消えないトラウマ
●61 消えないトラウマ
ようやく風が吹きはじめていた。雲には黒々とした隙間が生まれ、星々が宇宙の深淵に煌めきはじめる。満月の月明かりが海上を明るく照らしていた。
大石が報告にやってきた。
「《連合艦隊》配備につきました。いつでも攻撃に移れます!」
「お、そうか。よし、わかった!」
腕時計を見ると、もうすぐ約束の十時だ。
おれの隣には、さっき到着したばかりの山本さんがいた。敵襲の危機はもう去っただろうと、わざわざ六十マイルの距離を天山でやってきたのだ。
おれはふと、仕事をさせてみる気になる。
「ねえ山本長官、ご命令をいただけませんか」
「ん? なにをだ?」
きょとんとしておれを見あげる山本さんに、ちょっとばかり意味ありげな目くばせをしてみる。
「艦隊への攻撃命令ですよ。おれ、一人で責任とるのは嫌ですからね」
「なんだそれは。……ずるいやつだな」
本音はそうじゃない。この攻撃が結果的に問題を生むことはないと、おれも山本さんもわかっている。
てか、もし問題があるとすれば、それはドイツとソ連の内政の問題だろう。つまりドイツ将校ヴェルナー・フックスや、ソ連のアレクセイ・グネチコらが本国でどういう立場になるかってことだ。
おれはあの日の、グネチコとの談判を思い出した……。
「……ねえグネチコさん。ここでおれたちに恩を売るってのはアンタ方にとっても、そう悪いことじゃないと思うんだけどな」
「う……」
あいかわらずのでかい腹を揺らして、グネチコが目を泳がせた。宿舎にしている島のテントの中だからか、黒の上着をだらしなくはだけている。
「アンタの立場はよ~く、わかってる」
おれの言葉を通訳が訳すのを待ち、おれは続けた。
「とにかくスターリンがヤバい、だろ? 彼に睨まれたら――いや、もしも暗殺リストに載せられたら、アンタの国じゃ安全な場所はない。だけど、このことはおれたちだけの秘密でいいんだ。おれたちはアンタやドイツの協力を恩には感じてもけして口外しないし、当然スターリンにだって言わないよ。……もっとも、アンタが言うべきと判断したなら、いつでも言ってくれていいし、そのことに同意する準備はいつでもある。それにね……」
おれは悪戯っぽい目をして、グネチコの小さな眼をのぞき込んだ。
「これはもしもだけど、アンタがもしもソ連を出たいと思ったなら、万全の態勢で受け入れる約束はするよ?」
おれの武器は世界観だ。
この時代のソ連がどんなで、スターリンがどんな悪党で、ヤツが握る暗殺のリストと、その実行部隊がいかに恐ろしいかを、おれは充分すぎるほど知っていた。
もともとおれは社会の先生だし、そうでなくても、おれが生きていた前の世界では、それは映画や小説やドキュメンタリーと、いくつものエンタメで語られていた。
つまり、現代人にとってはごく当たり前の常識なんだ。
気づけば、通訳の男がぶるぶると唇を震わせている。それを見たおれは、自分がどれほど恐ろしいことを話しているのかを理解した。彼は自分が消されるかもと、恐怖におののいているのだ。
「ねえ通訳さん」
おれはたった三人で会話しているこのテントの中で、通訳に向かって声をひそめた。
「君は安心していいんだ。なぜなら、どこかの誰かが日本の大使館に連絡しようと思っても、そのときはきっと信用できる通訳が必要だと思うからね……」
「ミスターナグモ」
グネチコがどっしりと構え、おれを見つめる。
「私は駆け引きや脅しは好まない。たたき上げの軍人だからな。政治にも亡命にも興味はない。だから今のセリフは聞かなかったことにしてもいい。要するに、君らは窮地にあり、友好国たるわれわれに救いを求めている、そういうことでいいんじゃないかね?」
「ま、まあね」
その迫力におもわず気圧される。なるほど、確かにたたき上げの軍人だ。
「なら、素直に言えばいいんだ。助けてくれ、とな……」
ドイツとの交渉はもっとスムーズにいった。彼らとは――今のところだが――同盟国だし、原爆の技術資料と交換に、軽く協力の約束をとりつけることができた。
(残念ながら、ナチスとはずっと仲間ではいられないけどね……)
ヒトラーがいる限り、この世界は良くはならない。
たとえ一時的には仲良くやってても、最後は日独の雌雄を決する世界戦がおこってしまうだろう。そうなる前に袂を分かつか、暗殺するしかないことは、わかっていた……。
「で、モールスへの返信はないんだな?」
山本さんが言う。こめかみに汗が流れている。
「ないですね。でも、やることはやりましたよ。これで講和のときに文句を言われなくて済みますし、世界にも顔が立つ。あとは攻撃の命令だけですね」
「うん……」
「てことで、やりましょう。とにかく、伊四百四隻を含む日独ソの連合潜水艦隊に号令をかけるとすれば、それは長官しかいないでしょう。……それに、そろそろお時間です」
そう言って、おれは腕の時計を山本さんに見せた。
「この、お調子ものめ……」
お調子者にお調子者と言われたのは初めてだ。
「誉め言葉ですよね?」
「……わかったよ。ではやろう」
「そう来なくちゃ!」
小野に目くばせをして呼び寄せる。
「小野、しかと聞けよ。今から山本長官が攻撃命令を出すぞ」
「はッ」
山本さんが立ち上がり、小野に向きなおった。
「こちらA1、大日本帝国海軍、連合艦隊司令長官山本五十六である。潜水艦隊に告ぐ。ただいまより、アメリカ空母への雷撃を命ずる。各艦の健闘を祈る! 以上、電信はじめ!」
「おお!」
なんだかわけのわからない歓声があがる。だがそれは、多国籍軍に日本人がはじめて号令をかけた、記念すべき一瞬だった。
アメリカ艦隊が漂う太平洋上、その東、三マイルの海中に彼らはいた。
取り決めの時刻になり、海面がふいに小山のように盛り上がる。次の瞬間、滝のような騒音とともに水を掻き分けて出現したのは、全長百二十二メートル、水中排水量六千五百六十トンの巨大な潜水空母、伊四百號の四隻であった。
それを両側から挟むように、左舷にはドイツのUボートが、そして右舷にはソ連のS型潜水艦が、黒々とした船体を現してくる。
攻撃命令を受信した彼らは、競うように魚雷発射の準備をはじめた。
「魚雷戦準備。全砲門を開け!」
狙いはとうの昔につけてある。的となるアメリカの空母艦隊は、もはや人影もなく、まるで打ち捨てられた漂流船のように静寂だった。明るい月夜に、そのシルエットはくっきりと浮かび上がっている。
「準備よし!」
伊四百號型潜水艦、旗艦5231の指令室に、水雷長の声が響いた。
あらかじめの手はずで、この旗艦が発射する音を聞いてから、残る五隻が一斉に攻撃することになっていた。失敗はゆるされない。帝国の威信を賭けた責任は重大だ。
この艦に搭載されているのは、直径五十三センチ、長さ七メートルの酸素魚雷が二十本である。たった三隻の軽空母なら、これでも十分すぎるくらいだが、南雲からは六隻全艦が可能な限りの魚雷をぶちこめ、そう命じられていた。
「撃ェ~~ッ!」
ズボン! ズボン!
ズボン! ズボン!
海中に発射音が鳴り響く。
一拍置いて、他の艦からも発射される音が響き渡る。それは聴音室からの報告をまつまでもなく、海中を伝播して巨大な伊四百の艦内に響き渡った。
洋上の空母三隻に向かって、六隻の潜水艦から一斉に雷跡がのびてゆく。特に日本のものと違い、ドイツ、ソ連の魚雷は夜目にも白くあざやかな軌跡である。
三十本近い魚雷が三隻の空母に吸い込まれる。その次の瞬間、まるで火山のような激しい炎と無数の水柱が噴き上がり、すさまじい爆音を轟かせる。
ドドドドドドドドドド……!
それはもはや雷撃音ではなかった。
史上、これほどまでに連続した、そして恐怖を感じるほどに激しい、海上での爆発はなかった。はじけ飛ぶ船の一部と鉄片。艦上にあったさまざまな部分品が宙に舞い、火の玉となって落下する。
爆発ははてしなく続いた。もはや原型をとどめぬ鉄塊となってすら、魚雷はいつまでも発射されつづけた。
その地獄のような光景を、船を揺るがす衝撃波と音を、数キロ先で傍観したのは、ハルゼー率いるアメリカ艦隊の乗組員たちであった。それは彼らに生涯忘れられぬトラウマとなって、深く静かに刻み込まれたのだった……。
酷いシーンですが、まあ空船ということでご容赦くださいませ。だって太平洋にアメリカの空母は許せませんからね。というわけで、次週からはいよいよ原爆実験です。 その前に、ご感想、ご要望、ご指摘などいただければ助かります。ブックマークをよろしくお願いいたします。




