スターリンの耳打ち
●24 スターリンの耳打ち
米軍の北艦隊は壊滅した。
駆逐艦一隻を残し、あとはすべて撃沈か大破だった。インディペンデンスだかプリンストンだかの空母一隻は完全に沈没し、いまは跡形もない。終わってみれば、航空機性能も数も機動的な運用においても、また兵士の練度においても、帝国海軍は米軍を圧倒していたのである。
そうなると、残る南艦隊は遁走をはじめた。
日本軍には無傷の三空母があり、向こうにはすでに一隻しかない。しかも攻撃ではおれたちの連動高角砲にやられ、守備においても疾風、天山、彗星と、新型機による波状攻撃を受けている。逃げたくもなるというものだ。
若い兵士が茶を淹れてくれている。
「長官、当然追撃ですね?」
哨戒機からの報告を受けた草鹿が、口の端に米粒をつけて言う。
すでに時間は昼を回り、おれたちは炊き出しの白い握り飯を頬張っていた。おれたちが北艦隊を攻撃したため、予想通り敵機は撤収してしまっていたのだ。
「なあ草鹿……」
それには答えず、茶を飲む。おれはさらなる一石二鳥を狙っていた。
「はい?」
「やつら、どこへ逃げる気だと思う草鹿? 太平洋のど真ん中なら、夜のうちに姿を消すしかないが、ここはアメリカの本土だろ。どこか近くの港……それも、航空基地のある場所なら、そこからの応援が見込めるわけだ」
「そうですね……なら、例の双発機のいる場所ですかね?」
草鹿も、握り飯を食いながら海図をのぞき込んでいる。
「つまり?」
とつぜん答えを迫られ、目を泳がせる。
「え~と……」
困っている草鹿を見て、おれはニッと笑う。
「つまり、あいつらを追えば、両方やれるってことだよな?」
「!」
息をのむ。おれの狙いがわかったらしい。
「まずは逃げ込む港をつきとめるんだ。夜襲でP―38……おっと、あの双発機もろとも、破壊してしまえ」
「わかりました!……で、こっちはこのままで?」
この隼鷹からは第二次攻撃隊発艦の準備がすすめられていた。
「いや、弾切れの補給を先にやろうか。アッツ、キスカの上陸と補給も今のうちに。ただし哨戒機はぬかりなく飛ばしておけよ」
「わかりました。われわれの艦隊針路は?」
「むろん、このままだ」
おれは狭い司令官室の窓を見る。
アリューシャンの島々が小高い山々の頂に雪を乗せて過ぎ去っていく。空はようやく晴れ間が見えてきた。その下に、仲間の駆逐艦も小さく見えている。
おれたちは敵艦隊への攻撃を加えつつ、しかし反転してソビエト船のいる海域へとひた走っていた。すでに外務省を通じて、ソビエト潜水艦への表敬交誼の申し入れはすませてある。
連中は駆逐艦の一隻も来るかと思っているんだろうが、あいにく、こっちは空母三隻、総勢四十隻の大艦隊だ。しかも戦闘を終えたばかりの血なまぐさい一行である。
おれは立ち上がり、手を後ろで組んだ。最近は腹が引っ込んで、あまりやらなくなったポーズだ。
「たかが潜水艦だ。どんな人物が乗っているかわからんが、なんといっても危険を押してここまでくる人物だからな。待たせちゃ悪いってもんだ……」
ウクライナのハリコフ地方、バラクレイにニューフサロフカという村がある。
住民は千人にも満たない小さな農村だが、セヴェルスキー・ドネツ川のほとりにあって、北には湖が点在し、緑が豊かな水の村としていくつかのロシア文学にも登場した。
アレクセイ・グネチコは、1900年にこの村の農民の子として生まれ、育った。
パロチア学校を卒業した後、彼は鉱山で働いたり、地元カメラマンのアシスタントをやっていたが、十八歳になったころ、農民労働者赤軍に徴兵された。
その後は南部戦線で戦闘に参加し、ライフル連隊に入り活躍。さらに頭がよく優秀だったため、1924年歩兵学校に入学して防空・軍学コースを卒業。徐々に頭角を現していく。
1930年には中央アジア軍管区ライフル大隊の司令官、トルキスタン連隊参謀長を歴任し、1936年M.V.フランゼ陸軍士官学校を卒業、1939年二月、第二赤旗軍参謀本部第二師団長に就任。1940年七月第二師団長、1941年一月には第一赤旗軍の第一戦闘訓練部長となった。
かくして、あれよあれよという間に、アレクセイ・グネチコはソビエト連邦という巨大で近代的な戦闘組織の幹部となった。
世はまさしく戦争と科学の時代、美しくも貧しいウクライナの村で生まれた自分が、なぜこんなところに立っているのか、1941年七月、ついに巨大な歩兵師団の司令官に任命され、その就任式でスターリンが耳元でそっとささやいたとき、グネチコは豪華絢爛な式典の装飾を見ながら、軽い眩暈さえ覚えたのである。
『君には日本と戦ってもらうかもしれない。用意はできているかね』
希代の剛腕として世界のコミンテルンを支配するスターリンの言葉に、グネチコはおののき、そして辛うじてこう答えたのだった。
「閣下、お言葉ですが今年の四月には日ソ不可侵条約を結ばれたとお聞きしております」
びっくりして大きな顔を向けたグネチコへ、スターリンはまるで慈父のような温かいまなざしでこう言ったものだ。
「やつらはドイツ、イタリアに続いてわがソビエト連邦とも軍事同盟を結びたい腹だ。しかし私は応じない。となればやがて条約は破られる。いいか、その時は、君が先鋒となってアジアをわがコミンテルンのものにするのだ」
最後の言葉を咀嚼して、さらに全身に衝撃が走る。
「で、では、閣下」
がっしりと肩を掴んだスターリンの握力に狼狽えながら、グネチコは大日本帝国という、日露戦争によって一度は苦杯を舐めた新進気鋭の東洋国家を、はじめて自らの敵として認識したのである。
「たのんだよ、アレク」
呆然とうなづくグネチコは、その敵を自分はまだなにも知らないことに気づく。
「い、一度、彼らを見たいのですが……」
「……わかった。いずれ機会をつくろう。いずれ。な」
かくして、局地的な戦闘は収まりつつあった。
アメリカ艦隊とその攻撃隊は撤収にとりかかり、おれたちはまるで呼応するように看過した。
むろん、夜襲に向けての準備は整えつつある。
ソ連船との邂逅に向かう空母隼鷹の通信室で、おれは草鹿と二人、電波による会議を空母龍驤の角田と行うことにした。
音声はスピーカーから出し、マイクは二人分用意させた。今でいう、テレビ会議みたいなものだ。
「いやはや、こんなことができるんですね……」
草鹿がため息をつく。
「もうずいぶん長官とはつきあいが長いのですが、ここまで新し物好きとは……」
「あのなあ草鹿、声が聞こえればなんでも同じだろう。伝声管でも糸電話でも……あーもしもし、こちら南雲こちら南雲」
「「はい。角田です」」
角田の声がした。空母龍驤からの通信だ。短波に近い周波数なのでよく飛ぶが、検波性能がまだ高くないので雑音が混じる。
「ほおら、つながった。暗号は大丈夫か?」
振り返って通信員に訊く。
「長官に言われた通り、あの単語表はあらかじめ航空機で届けてあります」
「よし、いいぞ。じゃあそろそろ、やるか」
草鹿に一本のマイクを手渡す。おれはもうひとつを持って、宣言する。
言うまでもなく、夜襲は奇襲でなくてはならない。その最後の一手を、おれは今から打つつもりなのだ。
「では諸君、アリューシャン作戦、総括会議を開始する」
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