ジョシー肉を切る
●44 ジョシー肉を切る
日本庭園が見えている。
竹垣で囲まれた裏庭に、枯山水の小道、池や石灯篭もあって、落ちついた雰囲気だ。
しかし、よくよく見ると、中央の丸い芝生のスペースは、ひどく荒らされて、いろんな物が散乱していた。
食器のような道具、倒されたイス、あちこちで黒く芝生を焼いて燻る木炭、無造作に転がり銀色に鈍く光るナイフ……。
「人生は意外性の連続なのだよ、ジョセフィン」
しわがれた低い男の声がした。
「準備周到、緻密な計画、茨の道に勇気をもって立ち向かっても、それがうまくいくとは限らない。なぜなら不確定要素は常にあるものだからだ」
男は老人であった。
白髪の後頭部と頭頂はうすく、だが身体がやたらと大きい。アゴからもみあげまでヒゲを蓄えているのは、もしや古傷を隠すためか。
「……」
「ただしだ!」
だぶついた白いブラウスの袖をまくったジョセフィン・マイヤーズが、庭園に向かって男と並んで立っている。背は男の胸までしかなかった。
「尊いのはやろうとする意思だということを忘れてはいかん。時には思い通りにいかぬ時も、突然の災厄に見舞われることもある。闘いは不可抗力の連続、それが人生なのだよ。そして……それを許す寛容の精神も、時には必要だ。わかるだろう? いや、わかっておくれジョセフィン」
「それが、ランチの用意をめちゃくちゃにした言いわけかグランパ? もうすぐ来客があるんだぞ」
ジョセフィンが男をちろりと見た。
屈強な初老の男の両手には、ワイングラスが二つ……。
そばでは大きなゴールデン・レトリバーが舌を出してハッハッハッと愛嬌をふりまいていた。
「ジョシ~~~っ!」
おおげさな泣き顔で、おじいちゃんと呼ばれた男がジョセフィンを抱きよせた。
「聞いておくれジョシー、ワシは悪くないんだ。このラルフがあああ……」
ジョセフィンはがくがくと揺らされるままつぶやく。
「バーベキューーのときは繋いでおけと言ったのはグランパだろ。さっさと片づけよう。それにしてもラルー」
ようやくおじいちゃんから解放されると、ひざまづいて――といっても、ほとんどそんな必要はないのだが――ラルーと呼んだ犬に微笑みかけ、首すじを両手でくしゅくしゅと撫でまわした。
「ワタシと同じ年に生まれた老犬にしてはすごい食欲だなラルー、それにステーキが見えないのはなぜだ? お前の腹の中か?」
「うおん!」
犬はおろおろする男には目もくれず、尻尾をちぎれんばかりに振っている。どうやら、庭で開こうとしていたランチパーティーを、めちゃくちゃにしたのは、このラルフのようだった。
「やれやれ、なんてことしてくれたんだラルフ、あっち!」
ぶつぶつ言いながら、おじいちゃんは、芝生に散乱したバーベキューセットを片付けはじめた。
「ところで、今日シンイチロはどうしたんだジョシー?」
「ダディーは天文台だ。日曜日でも星は待ってくれないんだと」
「こんな昼間に星だとお? せっかく可愛い娘がひょっこり帰ってきたんだから、一緒に演奏会でもしようと……」
「いつもやってるだろ?」
「おまえがいれば特別なんじゃよう」
また大げさに泣きそうな顔をする。
「夜には聴く。……それより、ステーキはどうする」
「そ、そうだった……冷蔵庫にまだ新しいのがあるよ。切ってきておくれ。三人分をね」
そう言ってころがった椅子をおこす。日本式の緋色の縁台があり、それにぴったりの高さだった。落ちたナイフやフォークを拾って、ナフキンで適当に拭いている。
ジョセフィンはラルフにおすわりを命じ、それから軽い木のドアを開けて室内へと戻った。
外から急に入ったので、少し視界が暗い。
そこは日本庭園とは真逆の空間だった。
ところどころ白いペンキの剥げた木の壁、よくある鹿の首だけのやつ、明るくて光の入るリビングは、野性味あふれる米国式の装飾で、当然メインになるのはモノクロームのテレビと、そのまわりに置かれた一人用のソファーが三つ。少し小さい子供用は、きっとジョセフィンのものだろう。
暖炉の上にはいくつもの家族写真が飾られている。大学の制服を着た、美人の白人女性……亡くなったジョセフィンの母だ。テニス姿の両親、天文台をバックに、叔父を含めた家族五人で撮影したものもある。
キッチンに立って、巨大な冷蔵庫をあけると、そこには大きな皿の上に、生肉のかたまりが木綿の布を被されてあった。
それをとりだし、肉包丁を入れたところで、
コンコンコン……。
と、ひかえめなノックの音。
ジョセフィンはちょっと考え、ステーキ肉に包丁をつきさしたまま、それを右手に持って玄関に向かう。
「はい」
「アルベルト・アインシュタインです」
ドアをゆっくり開けると、そこには世界で一番有名な科学者の、剽軽な笑顔があった。
白髪まじりのモジャモジャ髪に帽子をきちんと被っている。
「ミス・ジョセフィン・マイヤーズに招かれました」
「お待ちしていた。ワタシがジョセフィン・マイヤーズだ」
驚き、とまどっているアインシュタインに入室をうながす。
帽子をとり、それを胸の前で抱いたまま、ぽつんとアインシュタイン博士はリビングに佇んだ。
「今ステーキを切っていたところなのだ博士。……グランパを紹介する」
いったんキッチンに肉を置き、ジョセフィンは裏庭へと博士を案内した。
ドアを開け、おじいちゃんに声をかける。
ラルフが飛びかかって来て倒れそうになりながら、
「グランパ、ドクター・アルベルトアインシュタインだ。ドクター、こちらはワタシの祖父、ラリー・マイヤーズ、そしてこいつが愛犬のラルフ」
と、叫ぶ。
「おお、これはようこそ!」
おじいちゃんが嬉しそうにやってきて、炭で汚れたでかい手を差しだす。
博士は嫌がる様子もなく、その手を握ると、人懐こい笑顔になった。
「こちらこそ、お邪魔いたします。ミス・ジョセフィンのことはハッブル博士から書簡をいただきまして」
「おお、シンイチロの……」
「はい、宇宙の探査は私の研究分野にも通じます。ハッブル博士の宇宙膨張に関する観測論文はドイツにいるころから読ませていただいておりました」
ジョセフィンがちら、と見る。
「アインシュタイン博士の一般相対論は光、重力、電磁力、時間と空間で構成されるこの宇宙を、物質の存在により相対的に変化する時空というたったひとつの物理法則で説明しようという画期的な理論なのだグランパ。それは光の屈折、時間のおくれ現象、近日点移動など、多様な観察結果をも合理に説明できる。星の一生にも関わる理論だから、ハッブル博士も注目しているのだ」
と、ものすごい早口で言っておいて、ジョセフィンはぷいっと横を向いた。
「ほっほっほ!」
アインシュタイン博士が顔をほころばした。
「まだまだ検証が必要です」
「いやあ、ワシは軍人でね。難しいことはさっぱりわからん」
ラリーおじいちゃんが、白いヒゲを揺らす。
「私なぞ、銃の扱いで自分を撃ちそうです」
「はっはっは!」
二人は握手のまま向き合う。体格はまったく違うが、年齢は同じくらいに見えた。
「ジョシー、博士のお帽子をお預かりして。ちょうどよかった、これから肉を焼くんですよ。どうぞこちらへ」
「ありがとうマイヤーズさん。素晴らしい庭ですね」
ジョセフィンはアインシュタイン博士の帽子を手に持ち、リビングにもどると、それを鹿の角に引っかけた。
さて、肉を切ろう……。
いつもお読みいただきありがとうございます。1942年の時点では一般相対性理論は世界で五人くらいしか理解できないとか言われていました。ぼくはあまり、というか全くわかりません。(感想やブクマだけがモチベです。ありがとうございます。更新が遅れてしまいました、ごめんなさい。)




