0069 レイニーエンド(3)
はあはあ、と。つーちゃんの荒い吐息が顔に当たる。
ナイフのような鋭利な言葉と、鈍器のような重い言葉を組み合わせ、破壊の限りを尽くされた。
すでに壊れているにも関わらず、さらなる追い打ちを繰り返すその所業で、積み上げてきたものは跡形も残らない。
唖然とするしかない私に残ったのは虚無感のただひとつだ。もしかしたら、悲観や自責といった感情さえも、つーちゃんに壊されてしまったのかもしれない。
つーちゃんは踵を返し、また来た道を戻り始める。
「さようなら、穴吹水琴さん」
最後に一言、そう呟いて。
その口から私の本名を聞いたことが、未だかつてあっただろうか。
つーちゃんが突きつけてきた縁切り宣言が、他人行儀な呼び名にそのまま表れている。
――もう終わりだ。
どこでどう選択を誤ったのか、あるいはこの別れは必然だったのか。
いずれにせよ、関係の修復は不可能。虚無感の中、私はそう悟って諦めた。
なおも雨が強く降り続く。
時間帯とも相まって、去ってゆこうとする後姿は早くも不鮮明だ。
そして幾ばくもないうちに、視界から完全に消えた。
「さようなら、羽ノ浦紬さん」
呼応するようにそう呟いてみた。
悲しくなんてなかった。涙も出なかった。
これも仕方ないことだと永久の別れを受け入れ、納得している自分がいた。
だがしかし――。
ふと、記憶の片隅に眠っていた断片的な思い出に光が照らされる。
二週間前のことだ。大阪にある水遊館に行った帰りの新幹線での出来事。
あのとき尋ねられた些細な質問が、今になってなぜか思い起こされた。耳元で囁くような声だった。発した声の主が今まるで隣にいるかのように、そのまま再現される。
『海外に行くとしたらみーちゃんはどこがいい?』
あのとき私は、とても素っ気ない返事をしてしまった。
『私? 私は、どこでもいいかなあ』なんて。
そのことを、この期に及んで後悔した。
だから、遅いかもしれないけど答えなおしてみた。
「私は……ヴェネツィアに行ってみたいな。ほら、あの街全体が常に洪水みたいになってるところ」
一人になった東屋で呟く。当然、後悔が拭えたりはしなかった。だって答え直したところで、質問してくれた本人に届かなくちゃ意味がない。ここで独り言ちたって、なにも変化は起こらないんだ。
じゃあ変化を起こすにはどうすればいいんだろう――?
答えは非常に単純だった。
できたできなかったの結果はさておき、今取るべき行動はひとつに絞られる。
もう一度会って、伝え直すしかないんだ。
後悔が胸いっぱいに膨らむのを感じていると、いつの間にか走り出していた。
ぬるい雨が全身に降り注ぐ。傘を差していなかったことに後から気づき、ずぶ濡れになってからようやく差した。足元もびちょびちょだ。雨がローファーに入り込んで気持ち悪い。
でも、そんなことどうでもよかった。一刻も早く追いかけなければ、今度こそ本当に取り返しのつかないことになってしまう。
今になって悲観や自責が湧き上がり、後悔と入り混じって涙まであふれ出してきた。
雨と涙で視力は不十分。
でも、走っていると見えた。さっき消えてしまったその背中が、また見えた。
逃さないとばかりに声を張り上げる。
「私はヴェネツィアに行ってみたいな!」
数メートル先に見える肩がピクリと跳ねる。
返事はない。こちらを向いてもくれない。立ち止まってすらもくれない。
でもその代わりに、私から離れてゆくその足が、少し鈍くなった気がした。
気のせいかな? うん、気のせいでもいいや。まだまだ声を張り続けるつもりだから。
「常に洪水みたいになってて面白そうじゃん! あそこヨーロッパにあるんだっけ? あとアメリカにも行きたいな。本場のバスケを生で観戦してみたいし、ナイアガラの滝とかも興味あるんだ、どれだけすごい迫力なんだろうね。あとあと、オーロラ見てみたいな。あれってどこで見れるの? 寒いとこだよね、北極? それとも南極?」
泣きながら、まったくまとまりのない願望を投げまくる。そして気づいた。
「私、つーちゃんがいないと無理!」
たしかに恋人と比べると、友人というのは後回しになってしまう部分もあるのかもしれない。
でも、損得勘定も無駄な気遣いも駆け引きも心労もなしに、一緒にいるだけで楽しくなれるのは友人だからこその特有だ。友人の存在が人生を彩ってくれる、私はそう確信している。
そして、私にとってかけがえのない友人、言い換えれば親友、そのポジションは――。
陽菜が妹でなくちゃいけないように、つーちゃんじゃなきゃだめなんだ。
私にとっての親友は、つーちゃんただ一人なんだ。
「なに穴吹水琴さんって! そんな呼び名聞きたくない! 自分勝手かもしれないけど、つーちゃんと離れ離れなんて絶対嫌だから!」
離れてゆくその足はなおも止まらない。
でも、追いかけて顔を見ようとは思わなかった。無理に踏み込んで手を引く必要はない。
だって、自然と顔を合わせられる日常が、私達にはあるから。
「明日、家の前まで迎えにいくから! 一緒に登校しようね!」
いつもつーちゃん任せにしていた朝の行為を、今度は私が請け負おうと心に決めた。
その宣言を最後に私は口を閉じ、つーちゃんの背中を見送る。
――絶対にまた親友になるんだ。
決心と祈りの中、その背中は今度こそ見えなくなった。
ご覧頂きありがとうございます。
よろしければブックマーク、評価、コメント残して頂けると幸いです。




