帝国の罠
●7 帝国の罠
ウィスコンシン州ポプラ農場。
十歳の少年ディックは、強い日差しに大人びた顰め面をして、澄み渡る青空を見あげている。
彼が空をあおいだのは、カルバン・クーリッジ大統領専用の郵便飛行機が、軽快なエンジン音を響かせて飛んでいったからだ。
ディックはものごころついた頃から、大空を鳥のように飛んでみたいと思っていた。
道のない空を、自由自在に飛ぶのはいったいどんな気分だろうか?
人や海や山や、あらゆるものを見おろすのは、きっと神様みたいに気持ちいいに違いない。そうだ、僕は大人になったら、きっと飛行機乗りになるんだ。
ディックはこの日、そう心に決めた。
1934年、ポプラ高校へ進学した彼は、マーチングバンドでクラリネットを演奏し、野球、バスケットボール、ホッケーと、持ち前の運動神経を生かして活躍をする。
やがてウィスコンシン大学にすすむと、民間パイロット訓練プログラムに参加し、1941年5月には陸軍航空隊航空士官候補生計画に応募、そこで類まれな才能を発揮した彼は、たった半年でジュニア中尉に任命されることになる。
のちの撃墜王リチャード・ボング、その人であった。
早起きして飛行場に向かった彼は、ガムをくちゃくちゃと噛みながら、自分の戦闘機に向かった。
地上二・五メートルは優にある機首に段はしごを置き、持ってきた三枚のマークを糊で貼る。……うん、なかなかいい出来だ。これは先週ボングが撃墜した敵機の数だった。あとは補強のため、マークの上から透明ラッカーを塗れば完成だ。
命がけの日々、これくらいの楽しみがあってもいい。今はまだ二十枚ほどしかないが、そのうち全米一の撃墜王になってやる。
愛機はもちろん、P―38Jライトニングだった。
双発で三胴。最初は妙な機体だなと思ったが、乗ってみると馬力があって重武装なのが気に入った。しかも双発だから一つエンジンが壊れても墜ちることがない。
丸い車のようなハンドルも操作しやすかったし、機銃発射の電動のスイッチは空戦中でも直感的に扱えた。事実、ボングが搭乗した瞬間、P―38は生き生きと空を駆け、日本のゼロファイターを連日のように撃墜している。
ブーブ、ブーブ、ブーブ……。
とつぜん、鉄塔のホーン型スピーカーから、非常呼集のブザーが鳴り響いた。
基地建物をふりかえると、窓から仲間が手をふり、戻ってくるように手招きしている。
(……出撃だな)
塗料に汚れた手を布にこすりつけ、ズボンの尻であとをぬぐうと、ボングは道具の入った箱とハシゴを持ち、建物へと歩き出した。
ブリーフィングルームに入ると、すでに百人近くのパイロットが席につこうとしていた。早足でクレブトン大尉がやってきて、唐突に説明をはじめる。
「野郎ども地図を手にしろ」
兵士たちが机に置かれた地図を手にする。おなじみの海域図だ。
「今回も日本の飛行機があらわれた。南緯五度、東経129度のあたりを現在南下中だ。しっかりマークしろ」
壁に貼られた大きな海図に大尉自らクロスを打つ。
「作戦はいつもの通り、先発部隊は高高度八千で飛び、その後方を高度四千の後発部隊が飛ぶ。敵機に遭遇したら両部隊は頭を揃え、低空部隊が敵をおびき寄せたら、高高度部隊が叩く。いいな!」
黒いファイルを開くと上目遣いで部下たちを見る。
「今日の先発部隊はマーク、レイモンド、ランドル、ボング、ディクスン、後発は……」
すべての返事を確認すると、パンパン、と手を叩いた。
「以上十編隊、五十機だ。さあ行け!」
「イエッサー!」
パイロットたちが一斉に立ち上がり、駆け足で飛び出していく。
ボングは噛んでいたガムを地図のマーキングした地点に貼ると、ゆっくり立ち上がった。
高度八千の上空から四方に目をやる。敵機は見当たらなかった。
ボングたちの編隊はそろそろ、地図に記した空域を通り過ぎようとしていた。
いつもなら、マーキングの手前で遭遇するのだが、どうしたことか今日は見つけることができない。雲もほとんどなく、視界はいたって良好なのにだ。
無線によると、隊長機の航空レーダーにもなんの反応もないらしい。
ボングは不吉な予感に見舞われた。
この迎撃システムになってすでにひと月あまりになる。日本だってバカじゃない。そろそろ、なんらかの対抗策をとったとしても不思議じゃあなかった。
はたして、時を置かず基地無線が入る。
『新たな敵があらわれた。座標は南緯五度、東経百二十七度だ』
西……?
最初の敵とも遭遇していないのに、新手だと?
首をかしげるボングに、隊長機からも連絡が入る。
『全機反転して態勢を整える。南下してババル島へむかえ』
それを聞き、各編隊はそれぞれに割りあてられた高度に機首を向ける。
なんだかイヤな展開だ。
敵を発見して空戦するのは得意だが、こんな風にあてにならない命令に振りまわされるのは、ごめんだ。そもそも、敵がいないのだから、反転命令だって意味があるのかどうか疑わしい。
ボングはこのままゆっくりと旋回することにした。
ハンドルをひねり、半径が十キロほどの大きな円を描いてしばらく飛ぶ。さらにもう一度、今度はその倍の半径で。友軍たちはそれぞれの高度に分かれて反転し、しだいに一つのところへ集まる。
「おいおいボング!勝手なことをするな」
とつぜん雑音混じりの声が響く。
この機体には比較的性能の良い無線機が搭載されていた。
「偵察ですよ隊長……」
隊長にはいつも目をつけられていた。
それでも、隊長の口調に怒りが滲んでいないのは、ボングがいつも圧倒的な戦果を上げ続けているからだ。命がけの戦場でのヒーローは、いつの世も敵を多く倒すものでしかない。
(……あッ)
上空を見回すボングの青い瞳に、黒いつぶの集団が映る。
高度は彼と同じくらいだが、数は十機あまりか?
「敵機発見ッ!方位……」
無線に叫び、首を周囲にふる。
あ、南にも!
いや、西からも?
……ちがう、四方からだ!
ボングはハンドルをひき、そのまま右へひねる。
「四方から来るぞッ。みんな散れッ」
仲間の混乱した叫びが聞こえる。
敵機はその間も、距離をつめてくる。
ガガガガガガガガガガ!
四方から曳光弾がP―38の蝟集した空域に放たれる。
(くそッ、こっちへ来い!)
ボングは四方のうちの一団に機首を向け、いちはやく二十ミリ一門と十二・七ミリ四門の同時掃射を浴びせる。
ガガガガガガガガ!
ババババババババババババ!
敵はそれをきりもみで躱したかと思うと、その後ろから別の機があらわれて応射してくる。
ガガガガガガガ!
「うおっ!」
電動ダイブレーキをかけながら左に切り、敵機をいなす。
(疾い!)
見た目はゼロファイターとなんら変わらないが、エンジンカウルが黒じゃない。あれは新しい機体だ。
(ガッデム!最初から罠だったんだ)
やつらはこちらを呼び寄せ、四方から攻めてきた。
数こそそれほど多くはないが、新鋭機で腕もたしかなようだ。こいつら、今までの借りを一気に返すつもりだな。
ボングが反転しながら、口の端で笑う。
正面から、一機の疾風が突入してくる。
(させねえ)
罠なら、食い破ってやる!
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