第38話 狩猟大会③
泣きやんだ私に、アーベル様はぽつりぽつりと昔話をしてくださいました。ハリル様と一緒に帝国へ外遊に出掛けた際のお話です。
以前にも少し聞いたことがありますが、アーベル様は帝国で第二皇子のノア様と意気投合したそうです。彼は家族と平和をこよなく愛したと。
また、当時ハリル様が懇意にしていた帝国の公爵シルキウス様も、当時は内政を優先させるべきと考え、エスパルキアとの親交を望んでいたとのこと。
だからアーベル様もハリル様も、帝国とエスパルキアの未来は明るいものになると信じていたそうです。
でも、そうはならなかったのですよね。
ノア皇子殿下が非業の死を遂げ、その悲しみも癒えぬうちに皇帝と皇太子も暗殺された。
「ノアは俺にとって兄のような存在だったし、彼が家族というものがいかに尊い存在であるかを熱く語っていたから、俺も結婚には過度に期待して胸を膨らませていたことがある。だが、その『家族』がノアを殺したんだ」
私には真実もノア様の奥様の気持ちも全くわかりません。けれど、奥様とその御父上が皇族の死に関わっていることは誰もが知っています。
彼らを拘束する力がないから誰も何も言わないけれど。
「アーベル様」
言いかけた私に微笑んで、アーベル様は話を続けました。
「俺はノアと違って簡単に殺されるようなヘマはしない。だが、いつ死んでもおかしくない立場にあることは間違いない。俺が死んだときに、権力に魂を売る馬鹿が現れないと誰が言いきれようか」
実際、この国にも権力に魂を売って国をどうにかしようと画策した人物がいたのですから、かける言葉はありません。
友人を失い、その後の帝国の惨状を見てしまったら、私も同じように思ったかもしれません。
結婚をしないという選択が正しいとは思いません。けれど、ノア様の件を知ってしまったらその気持ちを否定することもまた、できないのです。
風が吹いて湖面が揺れるのが、まるでアーベル様の心のようにも見えます。
「でもなぁ。子を成すべきではない、権力を狙う悪しき輩にチャンスを与えてはいけない。いくら頭でそう考えて己を律していても、心が動いてしまうことはあると実感した」
「アーベル様は元々お優しい方です。それに誰よりも民を大事にしています。そんな人が、誰かを愛さないはずがありません。それは自然なことです」
相手が誰であれ。
アーベル様は本当に私との結婚を望んでくださっているんでしょうか?
好きだとか言ってくださったこともないのに?
そもそも結婚をしないためのカムフラージュ役として私がお側にいただけのことです。周囲の目を誤魔化すための行動や言動を勘違いしたら、私が痛い目を見てしまう。
だから決定的な言葉を待っているのに。
また泣きそうになって、ぎゅっとまぶたに力を入れました。
私はいつの間にアーベル様をこんなにも好きになっていたんでしょうか。むしろ、こんなにも好きになるまで、気持ちに蓋をし続けてこれたことが凄いのかもしれませんけど。
「初恋の話をしたことはあったか?」
「ありません。アーベル様にも初恋なんてあったんですね?」
「なに、俺をなんだと思ってるんだ」
山の中の小さな湖と言っても、一周するにはそこそこの時間がかかります。
話をしながらゆっくり歩いて、今はちょうどスタート地点の反対側でしょうか。マリーンがせっせと働いているのが小さく見えました。
「いや本当に狂戦士と思ってるわけじゃないですけど、初恋っていう単語のイメージと合致しないんですよね」
「おう、なんとでも言え。叔父上の結婚式で俺は天使に会ったんだ。それが初恋だった」
「天使ねぇ……」
そういえばトルーノ様は私を銀色の天使と呼んでくれましたね。
チョコレートパーティーのときお庭で天使の話をしたのはアーベル様でしたっけ。あの時はこの黒髪イケメンが王子殿下とは思わなかったなぁ。
ただ純粋に、黒髪と青い瞳に見覚えがあるなって思ったような。
あ。
「あ……あの小川で会った男の子」
トルーノ様の結婚式で、綺麗な顔の男の子に出会ったんでした。それがチョコレートパーティーの黒髪イケメンと被ったんですよね。
「やっと思い出したのか」
「え?」
「おまえだよ、俺の初恋の天使は」
「はぃぃいいっ?」
私の素っ頓狂な声に驚いた水鳥が、一斉に湖から飛び立ちました。
アーベル様はなぜか満足気な表情です。
「再会してすぐの時はまた忘れればいいと思ってたんだ。だが王城でしょっちゅう顔を合わせるようになったらそれも難しい。しかもこんなに個性的な人物を忘れられるわけがない」
「私は自分のことを没個性の象徴みたいな人間だと思ってましたけど」
「没個性の象徴は勝手に城を抜け出さないし、王族に金をたからないし、自分から進んで誘拐されたりしないものだ」
なんでもない振りをして、自然に見えるように歩いているのですが、私はいつも通りの表情ができているでしょうか?
個性的、という言葉に反応するようにラシャード様が笑いだしたのには気づいてるんですけど、突っ込む余裕がありません。
だってこれじゃまるで、初恋の女性である私に再会して恋心が大きくなって我慢ならん、と言ってるように聞こえるじゃないですか。
期待しちゃうじゃないですか。
このクソ王子、一体どれだけ私の心を弄んだら気が済むんでしょうか。
もうすぐゴールに到着します。
またしても、決定的な言葉は何一つもらえないまま。
「おかえりなさいませー! 準備は万端でっす!」
「よーし、それじゃあマリーンとラシャードも加えて四人で話をしよう」
「わたしもですか?」
私たちの到着に合わせて温かいお茶を準備し始めたマリーンが、驚いたように振り返って自分で自分を指さしました。
◇ ◇ ◇
湖での散策と、ブライダルショップ・アンヌの緊急営業会議を終えて私たちが会場へ戻った頃にはもう夕暮れ間近でした。
参加者は大きな怪我もなく無事に全員が戻っていて、獲物のサイズ測定が行われているところですね。
「例の報酬について、回答をいただいていませんでしたね」
王族用のテントへ戻って行くアーベル様の背中を見ながら、私の横に並び立つラシャード様が言いました。
――僕の妻ってのはどうです? 僕が用意できる中で最も高い報酬ですが
ウルサラ様の替え玉になるとき、報酬を用意しろと言った私にラシャード様がくれた提案です。
「支払わないためにそうおっしゃったのかと。ちょっと報酬としては高価すぎますし」
「命を賭けていただいたのだから安いくらいですし、本気です。急がせて申し訳ありませんが、いまご回答を」
笑い上戸で、いつもどこか掴めない空気をお持ちのラシャード様ですが、今に限ればとても真剣な目をしていらっしゃいます。
本気なのだと、その瞳ひとつで信じられるほどに。
「その報酬はいただけません」
一瞬の間。
ラシャード様がホゥッと小さく吐き出した息が固まった時間を溶かしました。
「……ぷっ。アハハ! さすがです。貴女は正しい選択をしたのだと思います」
「ん゛っ?」
「いえ、すみません。実は僕、貴女の返答を聞いた瞬間に心のどこかで安堵してしまったんです。結局、今後すべての責任を負う覚悟を、一歩を踏み出す勇気を持っていなかったのだと……自覚させられました」
なにを言っているのかわかりません。首を傾げる私にラシャード様は深々と折り目正しいお辞儀をしました。
「自分の気持ちは誰にも負けないつもりでいたのに、僕には主君の笑顔のほうが大事だったようです」
私の理解も返答も待たず、ラシャード様はアーベル様を追いかけるように王族用のテントへと向かいました。




