小さな戦利品
●55 小さな戦利品
遠くで航空機の音がしている。
顎の下で、波が揺れるたびに、ちゃぷちゃぷと小さな音を立てている。
高橋赫一とバド・ミッチェルは、もう長いことお互いに銃口を向けあっていた。二人とも、はあはあと激しい息使いをしている。
ふいにバドが鼻まで浸かり、むせこむ。見えない足元では、なんとか浮かぼうと必死に足掻いているのだろう。さっきから、彼はなんどもこんなことを繰り返している。
高橋とて、疲労は限界に達していた。銃を持つ腕はぶるぶる震え、腰や足も痛む。なにより冷蔵庫のような冷たい海水が、体力を刻一刻と奪っていく。
(撃ってしまおうか……)
と高橋は考えた。
かじかんだ指は動かないかもしれない。だがやってみる価値はある。
ただし、これは照明弾だから、直撃したとしても、相手が死ぬとはかぎらない。
……ま、それは相手にしても、同じか。
この状況であの拳銃が当たるかどうか怪しいし、そもそも、弾が出なければそれまでだ。
またバドが溺れそうになる。今度は頭のてっぺんまで沈んで、あわてて波をかき分けてはせき込みながら、水面に顔を出す。
航空機が近づいてくる。
力強いプロペラ音が、上空からだんだん大きくなる。
高橋はふいにバカバカしくなった。
「……やめるか」
高橋はゆっくりと照明弾を真上に向けた。
神経を集中して指を動かしてみる。
ドン!
ひゅるるるる……バアン!
あたりが明るくなる。普通なら照明弾はパラシュートでゆっくり落下するものだが、どうなっているかはわからない。とにかく、上空でジリジリと燃焼材が燃える音がして、その明かりが闇に慣れた目にはまばゆいほどにあたりを照らした。
三メートルの向こうに浮かぶのは、まだ若い兵士だった。
白人だが、日に焼けた褐色の肌をしており、黒い髪なのであまり違和感はない。
瞳の色はわからないが、映画で見たなんとかいう俳優にちょっと似ている気がした。
「……おい、これに掴まれ」
疾風の翼をすこし差しだすようにする。
その意味に気づいた男が、さして迷いもせず、こちらに足掻き、やってくる。
高橋は空を見上げた。
飛行艇らしい航空機が旋回をはじめる。見たことのない、知らない機影だった。
「あれがどっちの救助艇かで……どっちが捕虜か決まるのう」
皮肉に笑いかける。
「……Thank you」
男が左手のパラシュートを手放し、翼に手をかける。
右手に持つ自動式の拳銃はまだ手放していない。無意識なのか、それともわざとなのか、高橋にはわからなかった。
「わしゃ高橋じゃ。マイネーム、イズ、タカハシ」
高橋は照明銃を海に放り、右手を差しだしだ。
男はちょっと考え、同じように拳銃を捨てた。
「バヅ・ミッチュ」
二人は手を握りあう。
百メートルほどのかなたに、水上機が水しぶきをあげて着水した。
それは伊四百型潜水艦による潜水艦搭載用の水上攻撃機、晴嵐であった。
ようやく敵の攻撃部隊がいなくなり、海上では夜を徹しての救助活動が行われている。
航空機が何発もの照明弾を撃ち、あたりを照らしだす。波間に浮かぶ兵士たちを、晴嵐や、十機あまりもの飛行艇、そして大発動艇が走り回って、懸命に救助していた。
おれの命令で、救助に際しては、敵兵もわけへだてなく収容しているはずだ。むろん、銃を向けたり、武装解除に応じず、やむなく射殺したりと、多少の悶着はあったものの、帝国軍の捕虜の扱いが良いことは、米兵にもある程度知れ渡っているらしく、総じて大きな混乱はなかった。
「未帰還機はどれくらいだ?」
おれは源田からの報告を受ける。
「はい。艦隊出撃数は百七十七機。未帰還は五十三機です」
「うーん、多いな……」
緒戦にも関わらず、思わぬ被害が出た。
ようやく艦橋にもどってきた山本さんも、おれの隣で腕を組み、報告を聞いていた。
「南雲くん、飛行士たちはよくやってくれたよ。あれだけの猛攻を受けて、この航空母艦が無事だったのは奇跡じゃないか」
「そうですね……ずいぶん機銃ではやられましたが」
おれは甲板で修復の作業を行う兵士だちを見おろす。穴を塞ぎ、鉄板を敷き、破壊されたフック止め具を応急修理しているようだ。
「それで、救助できたのは?」
「現在までで二十三名。ただし、これは継続中であります。明日も夜半までは捜索を続けます」
「うん、たのんだぞ」
おれはすばやく計算する。今回の出撃は迎撃ばかりだったから、ほとんどが一人乗りの戦闘機だ。つまり、五十三機はほぼそのまま墜とされた人数で、すくなくとも、三十名が犠牲になったことになる。
「不知火の船員はどうだ?」
「むろん海に投げ出されたものは全員救助しました。被雷した際の死者は機関部の九名です」
「よく沈まなかったよなあ」
窓から後方を見る。
そこには、乗員二百五十名に満たないあの駆逐艦不知火が、やや後方へ傾きながらも自力で浮かんでいた。
「亡くなった兵は残念だけど、不幸中の幸いってやつだな。うちの艦隊も、ダメコンがうまくなったもんだ」
「だめこん?」
「ダメージコントロールですよ山本長官。日本語なら……被害回復技術、ですかね?」
「被害回復技術」
なにか感心したように唸っている。
「なるほどな。破壊されないことと同じくらい、いや、それ以上に重要な技術ってことだな」
「空母隼鷹には桜庭という名物内務長がおりましてね。彼の助言でマニュアルを全艦隊に配備しました。同時にダメコンの要員を増やして、戦時には水没区域の封鎖や退避行動を統括させたんですよ」
「なんと。き、君という男は……」
攻めるばかりが戦争じゃないですよ、と喉まで出かかる。
気を取り直して大石にむきなおる。
「とにかく、遭難者の救助をしっかりたのむぞ。生きてるものは全員救い出せ」
「わかりました」
「晴嵐をもっと出そうか?」
山本さんが言う。
「お願いします。今回、晴嵐には大活躍ですよ……」
空母赤城の病院エリアでは、駆逐艦不知火の重傷者を筆頭に、負傷者や救助された兵士たちの治療が、行われていた。
そこにはあの田垣医師や比奈かずこの姿もあった。
「先生、み、みず、水をくれ」
「検査がすむまではいかん!我慢しなさい」
「誰か、母艦へ連絡してくれよ」
「わたくしがしておきましたわ。安心してくださいな」
「俺はなんともない。行くぞ」
「勝手にせい!」
「うーん、うーん」
ケガをしたものは、それぞれの姿で、処置を待っている。
その中に高橋赫一の姿があった。
疲労困憊とはいうものの、海水をしこたま飲んで眩暈に苦しんでいるだけだ。したがって治療と言っても、湿布を貼られた後は、白湯を飲まされ、ただ休めと言われた。
「……」
高橋の腕には米陸軍の腕時計がつけられている。
それは晴嵐の機内で、あのアメリカ兵と交換したものだ。
武装解除で、持ち物をすべて出せと言われた彼が、時計を外して高橋に差しだした。
そして高橋も――なぜそうしたのかは彼自身わからないが――思わず自分のものを外し、渡したのだった。
(あいつ、いつ帰れるんかいな?)
何年先になるかはわからない。
長ければ、この戦争が終わるまで、ずっと捕虜として収容され続けるだろう。飛行士などは特に返さないと聞いていた。
(ま、いいか)
と高橋は思った。
戦って、生き延びた。
それだけで、十分じゃないか。
(俺もいつ死ぬかわからん。こっちが先かもしれんしな)
高橋は腕時計を少しだけ眺め、それから、うとうとと眠りだした。
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