閑話 答えは遠く、確証は結論に臨む2
――東部壁樹洲、洲都鈴八代。
神域、翠几霊窟。
透渡殿の床板が、荒々しく踏み鳴らされる。
足音の主である青蘭は、当主である玻璃院翠を引き連れて霊窟の奥間へと足早に向かった。
「その情報、真実であろうな!」
「雨月に逗留させていた不破直利からの奏言です。
偽る理由もありませんし、神無の御坐の名称を知って慌てたのが何よりの証拠でしょう」
翠の応えに、玻璃色に輝く青蘭の眦が怒気に歪む。
「……っ! 愚図が。――うにゃあっ!?」
「…………………………ご無事ですか、あおさま」
「ううぅぅぅっっ、 、 、……問題ないっ!」
引き戸を開けて、自身の席へと大きく一歩。
――ついた勢いに足元が滑って、頭から畳に倒れ込む。
藍に艶めく黒髪が畳に広がり、恥ずかしさからか引き攣れたように華奢な手足が震えた。
何時もの光景に僅かばかりの安堵を覚えつつ、翠は青蘭を助け起こす。
誤魔化すように涙目を振り払い、青蘭は乱雑に自身の座席に胡坐を掻いた。
「國天洲に神無の御坐が生まれていた。
……これ自体は、歓迎すべき慶事でしかない。
400年前の内乱から生まれなかった御坐の再臨じゃ。特に儂らは、祝辞を述べるだけでも肩から荷が下りる」
「はい。――問題は、雨月の独断で神無の御坐が喪われた事実です。
……國天洲が荒れているのは、荒神堕ちが原因でしょうか」
「なりかけた、は間違い無かろうさ。小康状態を保たせている現状が嵐の前の静けさであるならば、何時、決壊しても驚きはせんが。
……神無の御坐が亡くなったのは事実なのか?」
「人別省の役人が、雨月本邸へと魂石を直に持ってきたそうです。
雨月はただの能無しとしか見ていなかったそうですので、人別省へ小細工を仕掛ける手間は考えないでしょう」
「魂石の輝きが失せていたならば、9割、間違いは無いか。
神柱の加護は基本的に支配する土地までである以上、洲の境を一歩でも跨げばただの人と変わらんからな」
より正確には身体に満ちる神気が尽きるまで、であるが、何方にしても時間の問題だ。
「……良く、3年も露見しなかったものです。
ここまでの手抜かり、義王院も失態の誹りは免れないでしょうが」
「悲願であった神無の御坐の誕生に浮かれておったのであろうさ。
しかも忠義に篤く歴史に永い雨月の内部、干渉するのも躊躇っていた可能性は高い」
口にしながら、青蘭は玄麗の事情も薄っすらと理解していた。
神域は神柱そのものである。本質的に余人が立ち入ることは赦されない神柱の内面であり、ただ人が過ごす事を考慮することは無い。
青蘭の神域もその名の通り、元来は岩肌に囲まれた洞窟である。初めて神無の御坐を得られた際に、一年以上を掛けて改修を重ねた過去があった。
神域の組み替えは、神柱にとっても繊細で負担のかかる作業となる。
一朝一夕で為せる技でもない上、己の伴侶を迎えるためと何処までも拘り抜くのは当然だ。
「――直利めから詳細は訊いたか?」
「不破家当主が聴いていますが、こちらからも直に聴いておきます。
何かご不審がありましたか?」
「神無の御坐が放逐された理由は、無能が故であったな?
……事実であるか?」
青蘭の問い掛けに、翠は僅かに視線を伏せた。
罪と問われた場合、雨月の主張は間違いなくその辺りに焦点が当てられる。
神無の御坐という事実を前にして、無能など物の問題とも問われないが……。
「不破直利の証言でも、その辺りは曖昧でした。……ですが、彼は最低でも回生符の書き方は伝授したと。
回生符が書けるという事は、陰陽師として最低限の知識は備わっているという事にはなります」
「年齢10の時点で回生符が書けたのならば、少なくとも無能では無かろう。
雨月は揃って、間抜けか節穴か?」
「回生符を作成するだけの知識が足りているならば、少なくとも小学校の知識で支えられる範囲から逸脱していることは確実です。
――雨月が無能と断じたのは、精霊無しから来る先入観ゆえかと」
努めて冷静に現状を分析しようとする翠に向けて、青蘭は軽く鼻で嗤って見せた。
「とどの詰まり、雨月天山が度し難い無能という事であろう。
……雨月も墜ちたものよ。このような末裔を当主と仰ぎ、國天洲を巻き添えにして沈む羽目になるとは」
「妹から報告は受けていましたが、嫡子の颯馬は優秀だそうですよ。
『北辺の至宝』。その呼び名に相応しい才気の持ち主だとか」
「――だから?」
問うように流し目を向ける青蘭に、翠は軽く肩を竦めて返した。
その評価の裏を返せば、余人で測れる程度の優秀さである事を意味している。
神柱にとってその事実は、どれほどの魅力ですら無かった。
「雨月の処分は義王院の預かり。ですが不破範頼から、直利の助命が願い出られています。
幸いなことに彼は不破の家名を返上していません、情状酌量の余地は一考すべきかと」
「義王院次第であろうな。……だが、こちらでも口添え程度は約しておこうか。
――神無の御坐が亡くなったのは州外で確定であろうが、何処で亡くなったか予想はつくか?」
「追放時、五月雨領にある南の旧街道を抜けたはずだと聞き及んでいます。
あの辺りの地理は知識に有りませんが、旧街道は央洲と壁樹洲の境にある山稜で合流していたはずです。
抜けたとしても、その辺りで生計を立てていた可能性が高いかと」
「儂の支配地か央洲か、亡くなった場所の可能性は半々か」
深刻な表情で翠の首肯が返る。
人間一人だけの怒りも制御できないのだ。神柱の怒りともなれば、制御を外れて暴走する虞すら孕んでいる。
「なら、周辺の街を虱潰しに探し回れ。回生符を収入の当てにしていたのであるならば、特に呪符組合を当たれば外れる事も無かろう。
――遺骨は高望みでも、運が良ければ遺品の一つは回収もできよう」
遺品を土産に玄麗の怒気を宥めようという魂胆ならば、
「……火に油を注ぎかねませんが」
「だからじゃ。怒りに疲れたくろめが黒曜殿に籠るまで、五月雨領に意識を集中させて一気に焼き尽くす。
周囲の被害は尋常でなくなるが、壁樹洲に向く被害は少なくなろうさ。
100でも1000でも結果が土地の根絶やしならば、100で10年続くよりか1000で1年の方が被害の収まりが良いじゃろう」
上限を越えて土地を痛めつけても、与えられる結果が上限以上になりはしない。ならば、時間が短い方がマシだと判断するのは道理だろう。周辺の民とすれば堪ったものでは無いだろうが、これも運命と受け入れてもらうか。
冷淡な青蘭の判断に、それでも翠は然して抗弁も訴えることなく肯いを返した。
彼女たちが支配するのは壁樹洲であり、他洲の一地方である五月雨領は気に掛ける必要もないからだ。
「念には念を入れて、誉を央洲の北部に派遣しましょう。
同様に央洲の北境周辺を当たらせて、呪符組合の取引を調べさせます」
「あれは小知恵を回し過ぎる。余計な手出しを控えさせるためにも、詳細は教えない方が良かろう。
神無の御坐の名前は晶と云ったか? しかし、その名前で取引しているとも思えんが」
「それならば、義王院から雅号を賜った事があると。呪符の取引ならば、そちらを優先するでしょう」
良し。一通りを聴き終えて、青蘭は大きく一つ首肯した。
現状が荒神堕ちの前兆ならば、時間を掛ければ周囲の被害も圧倒的に広がっていく。
少しでも早く晶が亡くなった場所を突き止めるのが、彼女たちの優先すべき事項となった。
「雅号持ちの子供などという珍しい存在、否応なく衆目を集めただろうさ。
総当たりで探せば、苦労なく見つかると期待しよう。
――雅号は何と?」
青蘭に問われて、翠は口にするか迷った。
それを聞けば、玄麗が晶に掛けた想いも透けて見えるからだ。
……だが、その逡巡も僅か。意を決して、翠は口を開いた。
「玄生。そう字を与えられたそうです」
「…………………………そうか」
――玄と生きる。
無為に消えたであろうその願いに応える言葉を持てず、ただ只管に苦く青蘭はそれだけを口にした。
♢
――西部伯道洲、洲都小幣。
神域、純景大聖廟。
聖廟に広がる格子組の天井間近に、鈴入りのお手玉が軽やかに舞った。
「一の二の……あっ」
楽し気に数え唄う神楽はお気に入りを目で追い、拍子を外れた一つを額に受けて鈴を鳴らすように笑う。
「――神楽は、お手玉が好きよな」
「はい!」
飽きることなくもう一度。宙を巡る彩りが再開され、月白は閉じられた双眸のまま微笑んだ。
穏やかに過ぎる時間に、手元にある白の盃が甘い芳香と共に水面を揺らす。
常と変わらぬその光景も、やがて割り込んできた声に破られた。
「しろさま」
「滸かや? その表情、さては吉報の類と見たが」
二枚の紙片を片手に愉しそうな笑みを湛えた陣楼院滸が、二人きりの聖廟へと足を踏み込んだ。
その笑顔に自身の策が結実したことを確信して、劣らずの微笑みを月白は返す。
「ご賢察にて。夫より、奇鳳院伝えに一報が投げられました。
――滑瓢と名付けた客人神が華蓮を襲い、逃げ果せた可能性が在ると。
夫は珠門洲の知人と共に、神柱の後を追い狙いであろう央洲へと急ぐそうです」
「だけ、ではあるまい?」
重要ではあろうが、それで吉報とは思えない。
含む笑みを滸に返して、月白は一報の続きを促した。
孤城が出した電報は検閲に掛けられているため、公の情報はそれで全てである事は間違いない。
――だが、奈切迅が奈切領に出した電報ならば、検閲の網も薄くなる。
本文そのものにはあまり意味がない。重要なのは日付と後文。
組み合わせれば、何とどうしているかが浮かび上がる。
「あかさまが神無の御坐を得られたと。現在、夫は行動を共にしているそうです」
「400年振りか。前回の内乱から続く天の怒りも、漸くに溶けたと見える。
――行動を共にしているという事は、奇鳳院は未だ気付かれていないと思っておるな?」
「その可能性が高いでしょう。
常識ならば考えにくいですが、情報二つを組み合わせると、央洲へと神無の御坐を伴って向かう事になったのかと」
それは、有り得ない事態でもあった。
神嘗祭でのお披露目で周知する前の大事な時期。他洲の関係者が近づくことを、神柱は決して歓迎しない。
その現実を黙認したという事実から、下手に干渉して神無の御坐という正体が露見することを恐れた可能性を推察できる。
「――くろとの繋がりが見えてはこんのが今一つの不安であるが、面白くはあるな」
「手出しをされますか?」
滸の念押しに、嬉し気なまま月白は首肯だけを返した。
400年前の例外を除き、月白が最後に神無の御坐を得た記憶を辿るには、700年も時間を戻す必要がある。
……正式な伴侶でなくとも構いはしない。
久方振りに供された好機、朱華と角を交わしてでも得たい欲はあった。
状況と朱華の性格を推し測りつつ、策を幾つか思考に描く。
処女を拗らせかけている玄麗は手出しを控えるだろうが、400年前の内乱でケチのついた青蘭は口を出す可能性が高い。
その前に朱華と共有の密約を交わすのが手っ取り早いが、どの辺りで切り口とするか。
お手玉を目で追う神楽を、思案に暮れる眼差しで一瞥する。
「……神楽や。少しそこに立ってたもれ」
「? はい」
扇を閉じて、月白は神楽の遊ぶ手を止めさせた。
素直に立ち上がる少女の立ち振る舞いを、上から順に巡らせる。
発育が始まったばかりの肢体を包むのは、白の絹衣に朱染の長襦袢。
整った顔立ちは将来の期待も高いが、濡れ羽色の髪は肩の辺りで切り揃えられており、あどけない幼さが強調されている。
……欲目を入れたとしても、そこに子供相応の可愛らしさしか認めることは出来なかった。
「うむ。……どう頑張っても、色気は期待できんの」
「年齢10を数えたばかりの幼子に、何を期待されているんですか」
滸の口調に、呆れの感情が思わず混じる。
云わんとすることは理解できるが、色仕掛けを期待する相手が間違っているだろう。
「莫迦もの。色仕掛けに必要なのは、女の度胸よ。
目で流し言葉で翻弄して、相手の本音を絡め取るが技量の本質。
年齢なぞ関係あるか」
「あるでしょう。見た目に拘らなくても良いのは、同年代かそれ以下です」
「……うむぅ。相手の年齢は書いてあるか?」
「残念ながら。……ですが予想は出来ます。
央洲に向かう事を赦されて、お披露目を迎えていない。
――ならば下限は12、上限は15かと」
「最悪、神楽との年齢差は5つか。
どの家が出身かの?」
月白の問い掛けに、滸は思考を巡らせた。
高天原に於ける婚姻関係は、基本的に上位の華族や家長同士の相談によって決定される。
神無の御坐の婚姻であるならば、奇鳳院や生まれた家元の意向で完全に固められている事は想像に難くなかった。
殊の外、策謀を好む月白だが、その反面、恋愛感情に関しては興味を示さない。しかし、他洲の神無の御坐に手を出すならば、それ以前、恋愛感情に溺れさせるしか干渉の手段は残っていなかった。
つまり、最も月白が苦手とする分野で、陣楼院は競う事を強いられる訳だ。
「久我家は既に、『久我の神童』を次期当主と大々的に発しています。久我法理の性格からして、神無の御坐を前面に推さない理屈はありません。
であるならば、生まれたのは輪堂家でしょう」
輪堂家の家族構成は流石に記憶も朧気だが、公的に発表されていたのは長男が一人のみ。
既に20を越えていたはずだから、こちらは選択肢から外れる。
「……輪堂孝三郎の性格からは考え難いのですが、輪堂の妾腹という線が可能性として高いかと」
前提となる条件を耳に、月白は一つ首肯を返した。
恋愛にも策は必須だが、往々にして計算より感情が先に立つ場合が多い。
ならば、感情に訴えかける策が最も効果的に立つはずだ。
「妾腹という事は、母親以外の家族がいる可能性は薄かろう。
――神楽や。其方に頼みたいことが有るのじゃがな」
「はいっ、しろさま! 何なりとお申し付けください」
「善い返事よ。
――其方も、2年後には央洲の天領学院へと進学する身。今のうちに、学院だけでも見ておきたいと思わんか?」
「えぇ、い、良いのですか!?」
央洲は疎か、洲都である小幣ですら大手を振った事のない大事の身である。
何か難事を恃まれるかと、期待と不安の入り混じった少女の表情が、初めて向かう央洲への期待に華やいだ。
月白は、素直なだけのその表情に満足そうな表情を浮かべた。
「うむ。とは云え、滸は洲都より動けぬ身。護衛と共に列車で行くが善い。
おお、そうじゃの。央洲には孤城も居るが、こちらも忙しくて動けぬであろう。
――代わりに、孤城が寄越した出迎えのものを、兄と慕って全幅の信頼を預けよ」
「あ、兄、ですか?」
「うむ。思いの丈、甘えるが良いさ」
三宮四院の直系となるものは、決して男子を産むことはない。
確実に縁の遠いその言葉に、神楽は目を白黒とさせた。
云い含める月白の背後で、呆れた表情の滸が天を仰ぐ姿が見える。
月白と母親の間で視線を往復させるが、やがて大きく一つ頷いた。
「は、はい! しろさまの期待に応えられるよう、存分に働きを見せたいと思います!!」
「善い善い。
――さ、出立の準備をしてくるがよい」
期待に浮かれた感情が抑えられないのか、燥ぐ足で神楽は聖廟を後にする。
にこやかに見送る月白へと、感情が見えない滸の声が背中を打った。
「……どういうお心算ですか、しろさま?」
「仕方あるまい。
色気が期待できぬ以上、妹として相手の懐に滑り込むのが最善の策ぞ。
何。其方の娘は、間違いなく器量で最上じゃ。自然体であれば、間違いなく情に絆されるであろうさ。
――あかの奴も、見てくれだけは女童。あれの悋気に食傷を覚えているなら、我にも勝ちの目はある」
「………………………はあ」
得意気な月白の断言に、滸は嘆息だけを返した。
幼い少女で年上の少年を篭絡しようというのだ。その方向性は間違っていないとも思うが、それでもあざとさが目立つ気がする。
「そろそろ市中にも慣れさせたくありましたから、いい機会ではあります。
……気掛かりなのは悪神の方でしょう。央洲で一騒ぎ、目論んでいる可能性は否定できませんが」
「占っておるが、……どの卦も答えを返さぬ。央洲は、完全に守勢と決め込んでおるな。
まぁ、傍に孤城を張り付けておけば、些少の問題も無かろう。
見える範囲を更地にしても良いのであれば、あの者一人で何とでもする」
月白の返答に、滸は首肯だけを返した。
何時の間に手にしていたのか、大神柱の掌から筮竹が零れ落ちる。
仮令、精霊器一本を与えられただけであろうとも、百鬼夜行程度であれば弓削孤城が敗北する未来を想像できなかったからだ。
武力はもとより、陣楼院の比翼と立てるほどに文に於いても安定した人材だ。
上手く奇鳳院との関係に波風を立てないよう願いつつ、幼い我が子の出立を手伝うべく滸は神楽の後を追った。
TIPS:相性について
作中何度か出てきた精霊器の相性について。
端的に説明するならば、得意が霊気を動かす事か固定かの違いである。
自身の霊脈を基盤として、半ば本能的に組み上げるのが精霊技。
指先に霊気を固定して、空間に術式を記述するのが陰陽術となる。
方向性を得た精霊力は宿る精霊とは別のものと見做されるため、精霊技を行使するためには媒介となる精霊器が必要となる。
対して、陰陽術は空間に直接記述するため、基本的には媒介を必要としない。
作中で晶が呪符を媒介に精霊技を行使したが、これは晶だから可能であって他者ではその限りでは無い。この勘違いをそのままに、他人が真似をしない事を切に願おう。
だって責任なんて取れないもの。
読んでいただきありがとうございます。
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