8話 斯くて現は、幽かに交われば2
――央洲、央都。山巓陵。
晶たちと別れた嗣穂は、央都の中央を占める山巓湖の中央に建てられた三宮の居城に訪れていた。
央都全域も薄皮一枚を隔てて神域と接しているが、更にその中央ともなれば半ば以上は神域へと沈んでいる空間ともいえる。
央都とは、それ自体が巨大な神柱の領域であり、高御座の媛君が知ろ示す空間そのものに他ならない。
事実上、神柱によって完全に管理されたこの央都を、天の乱れが襲ったことは皆無である。
嗣穂たちが案内された螺鈿の間から覗くこの晴天も、穏やかな慈雨を除けば彼女に乱れる様相を見せた記憶がなかった。
「藤森宮さまの御成りにて御座います。
奇鳳院の姫様」
「――待たせましたね。
こちらも少し立て込んでいたので、予定がずれ込みました」
質の良い畳に座り、鏡のような静けさの水面を眺めていた嗣穂は、控えていた女性の後ろに人影を見止めて深く首を垂れた。
「滅相もなく。神嘗祭の前に訪いを赦していただけたこと、感謝申し上げます。
薫子さま」
その姓が示す通り藍地に染められた綸子を着熟す女性が、足音も僅かに上座へと腰を下ろす。
――胸元で、ただ咲き揺れる藤の家紋。
幼くも奇鳳院の次代を背負う少女を、藤森宮薫子はゆるりと一瞥した。
年齢の頃は20を過ぎた辺りか。
だが嗣穂の知る限り、彼女の見た目が10年以上は変化した様子もない。
事実、薫子の年齢が40を裕に超えていることを、その場にいる全員が知っていた。
不老にして、200に届くという長寿。それは巫である四院よりも、神柱としての性質が強い三宮の証。
だが、その神秘性とは裏腹の穏やかな口調が、螺鈿の間に走る緊張を解した。
手を振って、人払いを命じる。
暫くも経たず、周囲は湖面に寄せる細波の音しか残らなくなった。
「くろさまが少し揺れておられましたが、五行結界に影響するほどでもないでしょう。現在、囃し立てているのは、利権を求めた旧家くらいです。
――本題に入りましょう。滑瓢でしたか、嘘を口にできる悪神とは厄介な」
「嘘を口にできるのは確認しています。
……信じ難くはありますが、事実かと」
「疑ってはいません。
しかし、真実も口にした以上、象が嘘だと云うのは怪しいでしょう。
嘘が吐ける、何か絡繰り仕掛けが仕込まれているはずですね」
「噓が象である事自体が、嘘という事ですか」
薫子の指摘に、嗣穂の双眸が翳りを帯びる。
云われてみれば、確かにその通りだ。象とは神柱自身を象る根幹。象を裏切れない理由は、偏にそれが己自身であるからだ。
嘘を象とするならば、その神柱が口にする総ては嘘でなければならない。
百歩譲って、自在に嘘を吐けるとしよう。
だが、その帳尻を合わせるためには、滑瓢も何らかの対価を支払っていなければならないはずだ。
――嘘を象とする神柱にとって、真実こそが嘘なのだから。
「あかさまより、侵した業が滑瓢の在り様を歪めていると」
「興味深い。神柱の宣下であれば、強ち的を外してはいないでしょうね。
報告で滑瓢は、瘴気を吐いたとありましたが?」
「是に御座います。
仮面の神器を破壊した際に、膨大な瘴気が周囲を汚染したので間違いはありません」
「……他者を演じる権能を持つ、堕ちた神器。その辺りが噓を吐ける絡繰りかしら?
本当の象が判れば、その対処に一歩踏み出せると思うのですが」
思案に暮れる薫子の呟きに、それでも真実を辿れているような手応えは返らなかった。
不意に横たわった沈黙に、嗣穂は湯呑から煎茶を口に含む。
煎茶の香りと共に広がる、香ばしい滋味。
初めての感触に、嗣穂の眉が驚きに跳ね上がった。
「――美味しいでしょう? 炙った餅を茶に混ぜました。
商家のものが相手を愉しませようと仕込む手管だそうで、面白いから真似をしてみました」
「……普段とは違う香ばしさに、茶が進みますね」
悪戯が成功したと笑う薫子に、茶を干した嗣穂の肩も下がる。
茶は茶、餅は餅で味わうのが普通だったので、合わせるという思考は意外なほど上位には盲点の思考なのだろう。
簡単な組み合わせだが、思いつき次第で新しい発見もある。
素朴だが鮮烈な味わいは、嗣穂にそう伝えてくれた。
「滑瓢もこの程度の可愛気で済めばいいのですが、ね。
此処で考えるだけでも、結論は出ないでしょう」
「五行結界に異常はありませんでしたが、事がそれで終わるとも思えません。
……どうにも、滑瓢は私たちを煽っているように感じられましたので」
相手の口振りからして、この百鬼夜行に向けた準備も長い年月をかけてきたことは容易く推し測ることができる。
五つの龍穴を連結させる事で、上限を超えた強度を得る五行結界。高天原全土を利用したこの結界を調べるには、充分過ぎるほどの時間があったはずだ。
仮令、神器であれ神柱の侵攻であれ、この結界を越えて世界の鼎に接触する事は困難であろうことも理解に及べるはずであるが……。
「手を出したという事は、解決の道筋を見つける事が叶ったと判断できるでしょうね。
珠門洲は、央都へと差し迫るであろう百鬼夜行に対して戦力の供出をしてくれると?」
「近衛の権限を無駄に揺らす心算もありません。
ですので、此方の出し得る精鋭を、少数、選出いたしました。
――内訳はこちらに」
藤森宮直轄である近衛は、他洲の干渉を赦さない高天原最大の戦力だ。
八家や個人での最強を余所に譲りつつも、その名声と威光は衰えを見せた事は無い。
差し出された紙を受け取り、薫子は列ねられた名前を一瞥した。
記憶にある名前が幾つか。――だが、その多くは若手が占めている。
「阿僧祇厳次は、前回の天覧試合で記憶に残っています。
後は八家。……ですが、若手が多く見られますね」
「私もそうですが、何ごとも経験かと。学院に所属しているので、何かと都合が良いのも理由ですね」
「若手が出張ることを責める心算はありません。――ですが、無駄に危険を晒す必要も無いでしょう。八家当主の供出は叶いませんか?」
薫子の懸念も尤もなものであろう。
仮令、近衛が最大戦力を誇っていようとも、百鬼夜行の物量を考えれば央都周辺を潰して回るので精一杯だという事は自明の理だ。
そうである以上、五行結界を維持する要の守護には、直轄している各洲の協力が不可欠になってくる。
幸い、四院のうち三院の直系が揃ってはいるが、贅沢を願うならば八家の神器を恃むのは当然の発想だろう。
「後の話題でしたが、……理由があって波国の要人をこちらに送る予定があります。
その際の監視と護衛に、輪堂の当主を送る予定ではありました。
――間に合うかどうかは、相手次第ですが」
「良しなに」
嗣穂からの慰めに、薫子はほぅと安堵の息を吐いた。
改めて、紙に列ねられた名前を一巡する。
そうして、その片隅の名前に目を瞬かせた。
只一人、そこには姓が載せられていない
「此方の、晶と云う名前は?」
「文月の初めに、華蓮を襲った百鬼夜行で大功を納めた見做しの防人です。
葉月の功も経て、奇鳳院は正式に防人と認めました。
武芸の身としては未だ途上でありますが、滑瓢と縁も深く、本人の希望もあって此度の参戦を赦しました」
見咎められる可能性は、充分に想定をしていた。
表情を変えることなく、嗣穂は晶の経歴を連ねて見せた。
嘘ではない。だが、細い糸を渡るかのような会話に危うさを嗅ぎ取ったか、薫子の視線に探るものが混じる。
それを真っ向から、怖じる事のない嗣穂の視線が迎え撃つ。
それに、薫子は晶の名前を知らない。その情報に確信を得られた事実は、嗣穂にとって値千金の価値を持っているともいえた。
奇鳳院の態度に焦れた義王院が、三宮へ訴状を上げる可能性は常に捨てきれていなかったのだから。
互いの視線が絡み合う、僅かな時間。
やがて、先に視線を逸らしたのは薫子の方であった。
「そうですか。
問題が無いと云うのであるならば、奇鳳院の判断を止める心算はありません。
――但し、護国の役目を相手に願うならば、最低限、華族としての立場を与えるように。
民の献身に応じる姿勢を見せるのは、洲太守としての務めです」
薫子の言葉は的外れではない。
守備隊に平民出身の正規兵はいるが、本来、護国は武家華族の役目であるからだ。
こじつけとはいえ、防人になる以上は華族の立場も与えないと周囲への示しもつかない。
だが、嗣穂としても薫子の言葉は有り難いものであった。
晶が國天洲の八家第一位、雨月の出身である事実は変えようがないからだ。
仮令、両者が否定しても、血筋は決して無視のできない絆である。
晶が立つ足元の、曖昧さ。
それは、一人勝ちの基盤を着々と進めていられる奇鳳院の、最大の弱みと云っても過言ではない。
これは、晶がどの洲で生きていくかを決める、競争だ。
――未だ自覚の薄い晶は、その立ち位置さえも不安定なままなのだから。
「はい。奇鳳院は既に、晶さんへこれまでの大功を併せた褒賞として、華族としての姓を準備しています」
「あら、用意の良い事。
……もしかして、こう云われるだろうと予想していたの?」
「真逆。 奇鳳院としても、必要だとは感じていただけです」
言質を取られないように、嗣穂は嘘と真実の境目を必死に綱渡りした。
穏やかな見た目をしていたとしても、眼前の女性は藤森宮である。
三宮の一角。公正を旨とし、裁定権を一手に束ねる最高権力者の一人。
嗣穂が珠門洲を束ねていたとしても、眼前の女性に立場で敵うものは無い。
珠門洲が不満を持ったとしても、この時点であるならば彼女の判断一つで如何様にも状況を変える事が可能なのだから。
思案は僅かに。やがて、薫子は湯呑を干して畳に置いた。
「まぁ、良いでしょう。
取り敢えず、そう云う事にしておきます。
四方山話ですが、彼に与える姓は決まっているのでしょうか?」
――通った。
安堵の息を押し殺して、嗣穂は華やかに笑みを浮かべた。
晶が与るであろう姓も、難航した話題の一つだ。
解決できたのが珠門洲を発つ直前であった事からも、その難航ぶりは推し測れるだろう。
だが、つい先日に漸く晶の姓も定まった。
桜色の唇が、嬉し気に綻ぶ。
「はい。絶えた姓の一つを引き上げました。
――名を、」
♢
昏く渦巻く瘴気の底に、冴えない風貌の男が足を下ろした。
並みの穢獣ですら骨まで熔かし尽くす腐敗と毒気を一息に吸い、男は満足そうに吐き出す。
その様子を眺めていた巌の体躯が、降り積もる岩石の欠片を払い除けて男の前に座った。
「……御大将カ」
「如何にも、童子殿。
見た目も随分と変わったというのに、身共であると直ぐに通じた事は嬉しく思うぞ」
理由も知っているだろうに。何処か惚けた滑瓢の応えに、観経童子は口籠るような嗤いを一頻りに上げた。
「人トシカ見エナイソノ外見ダガ、瘴気ノ味ヲ知ッテイルナラバ相手モ限ラレヨウサ。
……其レガ此度ノ肉体カ?」
「然り。万朶を操るための駒でしかなかったが、彫り直すのも手間でなあ。
策が巧く運んだのは良いが、本命との時間が足りなくなってしまった故の間に合わせよ。
警戒を掻き立てんのは良いが、如何せん能力が足りなさすぎる」
華蓮では本庄友俊の名前で呼ばれていたその中年は、にたりと口元に三日月を浮かべて顎を擦った。
「他者を演じる権能なれば、演目の上限を超えることは出来ん。
龍穴を喪った神柱の末路とはいえ、九法宝典の限界が狭まったのは口惜しいのう」
「……瘴気デ権能ヲ間ニ合ワセラレテモ、神域特性ハ行使デキンカ」
観経童子の年経た無機質な声に、残念そうな響きが滲む。
――神域特性は、現世に神柱の偉業を再現する唯一の手段だ。
発現する効果は万象様々であるが、相性さえ合えばどんな劣勢であっても覆す事を可能とする。
精霊力の成れの果てである瘴気では、神器を起動する事が精々であろうと、年降りた大鬼は嘆いたのだ。
だが、愉し気に嗤う滑瓢に焦りは浮かばない。
瘴気を注ぎ込んで九法宝典の在り様を捻じ曲げたのだ。従来のように完全な再現が叶わなくなることも想定はしていた。
――それに、
神器そのものが偉業の体現である以上、神域特性が喪われたという訳ではない。
「神器が完全に喪われるのは、神柱が滅んだときぞ。
偉業が再現できなくなっただけであるならば、この地で再現をすれば良い」
「ホウ」
今一つ、理解に及べていないのだろう。
気のない大鬼の肯いに、滑瓢も僅かに嗤うだけを返す。
「細工は流々にて仕上げは御覧じろ、童子殿。
何。九法宝典は居眠りだけの利かん坊でな、起こすにはひと手間かかるだけ。
……残り3枚。奴ばらめが勝利を確信した時、身共たちの勝利が確定する」
―――卑、非、卑ィィ。
気掛かりも僅かだけ。滑瓢と呼ばれた怪人は冴えない風貌の姿を演じたまま、瘴気の澱む底で滑りつくような笑い声を何時までも上げ続けた。
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