井戸の中
「ってかトイレ行った? 今のうち行ったほうがいいよ」
変な日記読んだし、気分転換も兼ねて福爲に提案した。しかし福爲は「ここでするんですか?」とツッコミを入れてきた。
「だって屋敷でなんか出来ないでしょ。廃屋トイレのがマシじゃない?」
そこら辺でする、というのは村への敬意がない。屋敷は老婆がいるので危ない。
何よりさっきの日記で、全方位殺意系老婆の可能性が急浮上している。より一層屋敷でなんか出来ない。
「問題ないならいいけどさ」
そう付け足すと、福爲はしばらく考えてから、「じゃあ、行きますけど」と個室に入ろうとした。扉を閉めようとするので、私は足で押さえると、福爲は「え」と驚いた。
「な、な、何するんですか」
「いや普通にさ、閉めて出れなくなったらどうすんの? 流すところから手とか出てきたり」
「怖いこと言わないでくださいよ行けなくなっちゃうじゃないですか」
「だから一緒にいるんじゃん。一人でトイレ行かせてさ、戻ってこないなって良くある話だよ?」
「いやぁ……ええ……でも、あの、ふっ」
福爲が視線を逸らしたあと、一気に顔を青くした。視線を追えば便器の中に血が流れていた。
「痛そう、大丈夫? ストレス?」
「俺じゃないですよまだ何にもしてないじゃないですか」
「ああ」
緊急時なので普通に漏らした可能性を考慮していた。ズボンを見ると特に何もなってない。ただ、便器だけではなく壁からも血が流れ出した。
「駄目だ。出よう。トイレチャンスはまた今度」
私は福爲の腕を掴む。彼は大人しくついてきた。そうして二人で民家を出ようとすると、妙な気配を感じた。
いつの間にか福爲の背後に女が立っていた。
ただ、女が立っているだけ……と思いたいところだったが、残念ながら女は首から腰までは真逆に捻じ曲げられている。要するに背中がこちらに向いていた。
前面の顔、首、背中、前面の太もも、ふくらはぎの背面、かかとがこちらに向いている。
接合部の甘い組み立て式の人形で、表裏間違えて接続した人形のような姿だ。
そんな状態の女が、腕をゆっくりと腕をあげた。
口を大きく開くと──、
「アアアア」
こちらに突進してくる。真っ白で骨ばった女の手には刃先が黒く錆びついた手鋸が握られていた。
「どけ!」
私は福爲の肩を掴み横へ押しのけ、福爲に金属バットを押し付ける。福爲の護身用だ。
向かってきた女の首へ手を伸ばし、思い切り握りしめた。
女がひるみ、手鋸を握る腕を弱めたところで、私はその腕を掴んだ。
福爲は私に押された体勢のまま首だけをこちらに向け愕然としていた。
「逃げろ‼」
叫ぶけれど福爲は動かない。足がすくんでいるようだ。勘弁してくれと呆れたいけどそんな暇はない。女は私に首を絞められつつも抵抗するように鉈を握る腕を私に押し付けてくる。首を絞めている私の腕をもう片方の腕で握りしめながら。
完全に我慢比べだ。女の首を絞めるのが先か、私が女に顔か首かどっかしらを刃こぼれもしてる手鋸でぶった切られるのが先か。
「くそがっ……」
ぎりぎりと顔すれすれに鉈が触れる。
顔なんかどうでもいいけど、私のことを殺した後、この女が狙うのは福爲だ。ここでなんとかしなきゃいけない。でも幽霊か分からない以上、乱暴なことはできない。私に時間と作品を託してくれている作家に顔向けできないから。手鋸で襲われている真っ只中だけど。手鋸で襲われたって説明したら皆、仕方ないって言ってくれそうだけど。
そうやって色々悩む一方、女は何のためらいもなく手鋸を私に押し付けてくる。
福爲の命。漫画家を見つけ出す。タスクを計算していて──考えることが一気に面倒くさくなった。
「ああ、もういいやもう……お前が先に手出したんだから……なぁっ‼」
私は叫びながら女の膝を力いっぱい蹴った。
腹パンも股間蹴りも考えたけど、後々の人生の責任は追いたくない。足もこれで歩けなくなる可能性があるけど、手鋸をこちらに向ける時点で正当防衛処理だ。
よろめいた女は手鋸を地面に落とすと、私を一瞬だけ朧げな瞳で見上げたのち、獣のような速さで逃げていった。追う気にはなれない。もう二度と会いたくない。
どっと疲れ、大きく息を吐いた。福爲に視線を向ければ私に押しのけられた姿勢のまま私を見上げていた。ずっとこのままだったらしい。
「ほら、たっち」
「え」
「また女戻ってきたら大変じゃん。はい、たっち」
手を貸そうとすると福爲は私の手をじっと見つめた後、「ありがとうございます。大丈夫です」と自分で立ち上がり、金属バットをこちらに寄こした。私はそれを受け取る。
「っていうかあの女、お前の映像サークル女じゃん。何?」
「え」
「手鋸で顔面ギコギコされそうになった時に顔見えた」
顔が前髪に覆われていたし見えるところも泥と血で汚れていたので、遠目だと完全に国内ホラー作品に出てくるバケモンだった。でも恋愛ドラマの近さになって、こいつ見覚えあるなと思い気付いた。
手鋸を持って追っかけてきたのは、平野マナだ。
顔は完全にそうだった。
「よく顔なんか見ますね……怖くないんですか」
福爲は私に怯えている。不本意だ。
「顔見えないほうが怖くない?」
「いや、顔なんか見たくないですよ」
福爲は私から視線を逸らす。仮にも同じサークルの人間だろうに。
──顔なんか見たくない。
彼は襲ってくる存在だけじゃなく人間全体を差している気がする。
彼と出会って最初の印象は「穏やかそう」だったけど、次点は人と目を合わせて話をしているように見せるのが抜群に上手い、だった。
面接テクニックで相手のシャツの第一ボタン、ネクタイや顎、眉間に注目するというものがある。ただそういう小手先のテクニックは手練れの人事に通用しない。一応、苦手を克服しようとする、代替手段を用いるという姿勢を買うだけだ。
入社して場数を踏めば慣れるか、目を合わせていると錯覚させる技術が上手くなるかなのでそこまで減点にもならない。そもそも就職面接は当人の抱えているプレッシャーが桁違い、入社さえ決まればというのもあり、入社後慣れる人間の方が圧倒的に多い。
ただ一部の人間は、目を合わせず済む技術を磨く。
福爲はその技術をすでに持ってる。
技術の源流が気になるが天賦の才ではなく体得したものならば質問はされたくないだろう。「じゃあ今度から見せないように戦うわ」と福爲に追及することはせず、「それでさ」と話題を切り替えた。
「どうすんの。サークルの女があんなになったわけだけど、多分……取りつかれてるというより、死体を損壊されてる感じだったけど……」
「いや、どうすんのって言われても……」
そんなこと言われても困る、と福爲は言いよどむ。サークルの女がおかしくなったことより、意見を求められることに困惑しているようだった。
「平野さんって一年だよね」
「あ、はい」
「じゃあ煙草吸わない、男と近づかないで依り代の条件は満たしてるはずだから……老婆は大事に保管してもおかしくないけど……男と付き合ってるとか聞いてる?」
「いや……多分、相手いないんじゃないですかね、男嫌いな感じなんで。橋本とか、特に嫌ってるタイプだったんで。真面目って感じではあるので」
「あ~そんな感じするわ。だんだん、社会出ると、折り合いつく場合と、つかない場合で分岐するよ」
だけど、この村のせいで分岐するしない以前の問題になってしまった。
カスみたいな儀式の巻き添えで。まだ断定はできないが、死体があんな風に動かされている時点で終わってる。本人が自発的に手鋸持って暴れてる可能性も否めないけど、
そのまま私は、平野マナの遺体らしきものが去っていった方角とは別のルートに身体を向けながら進んでいく。
しばらくして、井戸を発見した。
村に来てすぐの頃、老婆が説明していた井戸だ。封印されている気配がないどころか、蓋もついてないので、念のため中をのぞく。福爲が「えぇ」と嘆くが無視した。
「福爲さ、もし、ちゃんとした感じの人がいたら、普通にその人と帰っていいから。お神酒まだ持ってるよね?」
「あ、はい」
「多分、相当危ないこと、あると思う。まぁ、絶対死なせないよう努めるけど」
私は言う。福爲は「どういうことです?」と問う。
井戸の側面に、血がついている。それも今さっきついたような鮮明な赤い色だ。
ねじれた身体、血濡れの皮膚。
落ちただけでああなったとは思わないが、可能性は高い。
「平野マナが死んだところ、見た?」
福爲に問う。
「いや普通に、最後に見たときは生きてましたけど……」
福爲は嫌そうに説明する。嫌いな上司を愚痴るみたいな顔だった。多分、平野マナの死に関係してないのだろう。
「多分ここで死んでる。死体がないけど」
空を見上げる。
日暮れの空は、既に夕日が途絶えかけ、夜に侵食されていた。




