第35話 雲の上
マチルダ様の登場で、私たちの周囲を取り巻く空気は一気に混沌と化してしまいました。
誰を誘惑しているのかとすごい勢いで私を問いただすアーベル様。誰に恋心を抱いているのかとマチルダ様を問いただすラシャード様。ひどいひどいと泣くばかりのマチルダ様と、一体なんのことかと頭を抱える私。
「ああもう埒が明かん。言い出したマチルダ嬢にちゃんと説明してもらおうか」
大きく溜め息を吐いたアーベル様が頭をわしわしと掻きむしりながら、マチルダ様に向き直りました。
一通り泣き喚いたマチルダ様も、どうにか落ち着いた様子で息を吸ったり吐いたりしながら呼吸を整えていらっしゃいます。
「小サロンの利用申請をしましたので参りましょう」
妹のピンチにも冷静に対処できるラシャード様はさすがですね! ただマチルダ様の腕をがっしり掴んで逃がさない構えでいらっしゃるところに、余裕の無さも感じられますが。
なぜかアーベル様も私の腕を掴んで離してくださらないのですけどね。逃げるつもりはないのですが、アーベル様が怖いので逃げたくなります。
たまたまこの場に居合わせた人々の興味本位の視線をコソコソと避けながら、私たちはサロンへ向かいました。
「だから! キュリオ様がヴィヴィアンヌ様のことが好きなんだって」
「それで?」
「ヴィー様が平民かもしれないって悩まなくて済むようになったから、コベット公爵に言ってもっとたくさん会えるようにしたいって」
マチルダ様は、ラシャード様の尋問に回答するカタチで真相を明らかにしてくださいました。いや本当に尋問みたいなんです。兄という存在は怒らせてはいけないのだと、私は生まれて初めて知りました。
アーベル様は難しい顔をして黙りこくってしまうし、結局どうして私が責められているのかわからないですし。むむむ。
「マチルダはキュリオ様が好きなのか?」
「ええそうよ。初めてお会いしたとき、この肌をとっても褒めてくださったの」
エナンデル家は夫人が南国の出身のため浅黒い肌をお持ちです。私はそれをかっこいいと思うし、周囲の声もセクシーだとか健康的だとか好意的なものが多いのですが……。
結婚相手として考えたときに、「当家には相応しくない」との判断をくだすご家庭も少なくないのが現実。
ご長男は公爵家の跡取りですからそのハードルは比較的低いようですが、ラシャード様やマチルダ様はもう少し厳しい状況なのです。
こんなに可愛らしい方なのに。ちょっと感情表現が大きいですけど。
「ウルサラ様の披露宴でキュリオ様にはお会いしましたが、誘惑なんて……。その時はアーベル様もラシャード様もいらしたんですよ?」
「そういえばヴィヴィがアイツを子ども扱いして怒らせてたな!」
アーベル様も思い出したのか、急に笑い出しました。この人はこんなに笑い上戸でしたっけ?
ひとしきり笑ったアーベル様は、落ち着きを取り戻すとマチルダ様の顔を覗き込むようにして視線を合わせました。
「安心するといい。ヴィヴィアンヌ嬢は、近々俺と婚約するんだ。だから君の恋敵にはならない」
「ほんとですかっ?」
「いやいや、するなんて言ってませんけど」
一体どういうつもりでそんなことを言っているのかわかりませんが、婚約するだなんて一言も言ってないのです。大体、プロポーズもしてもらってないですし。
べ、別にプロポーズされたらオーケーするってわけではないですけど!
物事には順序というものがあると思うのですよ。お互いの気持ちを確かめてもない、プロポーズもない、なのに周囲に言いふらすって絶対おかしいと思います!
「ここは殿下の話に乗っておいてください、アレが駄々こねると面倒なので」
私が抗議をすると、ラシャード様がぼそっと耳打ちしました。
婚約の話はさておき、私が彼女の恋敵になるつもりはないという意味では同意なのですが。
でもプロポーズくらい……。
マチルダ様にバレないように小さく溜め息を吐いてから、よそ行きの笑顔で頷きました。
「そ、そうですわ、マチルダ様。私は王子殿下とこ、婚約しますの。オホホホ」
オホホホじゃないから!
マチルダ様のためとはいえ、嘘をつくのは胸が痛いです。
「わぁ、よかった! キュリオ様にも教えて差し上げないと。でもあたしから言うのは褒められたことじゃないわ。アーベル様、はやくはやく婚約発表なさってくださいませね!」
「ああ、任せておけ」
いや任せとけじゃないが。
先ほどまでの泣き顔はどこへやら。マチルダ様は満面の笑顔で挨拶もそこそこにサロンを飛び出して行きました。
「嵐のようでしたね」
閉じた扉を見つめつつ、どんよりした顔でしょぼくれているラシャード様を認めます。
本人の前では兄の尊厳を保っていたようですが、やはり可愛い妹が恋をしている事実は衝撃だったということでしょうか。しばらくは現実に戻って来ないかもしれませんね。
「婚約すると言ったな? 二言はないな?」
「いいえ、そうしろってラシャード様がおっしゃったから仕方なく。マチルダ様の純粋な心を騙すのは気が咎めますが、それはお二人がどうにかしてくださいね」
大体、おかしいんですよ。
結婚する気はないって断言していた人がここにきて婚約婚約って。
恐らくですけど、結婚願望がなくて異性より仕事を優先している私を婚約者にしておけば、周囲からの圧を防げるとでも思ってるのでしょう。
そう考えたらちょっと冷静になれた気がします。
「しかし、マチルダを安心させるために殿下が身体を張る必要はありませんでしたね。僕がヴィヴィアンヌ嬢と婚約すると訂正しておきましょうか」
「必要ない」
何か思いついたような顔でラシャード様が呟き、アーベル様が呆れ顔で首を振ります。
「私の立場から言わせていただけば、アーベル様だろうがラシャード様だろうが、キュリオ様だってみんな雲の上の人に違いないんです。大体キュリオ様がなんて言おうと、マチルダ様もドンと構えていらっしゃればいいのに」
結婚願望はなくとも貴族の端くれ、家名に傷がつく前に片付く必要は感じているのです。そのうち、ちょこちょこ送られてくる釣書の中からお相手を選ぼうかと思っていましたのに。
なんだか私はこの雲上人たちのせいで結婚が遠のいたなぁと思います。
この慰謝料はどうやって払ってもらいましょうか。
思案する私の前で、アーベル様とラシャード様が仲良くにらめっこをしています。のんきなものです。
「ヴィヴィ、覚えておくといい。雲は存外に地盤が固いし、地上の人間を連れて上がることは難しくないとな」
仮に、仮にですよ?
この傲慢な王子様が本気で地上の人間を雲上に連れて行こうとしているなら、ひとつ大事なことを忘れていると思うんですよね。
「それでも雲の上で全て済ませるほうが楽でしょうに」
大きな溜め息を吐くアーベル様と、それを指差して笑うラシャード様を置いてサロンを後にしました。
早く店に戻らなくては。
……本人にプロポーズもしないで婚約だなんだと騒がないでいただきたいものです。




