洋上のウォッカ
●30 洋上のウォッカ
「ノォギィ?」
男の目がちかりと光る。当然この勲章ぎらぎらの太っちょは、ロシアにとって仇敵とも言える将軍の名前を知っているだろう。
草鹿の咄嗟の機転には、おれも驚いた。こいつに、こんなユーモアがあったとは、じつに意外だ。
ともあれ、くだらないブラックジョークを言い合ったことで、おれたちは肩の力を抜きあうことができた。
以下は黒ひげ通訳を介してやった、おれたちのやりとりだ。
「あんた、本当の名前は?」
「うーっぷ、言わんといかんか?」
うわ、息が酒臭ぇ……。
「ア、アレクセイ・グネチコだ。一応、この船の艦長ということにしておいてくれ。おい、シネチェンコ、椅子を持ってこれんか。ここは揺れてたまらん」
「おい草鹿、この大将、酔っぱらってないか」
足元がふらついているのは、波だけのせいではなさそうだ。
「ええ。酔ってますね、あきらかに」
「おい、失礼じゃないか? 酔っぱらいを寄こすのがソ連流のご挨拶かい?」
「スマン、飲みすぎた……」
ふらつく足元を見ながら、グネチコが酒臭い息を荒げている。
ただ、こんなに甲板でふらつくのは、酒のせいばかりじゃないかもな。おれだって、半年も船に乗ってれば、船酔いもしないし、揺れる船内でもふらつくことはない。
「……ははあ、あんた、海軍じゃないな? おれはソ連の勲章はよくしらんが、それ、もしかして陸軍のか?」
「……」
どうやら、図星らしい。
そうこうしているうちに、男たちが二人用の小さな机と、椅子を二脚もってあがってきた。木製の折り畳み式のもので、狭い潜水艦に適したコンパクトな形をしている。
潜水艦の甲板にそれを置き、おれとグネチコは、向い合わせに座る。
「草鹿すまんな。立っててくれる?」
おれが振り返ると、草鹿は笑って、
「いいですよ。兵士は二人ほど上げておいていいですか?」
と聞いている。
「いいけど、武装は解除してくれ。こちらさんだって、寸鉄も帯びてない」
「わかりました」
グネチコは鷹揚にうなづき、草鹿は大発に声をかけて、武器をはずさせた二人の若者を甲板にあげた。
かくしてソ連製S型潜水艦の上で、テーブルごしの、表敬会談がはじまる。
「おい、ヴォトカを……」
「あんた、まだ飲む気かよ?」
「いや、乾杯のためですよ。ナグモ長官」
ほほー、さっき部下が報告に行ったとはいえ、ちゃんとおれの名前を憶えてるんだな。
小さなグラスがふたつと、透明の液体が入った薄いミニボトルが運ばれてくる。
揺れる潜水艦と大海原。まわりにはおれたちの艦隊が堂々と浮かんでいる。アリューシャンの海はいつも風が強いが、今はいたって穏やかだ。朝の太陽も明るく輝いていた。
「ザ・ヴァーシェ・ズダローヴィエ!(あなたの健康に乾杯!)」
グネチコがおれの目を見て言う。
それにしても、でかい顔だな……。
おれも杯を掲げる。
「スターリンに」
「おお、スターリンに」
二人でそれをくいっと煽った。
……。
…………。
「ごっへえええええええ!」
喉を焼き付くような痛みが走り、せき込む。
と、とんでもない酒だこれ!
普通のウォッカじゃないだろ!
「げほげほげほ……」
「だ、大丈夫ですか長官!」
草鹿と兵士たちが慌てておれに近寄る。おれは苦笑いしながら、手で制する。
「……う……あああ。こ、これ……何パーセントあるんだ?」
「むはは、ナグモ長官は酒が飲めない方でしたか」
「いやいやいや、おれだって普通に飲むぞ。だけどこれって口から火を噴きそうなくらい濃い。……おおい、草鹿もこれ飲んで見ろよ」
グラスに注がせ、草鹿に渡す。
「え?お酒でしょ?」
ちょっぴり口に含み、目を丸くして飲みこむ。
「おあああああああ!」
「ほらみろ」
おれらは顔を見合わせてひとしきり笑った。
「ときに……アメリカとの一戦はどうでしたかな? ……まあみなさんの様子と、あの艦隊を見れば、あらかた予想はつきますがな」
落ち着くのをまって、グネチコが言う。
巨漢の酒飲みだとしても、やはり彼も軍人なのだ。戦いの趨勢は気になるらしい。
おれは誇張も含めて、たっぷりと海戦の様子を解説してやる。
「……まあそんなこんなで、二隻の空母艦隊と敵の航空基地はやっつけておきました。北の海はこの先のアッツ島とキスカ島を拠点にして、対米の前線とするつもりです」
「……それはよかったですな、と、言いたいところですが」
「?」
グネチコがグラスを置き、おれの目を見る。
ロシア人にしては日に焼けた、巨大な顔が引き締まり、それなりの迫力を醸し出す。
「わが首脳部には、貴国のこの侵略が、ソビエト連邦とアメリカとの分断を図る目的だと解するものもおりますぞ」
おれは目をそらさず、グネチコを見返す。
「そういや、アラスカはロシアがアメリカに売ったんでしたよね?」
アラスカはもともとロシアの植民地だったところだ。それを1867年、時のロシア皇帝アレクサンドル二世が、アメリカに720万ドルで売却した経緯があった。
そのアラスカの一部を日本が侵略したことは、ソ連にとっても、気味が悪いということだろう。
「売る前だったら……貴国と戦争になってましたぞ」
グネチコが言う。
「オタクとは、もうやりました」
ぎろり、とお互いしばらく見合う。
ふう、と息を吐き、グネチコはもう一度、周りの艦隊を見渡す。
「……たしかに、日露戦争でも、この日米戦争でも、日本はすばらしい軍事力を発揮している。とくに兵器の開発が素晴らしい。きっと日本人は頭がよく、勤勉で働きものなんでしょうな」
おれは笑って、
「そのかわり、資源がない」
と、欧米人みたいに肩をすくめて見せた。
「鉄もアルミも石油もない。今みたいに世界と戦争して、いつまでもやっていられるわけがない」
「……」
「ねえ、グネチコさん。あんた、スターリンとは直接話せる間柄なんだろ? 伝えておいてくれないか?」
「なにをですかな?」
「日本は今歴史上もっとも過酷な時期にいる。国家の存亡をかけて、世界を相手に戦っているんだ。日本にとって、このアジアは運命共同体で、欧米列強に蹂躙されたままではすまされない。いずれアジアの各国は独立し、アジアが共同体としてヨーロッパと伍していくことになるだろう。ソ連はイギリス、アメリカ、日本とともに、世界をリードする立場になる。恩を売るなら今だぞ、と」
「ドイツは? 貴国は軍事同盟を結んでおられる」
「日本の戦略は同盟破棄。ドイツへの宣戦布告です」
「!」
言葉を失っている。
そりゃそうだよね。この時期に、こんな重要なことを潜水艦の上でばらすわけがない。だが、これが南雲流なんだ。
「もういちど言うぞ。恩を売るなら今だ。この国難の時期にかつての敵が助けてくれたら、武士道の国日本はスターリンに感謝するだろう。だが逆に、もしも今の時期におれたちを裏切るようなことがあったら――たとえば日ソ不可侵条約を破って樺太を攻めてきたり、千島列島に手を出したり、日米の仲介をするふりして裏で英米と会談したりしたら――そのときは……このおれがゆるさんからな」
いつもご覧いただきありがとうございます。それにしても潜水艦の上で軍人がそろって腹の探りあい、この先、どうなるんでしょうか(笑) ご感想、ご指摘をよろしくお願いいたします。ブックマークを推奨いたします。




