ベーリング海の地獄
●54 ベーリング海の地獄
月明かりに輝くベーリング海を、空母赤城がひた走る。
上空にはさまざまな色の煙が風にながれ、その外側には敵と味方が入り乱れる航空機の戦闘空域がある。
敵の数はかなり減ったが、まだゼロではない。ただ、帝国軍は赤城以外の空母たちから、ぞくぞくと増援が追加されてくるのに対し、アメリカ軍は次第に数を減らしていくばかりだ。気がつけば、爆弾とおぼしきものを抱えて飛ぶのは、数機の雷撃機のみになっていた。
赤城のサーチライトが照らし出す海面には、後方と右舷前方から二本の雷跡が迫ってくる。赤城自身も全速で航行中のため、後方のものはごくわずかな接近速度に見える。
一方、前方からのものは、あっと言う間に命中してしまいそうに思えた。
「面舵ッ」
おれは艦橋上部の監視所を雷跡をもとめて走り、針路を指示し続けていた。
今、この艦に乗船している者の中で、このおれがもっとも水雷戦に詳しく、雷撃を躱す操舵にも通じている。……むろん、これは南雲ッちの経験によるものだが、今のおれは緊急事態になると、それをまるで引き出しを開けるように、取り出すことが出来るようになっていた。
「おもうかじいい」
「おもうかじ~!」
伝令の兵が黒電話と伝声管に叫ぶと、右舷の機関が弱まり、また左に船体が傾いていく。
鋩が白波を力強くかきわける。
おれは鉄柵を持つ両手を握りしめる。
この二発の水雷を躱すのはたやすいことだ。だが、この間に――たとえば最悪の十時方向から――新たな雷撃を受けたとしたら、赤城は挟み撃ちになってしまうだろう。
「十時方向に雷跡いいぃ!」
(ま、こうなるよね……)
さして驚きもしない。
「海面へ投光器を向けろ」
あらたな一本に向けて、空に向いていた投光器が角度を変える。
(けっこう、近い!)
白い軌跡を見て、おれはすばやく計算する。
このまま右へ進めば、最初の二本からは逃れられるが、三本目にはやられてしまう。さりとて、ここから左に針路を変えれば、Xのように交差する、前方からの二本は交差の前に間を抜けて躱せるが、後方の一本が追いついてくるかもしれない。
微妙な駆け引きになりそうだった。
「取舵い!」
「とおおりかあじ!」
「とおりかあじい!」
右舷全速、左舷停止。さっきとはまるで反対の動きに、船体が大きく右に傾く。足が滑って、思わず転びそうになるのを、手の力でなんとか戻す。腰の骨が鉄柵にぶつかり、妙な音を立てるがかまってはいられない。
船の傾きと、雷跡を見る。
まだ早い。
もう少し……。
……よしっ。
「舵を戻せ。両舷全速~っ」
「両舷全速」
「両舷、全速~!」
巨大な甲板を持つ空母が、船首をやや持ち上げるのを感じる。
(いけいけっ!)
「後方を照らせ」
「七時に雷跡いい」
「ヨーソロ」
「ようそろおお!」
シュシュシュシュ……。
やや左後方から雷跡が近づいてくる。
(よし、これならいける!)
そう思った瞬間……。
「二時に新たな雷撃機ですッ!」
(……!)
反射的に首を回すと、一キロほど先の水面近くに敵機が降りてくるのが見える。
その機影ははじめから燃えていた。現れるとほとんど同時に水雷を投下し、不自然にバンクして海面に激突する。
(やりやがった……)
敵の決死の攻撃は功を奏し、自機が破壊される前に、水雷を投下せしめたのだった。
「面舵っ」
当たるなら後方の方がいい。衝撃もすくないだろう。
ゴオオオオオオオオオオオ!
音に驚いて後方を見ると、右舷にいたはずの駆逐艦不知火が、赤城に接近してくる。
(あいつら……)
さっきの敬礼を思い出し、彼らの決意を悟る。
空母を掩護するのが駆逐艦の役目とは言え、それぞれには命を載せている。一瞬退避を命じようかと迷うが、なんとか思いとどまる。
「全速前進」
空母のエンジンが高鳴り、前方で三本の水雷を避ける。駆逐艦が後退していき、赤城の左舷後方に着く。ほとんど同時に、水雷が不知火に激突した。いや、むしろ駆逐艦の方から、水雷に当たりに行ったのだ。
ドオオオオオオオオオ!
火柱があがり、不知火の後部が破壊される。その姿を投光器で照らしながら、おれたちは歯を食いしばり、敬礼を送るしかなかった……。
一時間にも及んだアメリカ軍による赤城急襲は、ようやく終わりをつげようとしていた。
ここは赤城からはすでに二十キロも離れた海域になる。
開戦当初はわずか数キロだったが、艦隊が全速で走るうちに、置き去られてしまったのだ。
その波立つ海面を、高橋赫一は戦闘機の翼一枚にしがみつき、一人漂流していた。
着水したときは水に溺れ、あやうく死にそうになったが、上空を旋回する僚機の羽音におこされ、流れ込む海水を掻き、夢中で機体の外に出た。
あとは沈下の途中で折れて浮かんだ疾風の翼につかまり、今まで流されるまま、生きながらえてきた。
上空をながらく旋回していた僚機も、今はもういない。おそらく戦いの最中に燃料を漏失させたものだろう。
帰投の限界まで、自分を勇気づけるように飛び続けてくれたあいだ、霧のように降る燃料の匂いがしたし、その後しばらくして飛び去ったとしても、高橋にはそれで、十分だった。
もうずいぶん前から、身体が冷たい海水に痺れている。
翼はなんとか浮いている程度で、身体を乗せれば沈みそうだった。
途中で何度も気を失ったから、落ちてからどれくらいたつのか、自分があとどれくらいもつのか、なにもわからない。
ただわかっていたのは、南雲司令官の言葉通り、航空士の命は大切な兵力だから、最後まで無駄には出来ない。あきらめず、最善を尽くして永らえさせねばならない、ということだけだった。
また気を失い、手の力が抜けて磯の匂いのきつい海水をしこたま飲みこんだあと、むせかえりながら必死に目をあけたとき、暗い波間を誰かが泳いでくるのが目に入った。
はあはあと息を整えるが、疲労でぼんやりとしか見えない。
必死の思いで、声を出す。
「おい」
気配がとまる。
息をつぎ、唾を吐き、もういちど言う。
「キ、キサマはどこの艦や?」
「GODDAMN」
「!」
驚いて目を開く。
そこにいたのは、ライフジャケットもなく、パラシュートの切れ端を膨らませて抱き、こちらに銃を向けているアメリカ兵、ダッチハーバー基地から出撃した飛行士の、バド・ミッチェル中尉だった。
「くくく、くそ!」
敵だ、と思った瞬間、目が少し覚める。
同時にふところに照明弾の銃があることを思いだす。
だが出せるのか?
それに、このかじかんだ指で、撃てるのか?
だが相手もあせっている。
褐色の肌に目を剥いて、銃を向けてはいるが、その手はぶるぶると震え、銃は海水でびしょぬれだ。しかも、どう見ても溺れそうにしている。
必死の思いで懐に手を入れ、照明銃をのろのろと取りだす。
「Don‘t move,Jap!!」
うるさいわい。撃つなら撃てや。
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