全力の反転
●45 全力の反転
米軍機の大編隊が、鉛色に沈んだ低い海上を飛んでいく。
その姿はまるで地を這う黒いイナゴの大群のように不気味だった。あたりには怒号のようなプロペラ音が、陰り始めた夕空に轟いている。
その先頭集団を行くTBF雷撃機に、二名の兵士がいた。
「大尉、ナグモってのはどこが強いんですかね」
後席で後ろ向きに座るティモシー・サムズが時計を見ながら言った。見たところ年齢は二十歳そこそこで、あまい栗色の髪の毛をしている。頬は赤く、なんとなくお坊ちゃんみたいな風貌だ。
「だってほら、こっちは数も兵器も負けちゃいない。訓練だってやってる。にもかかわらず、真珠湾からこっち、あまり戦況が芳しくないってのは、兵隊の間じゃみんな知ってることですよ。どうしてですか? ……戦いなんて、結局は数の問題じゃないんですかい?」
下界では時速四百キロでが流れる海面が見えている。水平線の向こうは日が沈んでもまだ明るさの残る、あかるい紫色が立ち昇っていた。いわゆるマジックアワーだ。
「そうだな。作戦と物量と……あとは運かな。だが、心配するなティム。今日は俺さまがついてる」
操縦かんを握るのはフェリックス・ピンクニー少尉である。髪はブロンドで耳の上まで短く刈り込んでいた。年はティモシーよりは三つか四つ上だろう。ヒゲをたくわえ、頼もしそうな雰囲気だった。
フェリックスは祖父が地元の政治家であった関係で、小さいころからいろんな意味で特別扱いされてきた。小学校でもガキ大将でいられたし、いつも教師に目をかけられていた。それだけではない。金を持たずとも――地元であれば、どんな買い物だってツケで買うことができたのだ。
そんなわけで、フェリックスはいつも自信満々だった。
実のところ、彼が軍に入隊したのは、そこでも自分が依然として注目に値する存在であると信じたからだが、あいにく、軍はそんなことはお構いなしに、トマスを厳しく鍛え、おかげでフェリックスはようやくまともな大人になり、こうして部下をしたがえて出撃できるまでになったのだった。
「ああ、もうこんなに見えなくなってきた。今日は満月のはずなのに、この雲ですからね大尉。それに、攻撃のときはいいとしても、見えない空母への着艦なんて、訓練してませんぜ」
ティムが薄ぼんやりと雲の奥に光る月をながめて言う。
「心配するなティム。俺に任せろ。どんなに暗くても、きっちり降ろしてやるさ」
いつも根拠のない自信にあふれているのが、フェリックスだったが、どういうわけか軍においては、その無駄な自信がいい方向に作用した。すなわち、みんなが不安になる戦争という代物において、彼のような存在は頼もしく、貴重な存在なのだ。
「お願いしますよ大尉。俺、婚約者がいるんですから」
お互いのことはまだあまり話せていなかった。なぜなら、この出撃に際して新型空母に乗船したのはいいが、組み合わせは訓練のはじまった二か月前に決まったばかりであり、まだそれほど多くの時間を共にしてきたわけではなかった。
さらに、ティムとフェリックス、お互いの相棒が急病になるという不運もあって、彼らはこの機上まで、お互いのことをほとんど知らなかったのである。
「へえ、お前、結婚するんだな」
「ええ、まあ。すごくいい子なんです。大尉にもこれがすんだら紹介しますよ。ねえ、だからジャップを殺したら、俺たち、生きて帰りましょうよ」
ティムが一枚の写真を肩越しによこした。そこには、肩までの髪をパーマにかけた赤毛の女性が微笑んでいた。美人ではないが、愛嬌があって賢そうだ。
「よしよし。心配するな。俺に任せろ。そんなことより、しっかり後ろを見ていろよ」
フェリックスはそう言って、その写真にキスをして後ろに返した。
新たな敵編隊の報を受けて、おれが海図を引き寄せたのは十七時を回ったころだった。
ナウル島の北三十マイルということは、このクエゼリン島には早ければ約二時間で到達する。これでは夜襲のようなものだ。しかも航空機の掩護は各空母に十機足らずしかなく、このままでは護りきれない。
「高橋隊を呼び戻しますか」
源田が真剣なまなざしで再びおれに聞いた。
おれは歯を食いしばり、必死に考える。
敵は捨て身の作戦だ。おそらく直掩機も最低限にして、おれたちの艦隊攻撃にすべてを賭けている。
これはおれと敵司令官との、最後の戦いなんだ。冷静さを失った方が負ける。どこまでも、合理的に最善策をとらなければならない。
おれは両手を机について大石と源田を見た。
「高橋隊の戦闘機二十は迎撃隊に加われ。坂井隊は第二波攻撃隊を迎撃せよ。南と北から挟み撃ちにするんだ。ただし、坂井隊のうち燃料と弾薬の尽きたものは離脱してよい。補給して準備が出来次第、再出撃させよ」
「はッ!」
彼らは第一波との戦いで、もう燃料も弾も残り少なくなっているはずだったが、それしか方法がなかった。
「よし、各艦隊は迎撃態勢をとれ。電探連動高角砲用意!」
参謀たちはすぐに命令に走る。
迎撃隊を率いる坂井は、第一波の攻撃隊を追ううちに、マーシャル諸島近海まで北上していた。
第二波はここから五百マイルほども南に現れたから、対抗するには南下しなければならない。指令部からの命令を聞いて、彼はすぐに部隊を反転させる。ただし、燃料や弾薬はかぎりなく心細い。
しばらく考えた後、坂井はまだ暮れなずむ空と、その雲の奥に輝く月に賭けることにした。
無線を口にあてがう。
「坂井より迎撃隊全機につぐ。これより高度七千にて南下、敵機を発見次第、この高度より一撃離脱で敵編隊を攻撃する。目標は爆雷攻撃機。下をよく見ておけ。かならず黒い影が見える。攻撃がすんで離脱したらそのまま南へ飛び、龍驤か隼鷹に降りて補給せよ」
こうなったら、敵が素通りしてくれた空母二隻が南にあることが救いだ。万が一の場合はそこに降りるしかない。あるいは、ナウル島に不時着することもできる。
「いいか。敵を南雲艦隊に近づけるな。俺たちが母艦を護るぞ」
そう言って、坂井は操縦かんを引いた。
エンジン音が高鳴り、疾風の機首が力強く上空を向く。空は厚い雲に覆われてはいたが、その奥にある月が空の一面を鈍く輝かせている。
高橋赫一も戦闘機二十機を率いて反転した。この時間からふたたび攻撃隊が来るとは予想だにしていなかった。
爆雷機はそのまま敵艦隊に向かわせ、距離三万ほどで旋回待機を命じる。こちらはまだ一発の弾も撃っていなかったから、迎撃をやるのは問題ない。問題があるとすれば、空戦で燃料や弾薬を消費してしまったとか、あるいは暮れた闇の中で敵艦隊を攻撃できるのか、ということだった。しかし、今はそんなことを言っていられない。
どうやら、南雲長官が目指すのは、差し違えではなく、あくまでも無傷での完全勝利のようだ。ならば、やるしかない。
「高橋隊、高度を落とすぞ」
そう無線で送り、北へと針路をとる。
高橋らが敵を目視できなかったのは、おそらく敵が低空を選んだからだろう。であるならば、こちらもそれに合わせるだけだ。
思い切り高度を落とし、海面がはっきり見えるほどになって、水平飛行に移行する。白波がまだ白い空に反射して、輝きながら飛びすさる。
スロットルは全開だった。零戦は当然遅れるだろうが、幸い、二十機のうちのほとんどが新型の疾風だった。時速六百八十キロという途方もない速度が出る。
「むッ?」
目を凝らす。
数キロ先に、やはり低空を飛ぶ敵の編隊が見えた。
「いたぞ!」
高橋は翼をふった。
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