旅順の亡霊
●29 旅順の亡霊
「おはようございます」
目が覚めて、司令官室で顔を洗い、廊下に出たところで当番の兵士が頭を下げた。
とりあえず甲板に向かう。揺れはそんなにないから、今朝の波は穏やかみたいだ。おれは空母の甲板から見る早朝の海が好きだった。
鉄扉を開けて、目に飛び込む眩しさに耐える。
朝焼けがなんとも美しい。
遠くの東の海がかがやき、オレンジに光っている。海鳥が何羽も甲板の鉄柵にとまっているのを見ながら、大きなアクビをする。
まわりを見渡すと、点々とおれたちの艦隊が浮かんでいた。
空母三隻も含めて、この海域には数十もの艦隊が集結していた。駆逐艦や、それぞれの艦を行きかう内火艇、あの大型の巡洋艦は那智か? 小規模とはいえ、これだけの艦隊が同じ海域に勢ぞろいしているのは、見ごたえがあった。
それにしても……。
(ふあぁ……)
おれはまた、アクビをした。
いやはや、朝の目覚めが超絶悪い。
おれは割と朝は強い方なんだが、今日はどういうわけか眠くてたまらない。夕べ、どうも変な夢を見たせいらしい。ジョシーが出てきたような気がするが、あまりはっきりとは覚えてない。あの金髪を思い出して、なつかしい気持ちもあるが、なんとなく悪態を吐かれたような気もする。
西の方を見る。
予定では数キロの海上にソ連の潜水艦が浮かんでいるはずだ。目を凝らすが、まだ暗くてはっきり見えない。黒く沈んだ中に、うっすらなにかが浮かんでいる気がするが、確証は持てなかった。
ドルン、とエンジンのかかる音がする。
甲板に細かい振動が伝わり、重油の匂いがしてきた。移動にそなえて、バッテリーなどの充電をはじめたのかな……?
「ああ、こちらでしたか!」
振りかえると、草鹿がいた。
「よお、おはよう」
「おはようございます。敵空母二隻を沈めて、堂々の凱旋ですね」
草鹿はいたってご機嫌のようだ。
軍服の前もぴちっと締めて、あいかわらずちょっぴり愛嬌のある少年ぽい笑顔だ。
「今日はソ連の潜水艦と表敬交誼だよな。あれかな?」
西の海を指さす。
急速に明けてきて、さっきよりは黒い影がしっかりと見えてきた。
「そうです。あれです。一時間前からもう打ち合わせの交信がはじまってますよ」
「へー、どうやって? ロシア語のモールスとか?」
「いえ、それは無理ですから外務省を通じています。でも、たまたま、ソ連船には日本語のできる兵士が乗船していたとかで、会ってしまえば話は通じるみたいですよ」
「たまたま、ねえ……」
二人で遠くの潜水艦を見る。
「でも、よろしいんですか?」
草鹿がおれをのぞき込む。
「なにが?」
「なにも南雲長官がわざわざ出向かなくてもいいと思うんですけどね。……それに、危険ですよ。朝一番でもういちど確認いたしますが、本当に、ご自分で会われますか?」
草鹿がそういうのも無理はなかった。いくら強い日本を目の当たりにして、しっぽを振ってきているとはいえ、相手はあのスターリンが率いて大粛清真っ最中のソ連だ。この世界で今のこいつらほど、人間の命を安く見積もっている国を、おれは知らない。
「まあね……不可侵条約を破るのは時間の問題だし、結局はあいつら、状況を見てどっちにつくか考えてるだけだからな。もしもおれが邪魔だと考えたら、暗殺してあとはアメリカのせいとか、普通にやるだろうな」
「や、やめてくださいよ!」
草鹿が目を剥いて大声を出した。
「やっぱり、自分が行きます!」
「とはいえ、そう考えるのは、きっと今じゃないよ。そのために単艦ここまで出張ってきたんだから、今日のところは安全だと思うぞ」
「ほ、本当ですかあ?」
まだ疑わしそうな眼をしてる。
おれは笑って、ぽん、と草鹿の肩に手を置いた。
「さ、もう行こう。おれ、まだ飯食ってないんだ……」
十人ほどの若い兵士を連れ、大発動艇にのりこむ。
クレーンでゆっくりと降ろされるのを待ち、そこから三キロほどの海上に浮かぶ、ソ連のS型潜水艦を目指した。
近づいてみると、全長百メートル足らずの船は、かなり小さく見えた。特に幅は狭くて、海上に出ている部分はほんの数メートルの幅しかない。そのうえ、海面とほぼ同じくらいの高さに甲板があるため、なんとなく今にも沈みそうで心細い。
その狭くて細い甲板の真ん中あたりに、ほんの三メートルほどの高さしかない司令塔があり、その前には砲が一門、据えつけられている。そのさらに前には、三人のロシア人らしい男が立って、こちらを見ていた。
「いるなあ。ロシア人。やっぱ、ウォッカ飲んでるのかな」
おれが大発の船べりに掴まってそう言うと、草鹿がひきつった笑顔で答える。
「まさか! いくらなんでもこんな時に飲まんでしょう」
「はは、は。まあそうだよね」
おれになにかあったら、後は頼む。そう何度も言ったのに、草鹿はどうしてもついていく行くと聞かなかった。おかげで、艦隊の指揮権は角田に移譲してあった。
「さ、着いたぞ」
兵士たちは無言だ。彼らもそれなりに緊張しているんだろう。
静かに大発が潜水艦に近づいていく。吃水線が低いので、大発からはむしろ甲板が下に見える。
うちの兵士が手に持ったロープを見せ、放る真似をする。
すぐに相手側が理解して、受け取るそぶりを見せた。
ロープが渡り、むこうの甲板側面の低い柵に結ばれると、それを引っ張るようにして、大発がだんだんと近づいていく。
「上陸用桟橋を倒せ」
この大発動艇は船首部分が向こうに倒れる、上陸に適した形状をしていた。
ロープで引っ張りながら、慎重に桟を渡す。潜水艦の鉄柵がちょうどよい高さだ。
おだやかな海に、二つの船がつながり、ここに会見のおぜん立てはそろった。
甲板に三人いるロシア人のうち、サングラスをかけ、鼻の下とあごの黒ひげがつながっている年齢不詳な小太りが通訳らしく、妙な日本語を話しだした。
「ワガ国ハ、大日本帝国ノ、ミナサンヲ、歓迎シマース」
おれは黒ひげの後ろに立つあとの二人を見る。一人は丸い毛皮の帽子をかぶっていて、もうひとりは無帽だが皮ジャンパーを着ている。そしてどちらも身長は百八十以上あって体躯もごつかった。
「ふん、歓迎されなくても、来るけどね……」
「ちょ、ちょうかん、やめてください」
まわりに艦隊はいるものの、この潜水艦の上で銃を出されたらお手上げだ。草鹿がひきつった顔でおれの袖を引いた。
「慎重に、慎重に……」
「ここは公海上だ。誰の歓迎がなくても航行の自由はある。……とはいえ、むろん貴国に歓迎されるのは、嬉しい。スパシーバだ」
「おお!ロシア語、わかりますか」
「いや、わかんない」
おれは笑った。
むこうも釣られて笑う。
「日本の方、ユーモアありますネー」
「おれは大日本帝国の南雲忠一。この艦隊の司令長官やってます。こいつは副長の草鹿」
とつぜん新選組みたいに言われて、びっくりしている草鹿が、あわてて敬礼をする。
「で、そっちは?」
「……ちょっと……お待ちください」
おれの名前を知っているのか、黒ひげが顔色を変えて後ろの黒帽に話しかけている。黒帽はうなずくと、すばやい動作で司令塔の中に消えていった。
しばらくして、カン、カンというラッターを昇る音とともに、やたら太ったでかい男があがってくる。
びしっと黒い軍服を身に着け、勲章もやたらとくっつけてるが、腹はでっぷりと前にせり出て、今にもはちきれそうだ。
……あれ、なんかよろけてないか?
「ピリヤート、ポンナコミーシャぺらぺら」
「……あ?」
男がちらりとこちらを見て、なにやらまくしたてている。
黒ひげがなんどか訊き返して、ようやく通訳する。
「はじめまして。艦長のセルゲイ・ステッセルです」
「……てんめえ、喧嘩売ってんのか?」
おれがちょっぴりブチ切れる。
それは日露戦争で名をはせた、有名なロシア帝国の旅順港守備隊、司令官の名前だった。
「はじめまして。乃木希典です」
おおい草鹿?!
いつもご覧いただきありがとうございます。ステッセルでぴんと来る南雲ッちはやはり戦争ヲタクでした(笑) ご感想、ご指摘をよろしくお願いいたします。ブックマークを推奨いたします。




