。
「じゃ、真珠湾で太平洋にいる空母を全部破壊して、そのままあたりを占領していれば、勝てたと思う?」
「うーん、どうですかね、でもこれだけは言えるんじゃないかな。この広い太平洋を隔てた日本とアメリカじゃ、空母がない限り、戦いにもならない」
おれは誉められてつい饒舌になっていた。
「なのに、あの時南雲がなあ……」
「ふふ……、やっぱり男の子なのよねえ……」
「え?」
「どうしても戦略の方に考えが偏っちゃう」
からかわれたような気になって、おれはすこしむきになって、
「でもそうなんすよ。たとえば真珠湾攻撃は第二撃まではやったけど、三撃目はせずに帰ったんです。だから、真珠湾の石油タンクとか、そのままになった。修理用のドックも破壊しなかったから、その後の戦争にかなり役立っちゃった」
きつく砂を握りしめていた。
「で、あの大敗したミッドウェー海戦ですよ。あまりにも有名な爆弾の積み替え問題ですよね。レーダーを装備した敵に索敵の先を越されて、そのため日本軍は空母四隻、航空機三百機とか失ってしまった……」
「それを言うなら真珠湾攻撃やセイロン沖海戦だけじゃなく、ミッドウェー後の南太平洋海戦でも立派な戦果をあげているのよ。だから南雲忠一は歴史に残る名将との意見もあるわ」
「それはそうですが……」
「ねえ霧島クン。どうして日本とアメリカって戦争になったか、知ってる?」
オイルの匂いが風に乗っておれの鼻腔をくすぐる。
「え~と、リットン調査団で……」
「本質を見なきゃだめよ霧島クン」
「……え?」
「日露戦争からこじれた中国問題を発端にして、でも、結局は資源獲得戦争だったの。国際状況は今も同じ。暴挙に出た国があると、国際社会は経済制裁をするでしょ」
「……」
「つまりあの戦争はこうよ。大韓帝国を併合して中国に侵略し続ける日本に対して、中国での権益を狙うアメリカは、それまで日本で使用する原油の8割を輸出していた国力を生かしてその輸出をとめると言い出した。そうなると日本は生きていけなくなるから、マレー、インドネシアやフィリピンの油田、ゴム、ボーキサイトなんかを強奪するために、南方の各地を占領しようとした」
おれは太平洋戦争での激しい南方戦線を思い浮かべた。
「ところがそうなれば、あの時代その地域を植民地支配していたイギリスやフランスを武力で追い出すことになるわけでしょ。すると欧米諸国をぜんぶ敵に回すことになり、アメリカの太平洋艦隊が出てくる。そうなると日本の本土が危ない」
「あ、そうか、そこで南方作戦をやると同時に、ハワイにいる太平洋艦隊を叩けってことになったのか」
「はい、正解!」
仁科教授は片目をつぶって、おれの鼻の先をちょんと押してくれる。
「そう考えたのよ。山本五十六ってヒトがね」
妖艶ですなあこの人。
しかも急に、似合わない軍人の名前出したりして……。
おれは妙な昂ぶりをおぼえた。
「でもねえ、今この時代から考えると、無謀としか言いようがないわよね。だって、たしか工業力に優れたアメリカは、1943年からの二年間だけでも、百隻ちかい空母を建造したのよ。たとえ真珠湾に空母がいて、それをすべて破壊したとしても、大勢には影響はなかったと思うわ」
「ほ、ほーん、そうなんですね。おれも調べれば調べるほど、勝ちパターンが見えなくて」
「あの巨大爆撃機として有名なB29だって、戦争中になんと千六百機も発注されてるのよ。どんだけ資源あまってるのよってハナシ」
「千六百機!マジすか……」
「資源と工場用地、労働力と科学技術力。けっきょく、戦争は総合力よね」
教授はオイルをしまい、肩から指先に向けて、ゆっくり伸ばしながらつぶやいた。
「あの戦争にも、もしかして勝てたんじゃないかってのは、日本人なら思いたいところなんだろうけど、人口も倍、国力は少なく見積もっても二十倍、毎月空母を完成させるような国とやって、勝つのは不可能に近いわ。だから本当は開戦しちゃいけなかったのよ……それと」
教授はちょっと謎のような微笑みを浮かべた。
「もうちょっと、多面的な戦争終結を考えても良かったんじゃないかしらね?」
おれは南雲の自室で海図を眺め、南雲忠一に転生した自分の使命について考えていた。
そもそも歴史上の南雲忠一が愚将だとする一方的な論にも異議がある。だけど、勝てば官軍、要するに勝ってしまえばだれも文句は言わないだろ。
四百万人も死んで、しかも負けたせいでそのあと何十年、ヘタすると何百年もアメリカの子分、かっこわるいスネオみたいな扱い受けて、世界からバカにされるような目にあうのだけは……まっぴらご免だ!
この戦争を負けずに終結させ、おれ=南雲が生き延び、結果的に戦死者を少なくして世界に平和をもたらせれば、おれが転生した意義もあるってもんだ。
「つまりこうなるな。勝って世界を平和にみちびく!」
ひとりこぶしを突きあげ、おれは叫んだ。
「1,2,3、だあああ!」




