お母ぁはスパイ
●8 お母ぁはスパイ
気持ちのいい酔いが身体をめぐっている。
南雲らとの会食が終わり、あぜ道を二キロほども歩いた。同じ村の二人とも別れ、一人になる。
袋沢義男は、降るような星空を見上げ、明日はいい天気になりそうだな、と思った。食堂を出たのは九時半をすぎていたから、今はもう十時ごろか。兄弟たちはいまごろ夢の中に違いない。今年二十三歳になる袋沢は、欧米系特有の長い脚をゆっくりと運んで、夜の散歩を愉しんだ。
袋沢家は、もとはセーボレーという苗字の、欧米系移民だった。先祖は十九世紀初頭にポリネシアのどこかからから父島に渡ってきて、日本国籍を取得したと聞いている。
ようやく、草が茂る坂の向こうに家が見えてきた。
明かりも見えず、やはり兄弟たちはもう眠っているようだ。
急な坂を上り、狭い農家の庭を通ると、古びた雨戸の入り口がある。
初夏の草の匂いと、ひんやりした夜半の空気の中、袋沢はできるだけ音をたてないように、木の雨戸を開けようとした。夜半の驟雨で、吊るした農作物や干物が濡れるのを嫌い、この部落では雨戸を閉めて寝るのが習わしなのだ。
その時、とつぜん近づく人の気配を感じて、袋沢は後ろを振り向こうとした。だが、あっという間に首を絞められ、仰向けに転がされる。なにがおこったのか、まったくわからず、袋沢は抵抗することができない。
「むごぉっ!」
「シ―――――ッ!」
顔をぐっと抑えられた誰かの手に、むっと獣のような匂いがする。
手足の自由が全くきかない。
複数の男が自分に覆いかぶさり、手と足と口を抑えている。
「動クナ……」
目を見開いて、状況を確認しようとするが、暗くて見えない。
しかしゴツゴツした分厚い布の感触と、猛烈な力だけは確かだった。夜露に湿った土の感触が冷たい。
誰だ? 悪ふざけなんかじゃない。制圧された手口に、どこか緻密な技術を感じる。むろん夜盗でもなさそうだった。この村にそんなものはいない。
必死に状況を把握しようともがく。
星明かりに灰色の軍服とヘルメット、そして髭面が見えた。
「動イタラ殺ス」
あ、こいつら日本兵じゃないぞ!
欧米人みたいな訛りだ。反射的に身体を捩らせる。
「動クナ!声ヲアゲテモ殺ス」
「!」
なにがおこっているのか、まだわからないが、とにかくここは従順にしておくしかなさそうだ。
袋沢は動くのをやめ、必死に自分を落ち着かせようとした。家の中には兄弟たちがいる。危険な目には合わせたくない。
「ヨク聞ケ。ワレワレハ、アメリカ人だ。袋沢タエ、ドコ?」
髭面の襲撃犯から、なつかしい名前が出て、驚く。
タエは母親の名前だった。
「大声、出サナイ、口、ユルメル」
髭男が袋沢をのぞきこんで言った。
必死でうなずく。口を覆っていたでかい手がゆっくり離される。
「袋沢タエ、中ニイルノカ?」
「お、お母は死んだ。去年だ」
男たちに見えない動揺が走る。
「オマエハ?」
「む、むすこ」
「中ニハ、誰ガイル?」
「兄弟が寝てる」
「ナンニン?」
「妹が二人と弟……まだ子供で」
男たちが自分にはわからない言葉で相談している。
袋沢はだんだん落ち着いてきた。灰色の軍服に身を包んだ彼らがアメリカ兵なのは間違いないだろう。なにかこの硫黄島に狙いがあって、やってきた。そして彼らはなぜか母を知っている。
「オマエノ母ハ、ワレワレノ、協力者」
協力者、と言ったか? どういう意味だ?
髭男が、ほんの少し笑う。
「オ前ノオ母サン、袋沢タエ、ワレワレノ、協力者。去年、地図描イタ。オ金、千円渡シタ。今日ハ、二千円払ウ」
なにを言っている?
袋沢は目を見開いた。
身体を拘束していた男たちの手が、ゆっくりと離されていく。
袋沢は土の上で上半身を起こされた。
「地図」
髭男がポケットからなにかの写真を出す。そこには手書きの島の地図が写されていた。地図は簡略化されたものだったが、必要な建物や道などはしっかりと描かれている。
だが、驚きはそこではなかった。そこに書かれている文字が、生前の母のものだったのだ。
「二千円」
さらに、男が百円札の束をポケットから出した。聖徳太子の肖像があって、間違いなく日本の紙幣だ。
米は十キロで三円もしない。
「お母は去年病気で死んだんだ。おれに、ど、どうしろと?」
「ヨクキケ。ワレワレハ、ナグモショウグン、探シテイル。ドコニ泊ッテイル、ワカルカ?」
衝撃が走った。
彼らがなぜここに来たのか、そしてなにを求めているのか、敵の狙いがようやくわかった。
母はどういう経緯かはわからないが、彼らにこの島の地図を描き、その見返りに千円という大金をもらった。そういえば、去年まであれほど五月蠅かった借金取りが、いつのまにか来なくなった。オヤジのへそくりが出てきたと、村でも一時は大騒ぎになったが、真実はそうじゃなかったんだ。母親は、おれたち兄弟を育てる苦労の中で、アメリカのスパイをやって命がけで金を稼いだんだ。
「南雲中将?」
「ソウダ。ドコニイルカ」
「……」
地図を見る。なつかしい母の文字がそこにあった。
本当のことがわかっても、不思議と母への嫌悪感は沸かなかった。母のタエが自分たちを食べさせるために苦労を重ねたことを、彼が一番よく知っている。そういう勇気があったことに、むしろ誇りに似た喜びさえ感じた。そしてその秘密を、母はおれたちにも、村の誰にも明かさず、守り通した。母はうんと賢かったのだ。
「ワカルカ、ワカラナケレバ、ダレカ……」
「アンタたち、このことを、誰にも言わないか?」
アメリカ兵の目が輝く。
「安心シロ。誰ニモ言わない」
袋沢は写真の地図を見、そして道を手で辿った。
見ていろお母ぁ。俺も賢くやってやる。
「……二千円が先だ」
ぐいっと首を絞められる。
「イエッ!」
息が出来なくなり、命の危険を感じるほどに強い力だった。首のの骨が軋み、一瞬気が遠くなる。すぐに力はゆるめられる。
「わ、わかった……」
「ドコダ!」
「教える。教える」
息を整える。
「教えるけど、一緒には行けない。もし日本兵に見つかったら、後で殺されるからな。アンタたちだけで行ってくれ。それでもいいか?」
ヘタをするとここで一家全員が殺されるかもしれない。袋沢はそれだけを畏れた。
「俺はお母の子供だ。だから俺も協力者、だろ? いつでもアンタたちの協力者になるから、今日はここで勘弁してくれ。でないと教えない」
またぐっと首を絞められる。
しかし今度は頑張るしかなかった。
首を絞めている兵とは別の誰かがなにかを言う。手の力が緩まり、袋沢はむせこんだ。早くしないと、兄弟が起きてくるかも知れなかった。
「イエッ!」
袋沢はうなずき、さっき別れたばかりの、去年新築された海軍宿舎の場所を指で示した。兵士がなんども質問する。そのたびに、詳しい道しるべなどを説明する。
アメリカ兵が仲間になにかを言い、一人が暗闇に消えていった。
「イマ、タシカメニイッタ。嘘ダッタラ、殺ス」
ガチャリ、と銃の音がする。
彼らも馬鹿ではなかった。袋沢の話が嘘ではないか、誰かに見に行かせたのだ。
袋沢は土の上にへたり込んだまま、兵士の帰りを待った。二十分ほどして、兵士が戻ってきた。
なにかを小声で報告している。
髭面の男が口を開いた。
「新しい建物に見張リガイル。間違イナイ」
袋沢はホッと胸をなでおろした。
「約束ダ。ダガ、今日ハドコヘモ、行クナ」
札束をポケットにねじ込まれる。
「家デ、オトナシク、シテイルンダ。ワカッタナ!」
ようやく縄が外され、兵士たちは次々にあぜ道を空港方面へと消えていった。藪の中からも何人もの兵士が現れ、足音も高くあとに続く。兵士たちは袋沢が思っていたより、ずっと数が多かった。
髭面の兵士が銃を両手に持ったまま、仁王立ちしている。
中に入れ、とアゴで促された袋沢は、よろよろと立ち上がり雨戸をひらいた。家に入る寸前、ふりかえると髭の兵士が後ずさりして、闇に消えた。
いつもお読みいただきありがとうございます。地図を描いたのはなんと袋沢のお母さんでした。屈強な男たちが暗躍して、南雲ッちは大ピンチです。 ブクマ推奨します。ご感想、ご指摘も大歓迎です!




