ソ連が喧嘩を売りにくる
●28 ソ連が喧嘩を売りにくる
攻撃の成功に沸き立つ艦内をしずめ、空母の可能な限りの破壊を指示したおれは、あとのことを草鹿にたのみ、艦橋をあとにする。
さらに最後の報告があったのは、それから三十分ほどしてからだった。
撃沈空母一、駆逐艦三、港湾破壊および陸軍基地ならびに航空機多数の破壊。つまるところ、夜襲は成功裡に終わり、被害も極めて少なかった。
とはいうものの、やはり未帰還機はいる。
その十名足らずの弔いはあらためて行うものとして、おれたちのアリューシャン海戦はおわりを告げた。
振り返ってみれば、やはり今回の作戦は常に敵に一歩先んじた無線技術と、疾風、天山、彗星、ゼロ戦五二型という新鋭機の投入、さらには坂井三郎をはじめとする中国戦線や真珠湾攻撃以来の優秀なパイロットたちの練度のたまものだったと思う。
最初から数的な優位はあったものの、この程度の差なら質でカバーされてしまう。なにより質においても上回っていたことが、この戦いの趨勢を決めたのだ。
そして午前零時になった。
すべての作戦を終了としたおれは、レーダーによる航空警戒を怠らぬよう指示し、部屋に戻る。
風呂に入り、汗を流し、ベットで休む。
さあ、明日は早朝からソ連の潜水艦との遭遇だ……。
……。
…………も
な……ぐも、なぐ、も。
遠くで誰かの声がする。
誰の声だろう。
その声が、おれの周りで渦巻いている。
やがて、誰かの声が、はっきりおれの名前を呼ぶのを覚える。
「おい、南雲忠一……」
誰だ?その声は……少女のような声。
ちょっと訛りは残るが、ほとんどネイティブの日本語に聞こえる流ちょうな発音。
ジョシーか?
ジョセフィン・マイヤーズか?
(おい南雲!)
(なんだよ、やっと眠ったのに……)
(キサマ、約束をよもや忘れてはいないだろうな……?)
(約束……だと?)
(そうだ。ワタシとインド洋でした約束だ)
(……なんだっけ)
(この、オロカモノめ!)
(ま、待て待て。冗談だ。忘れちゃいないさ。ビキニ環礁でやる核実験のこと、だろ?)
(ああ、忘れるなよ。九月十一日だぞ)
(ああ、わかってる……)
(忘れる……な……)
そのころ……。
アレクセイ・グネチコは潜水艦の与えられえた司令官室の中で、まんじりともしない夜を明かしていた。
司令官室と言っても、ほんの二畳ほどしかない、言いわけ程度に仕切られたスペースだった。ソビエトの潜水艦は、この時代まだまだ未発達で、このS型潜水艦も、もとはと言えばドイツ製だ。設計図はすでにソ連へ引き渡されていたが、自国のドックには満足な設備がなく、この艦もドイツで作られたものだ。
グネチコは、この航海の直前、スターリンから電話で受けた指示を思い出していた。
『日本海軍では原子爆弾という超高性能の爆弾を研究開発しているらしいのだ。最近アメリカで出版された書籍にも載っている。これを日本海軍と会えたら、ぜひ聞きだしてほしい』
受話器から流れてくる、スターリンの野太い声を思い出す。
「同志スターリン、私にはいささか荷が重いようですが……なぜなら、一度の邂逅でたとえNAGUMOがそこにいたとしても……私にはその爆弾に関する知識がありません」
彼はなにごとも事前準備せずにはいられない性分だった。
しかし電話の相手は頓着する様子もない。
「同志グネチコ。こう言えばいいのだよ。……不可侵の同盟国として、貴国が開発中の原子爆弾について情報を要求する。それがなくては、ソビエト連邦は安心できない……わかったかね?」
「し、しかし……」
「では、頼んだよグネチコ」
「お、お待ちください閣下」
いつものように、スターリンの電話はそっけなく、そこで切れてしまった。
グネチコはその言葉を思い出し、考えてみる。
つまり、どうしても会って本音を引き出すか、もしくは脅してでも情報の共有を迫らねばならない。
日本の軍隊や軍人を見たいという自分の申し出と引き換えに、自分はとんだ重要なメッセンジャーを引き受けてしまったことになる。しかも、スターリンの満足する回答が得られなかった場合、それは自分が恐ろしい粛清リストに入ることを意味する。
グネチコは小さなベットに座り、ヴォトカをミニグラスであおる。
白樺のほんの少しのフレーバーがある。
あれこれと悩みつづけてみたものの、結局こたえは見つからない。なんといっても原子爆弾という名前そのものが初耳だったし、事前に調べてみる手立てすらない。
――実際、顔見知りの兵器屋に訊いてみても、誰もそれについて知っているものはなかった。
問題は、あの気性の激しい、しかも誰に対しても冷酷無比なスターリン書記長の機嫌を、どうやってそこねることなく、この命題をクリアするかだ。
グネチコはまたヴォトカを注ぎ、あおった。
酔いがまわるにつれ、だんだんやけくそになってくる。
だいたい、いくら日本軍を見たがったからと言って、陸軍の俺をこんな潜水艦に押し込め、アリューシャン列島に近いこんな海域にまで寄こしたうえ、敵のおそらくは第一級の極秘情報を聞きだしてこいなどと、冗談にもほどがある。
……いや、あのお方なら、たぶんそれも本気には違いない。
その場、その場の胆力と思いつきで、なんども窮地を切り抜けてきた人だ。だから、他人にもそれができると思いこんでいるし、できないと怒髪天を衝くばかりに怒り出す。しかし、こっちはただの凡人だぞ。レーニンの遺言で窮地に陥った時、啼いて辞職を申し出て同情を買ったスターリンとは、そもそも役者が違う。
そう思うと、ヴォトカの酔いも手伝って、だんだん腹が据わってきた。
ようし、こうなったら真正面から敵陣を突破してやる。相手がだれであろうと、日本の最高司令官だろうと二等兵だろうと、情報の提供を強弁して迫ってやる。それでいいとアイツが言ったのだ。こうなったらもう、その場で戦争になったって構うもんか。いや、もしかすると、スターリンのボケたれは、それも見越してそう言ったのかもしれんぞ。それなら、願ったり叶ったりだわい……。
グネチコは急に気分が楽になってきた。
いくら今アメリカ相手に太平洋で暴れまわっている日本海軍とはいえ、かつて中国に勝ち、三十八年前にはわがロシア帝国相手に旅順港を奪った異常すぎる国家、日本とはいえ、しょせんはチビで痩せっぽちの東洋人じゃないか。俺たちが本気を出せば、ひねりつぶせるに違いないんだ。そうとも、閣下のアホタレは、この俺に、喧嘩を吹っかけてこいと言っているんだ。
ようし、やってやろうじゃないか。
グネチコはヴォトカを薄っぺらい瓶ごとラッパ飲みをした。ごくごくと流しこみ、最後の一滴をすする。
……待ってろNAGUMO。俺が喧嘩を売りに行くぞ。
グネチコはヴォトカの瓶を持ったまま、ベットに寝転ぶと、待ってろ、待ってろ、とつぶやきながら、やがて大きな鼾をかきはじめた。
S型潜水艦の司令塔が揺れている。
ほんの少し、東の空が明るくなりはじめ、星々が瞬きを失っていく。
その海上に、取り囲むように遠くから無数の影が近寄ってくる。
それは夜襲を終了させて各攻撃隊を格納した、まだ熱気冷めやらぬ南雲艦隊の影たちであった。
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