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94.トロイエ

「お前__どうして」

トロイエはサラの首に剣を当てる。


「兄貴は尊敬してます。だけど、おいらは自分のために生きます」

俺の首元にも冷たい金属の感触が走る。マインツ選帝侯の刃だ。


「どういうことなんだ?」

俺は背中越しにマインツ選帝侯に尋ねる。

「トロイエは私の忠実な部下なのですよ」


彼は刃を少しだけ強く押し当てた。皮膚が切れる感触がする。振り返って切り殺そうとしても、勝ち目は乏しい。

「無駄ですよ。もしあなたが私を殺しても、トロイエは必ずあなたの愛する人を殺します」



首から肩の方へと流れる生暖かい血の感触、信頼していた部下の裏切り、様々な要素が不快感を増幅させる。

「俺を殺すつもりはないようだな」

マインツ選帝侯は剣を離した。

「私の目的にあなたが必要です」


殺してやる__憎悪が身体を衝動的に動かそうとする。裏切られた悔しさ、出し抜かれたふがいなさを一気に解消すべく、魔力を集める。その時、サラと目が合った。戦えない自分の情けなさを嘆いているように見える。


「分かった」

俺は剣を置いた。




 俺は縄で拘束された。魔力をもってしても、数人の兵士に縛られていてはさすがに動けない。対してサラは、何の拘束もされていない。マインツの軍と、トロイエの意のままに従うブランデンブルク軍は、北へと戻る。



「トロイエに、何を吹き込んだんだ?」

俺はマインツ選帝侯に尋ねた。拘束されていてもこいつは俺から一切目を離さない。


「家族です」

彼は一言、そう言い放ち、続ける。



「彼は敬虔なアクア教徒です。双子に生まれ、罪の意識に苛まれてきた。だからこそ神を頼ったのでしょう」

「あいつの、妹の話か」

マインツ選帝侯は頷く。



「私は彼に、妹を生き返らせると言いました」

「は?」


くそ真面目と呼ばれるこの男が、そんな杜撰な誘い文句であいつを誘ったという事実が信じられなかった。死者蘇生などという幻想は、魔法をもってしても不可能だ。


「どんな話術を使ったんだ?」

俺は鼻で笑うように尋ねた。


「別に、難しいことはありませんよ。むしろ彼を信じさせたのはあなた自身です」

「どういうことだ?」


俺はマインツ選帝侯の方を向いた。


「私は聖戦以降、あなたたちブランデンブルクの人間にスパイを忍び込ませていました。宗教というのは人々の生活に糸を張る、くもの巣のようなものでね。情報収集には最適なのですよ。あなたは随分と力をお付けになったようだ。森の民とやらとの戦いでの活躍、こちらにも情報が入ってきていますよ」


俺の知らない事実が、淡々と述べられていく。


「運命のいたずらにより双子の妹を失った彼にとって、運命と戦うあなたは自分のなれなかった姿、憧れなのですよ。ある種のコンプレックスと言ってもいい。祝福という教会の力を使い、己の領土を守り抜いたあなたは敬虔な彼にとってはあるべき信徒であり、騎士であったのですよ」


「俺はアクア教徒じゃない」

俺は彼を睨みつける。


「そう。ですがあなたのその力は教会が研究し続けてきた力でもある。教皇ともつながりのあるあなたは信徒にとってのアイコンとなっている。人知れず悩むトロイエに、そんなアイコンが自由意志の下で生きている様を見せたらどうなるか、想像つくでしょう?」



 はっとした。転生して、大切なもののために生きると決めた。それは利他的な側面もあるが、俺の意思を為すという自己中心的な側面もある。そうだ。忘れていた。


 前世ではSNSで、同窓会で、楽しそうに生きる友人を見て、憎悪に近い憧憬を抱いたじゃないか。羨ましい、自分もああなりたいと強く思った。


 人は何をしたかで他人から見られる。これは俺が俺のやりたいように生きることへの、責任だ。



「俺は__何も変わっていない」

 前世で俺は無気力に生きていた。俺と同じ年齢で部長に昇進したやつ、転職して一流企業に入った奴。それを羨むばかりで、そいつらの苦労とか努力を見ようとしたことがあっただろうか。


 トロイエは俺とは違う。双子に生まれたが故、妹が死んだという業を嘆くことなく俺を慕ってくれた。裏切られたとはいえ、あいつが嘘を器用につける人間じゃないことは、この短い期間でもよく分かる。

 あいつは決断したんだ。自分の劣等感と戦うことを。マインツ選帝侯の甘言に釣られたとはいえ誰がそれを糾弾できようか。



 負けているんだ。俺はあいつに人として。



「勝てる気がしないな」

俺は呟く。

「おや、私を殺すことには何の躊躇いもなさそうでしたのに。随分と弱気ですね」


 マインツ選帝侯はとぼけて言う。

「お前は、悪魔だ」

そう言うと、マインツ選帝侯はにやりと笑う。

「物事をなすためには準備が最も大切です。私は誰よりも準備をしました。あなたも、皇帝も、あなたの両親も、もう終わりです」


落ち着いた声の中で、勝利宣言をする。




「必ず俺が殺してやる」

俺は改めてマインツ選帝侯を睨みつけた。

「トロイエは、どう思うでしょうね」

マインツ選帝侯は肩をすくめる。


トロイエという信頼していた人間を失ったことのショックは小さくない。だが、それでもブランデンブルク、いやサラと俺の平穏が脅かされるのなら、俺は許さない。


「ま、あなたにはとりあえず眠っていただきます」

マインツ選帝侯の手刀によって、俺の意識は飛んだ。



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