シベリアの悪夢
●4 シベリアの悪夢
頭に包帯を巻かれた子犬が、首輪をつけられて庭先で水を飲んでいる。
門の外に大型のダンプカーが、ブレーキの音を立ててとまった。
ダンプの荷台にいた若ものが、ばらばらと飛び降り、おれたちの方に駆け寄ってきた。運転席からは、頭に鉢巻きを巻いた白髪混じりの男が、よっこらしょと降り立ち、歯の一本欠けたユーモラスな笑顔を見せる。
「佐伯のオヤジさーん、若い衆つれて応援に来ましたぞお」
「ほっほっほ、すまんのう」
「はあ、こんたびは、とんだことで……」
男は鉢巻きをとると、律儀に膝に手を当て、頭を下げている
「なんの。こげんこつ、なんでんなかよ。小犬のほかは、誰もケガひとつなかったけんのう。ほっほっほ」
「そらあ、なによりですばい。わしら、燃えよった木ば、もろうて行きますばってん……オヤジさんどこへ泊りよりますかいの。うちの女房が、ぜひお連れせい言うてきかんのですが」
「いやいや、心配にはおよばん。親類の家に泊まりよるけん」
「ほうですかのう」
大勢の助っ人が、てきぱきと焼けたがれきを運び出していく。
さらには知り合いが次から次へとやってきて、炊き出しを持ってきたり、見舞いの口上を述べていく。これだけを見ても、佐伯翁がこの地元で愛されている名士であることは間違いなかった。
「さて、ちょっと腹ごしらえするかの。皆の衆」
おれはパンパンと手をたたいて、首の手ぬぐいで汗をぬぐった。
……ふう。
良く働いたな。
ひさしぶりに運動したから、おれも腹が減ったよ。
日本庭園の石の上に座り、女たちが持ってくる握り飯や、卵焼き、ざぼんの漬物などを頬張る。進も四海さんにお茶を注いでもらい、さっそく相好を崩してる。
おれはひととおり腹が膨れると、佐伯氏の傍に移動した。
「佐伯さん……」
「南雲さん、おおきに」
「いえ、佐伯さんこそ、災難でしたね。賊はなにものです?」
「ほっほっほ……あんたが海軍で良かったわい」
「!」
なんてこった。
てことは、賊はもしかして、陸軍?
「なるほど。佐伯さんから直接聞けと、山本長官が言ってた意味が分かりましたよ」
笑ったまま、佐伯氏の太い眉がぎゅっと寄せられる。
「犬養首相が殺されてこの十年ばかり、軍部の専横が目に余る。いまや東条が首相になり、対米開戦にいたってはや半年、そろそろ講和の準備をせねばならんが、陸軍はソ連と組みたがる」
「じゃあ、佐伯さんはソ連を信用してないと?」
「ほっほっほ。そげんこつ、考えりゃわかろうもん。三国干渉を主導して日本を窮地に陥れたのもロシアなら、満州を占領してアジアを支配しようとしたのもロシア。日露戦争は言わずもがなじゃ。ロシアがどれだけ日本に顔をつぶされたか、執念深い北の人間の立場に立てばわかろうて。おまけにスターリンは今世界で一番恐ろしか男やき、純な日本なぞ、簡単に手玉にとられよるわいな」
なんとなんと。
見た目は濃い顔のオヤジだけど、さすがは佐伯翁と呼ばれるだけはある。
ここまでソ連を的確に表現するとは、こんな人間はこの世界ではじめてだ。
「おれもそう思いますよ。ソ連とはコミンテルンだ。彼らはきっと最後の最後になって、日ソ不可侵条約を一方的に破棄し日本に宣戦布告してきますよ。それをさせないためには、日本が勝ち続けることしかありませんが、それでも、どこまで言っても、おそらくソ連は日本の益になるようなことは一切しないでしょうね」
「ほっほっほ。これは頼もしか」
くしゃっと濃い顔をくずした。
「……スターリンもひとつは良いことしましたね。おれと佐伯翁の意見を一致させた」
おれたちはひとしきり笑った。
「しかし、なぜ陸軍はあなたを殺してまで、ソ連と組みたがるんです?」
「おそらく太平洋戦争後のことを考えているんじゃろう。太平洋を手に入れたら、次はヒトラーの勝ったヨーロッパに出にゃならんとでも思うとるのよ。そのためにはソ連と組みたい。だがワシがおる。西の政治家や、九州出の陸軍軍人にも知り合いの多かこのワシが、そうはさせん」
苦虫を噛みつぶしたような顔になる。
「とはいえ、このままだと佐伯さん、また命を狙われますよ。相手の親玉は誰です?」
こういうのは結局一番上の人間の意識を変えるしか方法がない。幾人かの犠牲が出て、お互いが抜き差しならない泥沼の怨嗟に囚われないうちに……。
「親玉か? それなら杉山元やな」
「え? あの杉山元」
「そうじゃが……どげんされましたと?」
「いえ」
どこまで話していいものやら……。
原爆の開発でおれは陸軍との共同戦線を指示されたことがあって、杉山の反対で一度とん挫して、今は少しずつ共同歩調をとってるんだっけか。
んでもって、そのトップが、杉山元なんだよな。
「おれの印象じゃそんな強硬策をとるようには見えませんでしたが……暖簾に腕押しというか、なんというか」
「いや、あれはなかなかの狸じゃぞ。それに、裏では思い切りもよい。なにするかわからん」
まわりじゃ、みんながそろそろ立ち上がって働き始めている。
進だけは一生懸命、四海さんと話し込んでるけどね。
「今回の放火ですが……」
「放火だけじゃなかよ」
「え?」
「賊は二人、灯油を撒いて屋敷に放火し、出てきたワシを拳銃で撃った。殺人未遂と放火よ」
「なん……ですって」
頭の中でなにかが閃く。
燃えさかる炎、灯油の匂い。
外に飛び出る佐伯翁と、それを狙う拳銃。
激しい怒り、痛み……。
「どうかされましたかの?」
言われて我に返る。
「い、いえ、なんでも……」
とにかく、ソ連に仲介をさせようという杉山元は間違っている。
もしそんなことになったら、おそらく裏では必死に戦争を長引かせようとして、交渉はなにもまとまらず、むなしく時間だけがすぎていくだろう。
その結果、もしかするとソ連が日本に宣戦を布告する未来に至るかもしれないし、そうなれば、その悲惨なシベリア抑留や北方領土への侵略、現地日本人の虐殺など、おれが最も恐れる事態が引き起こされるかもしれない。
おれはもういちど、この屋敷で働く人たちを見る。
みんな、笑顔だ。
こういう人たちや佐伯さんを、これ以上危険な目には合わせたくない。
おれはひとつだけ、佐伯氏に本心を打ち明けることにした。
「佐伯さん、おれは今までさんざん太平洋で暴れてきました」
「ほっほっほ、それはもう、世界中が知っとります」
「ですが、もうひとつだけ、攻めようかどうしようかと悩んでいた場所があります。実は今、その決心がつきました」
「……ほう、それは?」
いつもご覧いただきありがとうございます。南雲ッち決心の巻きです。




