６話 決着を疑い、思惑に辿れ１
ひゅるり。微風が守備隊本部の広間を捲いた。
――その事実に意識を向けることができたものが、その場に何人いただろうか。
火行の精霊技が満ちるそこで、相克関係にある金行が自在の行使に及べるはずはない。
その常識を覆し、金行の精霊が自然と場を圧する。
陣楼院流精霊技、初伝――。
「凩」
巻き上がる旋風が室内を染め変えて、瘴気に塗れた狗や猫又を天井近くに吊り上げた。
斬りかかろうと右往左往する防人たちが、その異常に唖然と手を止める。
だが構う事なく、弓削孤城は精霊技を繋げた。
陣楼院流精霊技、連技――。
「鳴子渡し」
細長く編まれた精霊技の導火線を伝い、疾風の刃が穢獣の頸を悉くに縊り落とす。
刹那に静まる広間の中央を、家紋を背負った羽織を翻した男が歩んだ。
「見える分を落としただけだ、気を抜かず対処に当たりなさい。
――厳次、大物は感じるか？」
「未だ瘴気は濃い。いないと断じるには心許無いな。
誰が下手人か」
苦く応じるその声に、孤城は肯いを返した。
何処、では無く誰。……つまり、内部に敵がいるという示唆である。
「……同意はするが、本部内に細工されているという事だね？」
「万朶総隊長殿の失態騒ぎに乗じているんだ、無関係を信じるには時機が良すぎるだろう。
謀っていたか止むを得ずか、はさて置くが」
「だろうね。
それに、外が思う以上に静かだ。異変は守備隊本部のみに限定されていると視た。
――ここまで手間を掛けているんだ、狗程度で終わらせるなど無いはずだが」
「その筈だが、……来たか？」
「ああ。だが、この程度ならば先刻と同じだね」
地鳴りと共に足元が揺らいだ。漂う瘴気がその濃度を増し、再び穢獣が地を駆ける。
だが、２度目ともなれば、その場に立つ全員の浮いていた足元も落ち着いたものとなっていた。
本命の襲来を恐れたまま、厳次たちは本部で穢獣相手に白刃を振るい続ける。
異変に気付き応援が到着するまでの２刻余り、この一進一退はじりじりと続けられた。
地下と万朶の執務室から呪符の罠が見つかるまで、この騒動が終わることは無く。
――結局、阿僧祇厳次が警戒していた、本命の襲撃も姿を見せる事は無かった。
――――――――――――――――――――
――深夜、万窮大伽藍。
総てが一通りの終わりを見せた頃、押取り刀で駆け付けた警邏隊に後事を任せた嗣穂と晶は、数刻の後にその足で伽藍へと赴いていた。
顕神降ろしの効果が消えると同時に伽藍へと戻っていた朱華が、晶の姿に綻ぶような大輪の笑顔を向ける。
「晶！ 武勲を一つ、また挙げたのう」
「朱華が手を貸してくれたからですよ」
「くふ。本当の意味で妾が現世に在る事を赦されるのは、晶が望む僅かな間だけじゃ。
故に、それも含めて晶の勲よ。
――そうであろう？ 嗣穂」
話題を振られた嗣穂は、伽藍の隅で緑茶を入れながら微笑みを浮かべた。
「はい。神嘗祭を越えるまで晶さんの大功を公にすることは出来ませんが、実際の評価としては下しています。褒章ならば先にお渡しすることも可能ですが」
「いえ。それは不要です。……それよりも、お訊きしたいことがあります。
あれは、何だったんですか？」
滑瓢。あるいは、そう呼ばれるかもしれない黒衣の怪人について。
その話題から避けて通れないことは覚悟していた。
だが、嗣穂が知っている事は、晶とそう大差が無い。
神器と呼ぶ木彫りの面を幾重にも繰り、他人に成り代わって混乱を生んだ悪意の塊。
……それだけだ。
事実、嗣穂よりも朱華の方が、この件に関しては詳しいくらいだろう。
何しろ、好悪は兎も角、旧知の間柄らしいのだし。
「……あかさま」
「解っておる、滑瓢のことであろ？
と云っても、妾とてそこまで詳しい訳ではない。
何処ぞの外海から流れ着いた客人神、有する象は嘘。
厄介な事にあれはの、嘘を口にできる神柱なのじゃ」
座った晶の膝元で朗らかに微笑んだ朱華の応えに、晶と嗣穂は眉根を寄せて唸った。
神柱は偽りを口にできない。その常識すら裏切る存在に、思考が事実を拒んだのだ。
「嗣穂さま。あれの正体がどうあれ、嘘を口にできるのは事実です。
……俺もそれは目の当たりにしています」
「はい、私も確かに」
神柱は嘘を口にできない。だが、神柱は自身の象に忠実であるのもまた、事実である。
吐けないはずの嘘を吐く。矛盾したその存在は、これまでの常識を裏切りかねない異質であった。
「そうさな。初めて高天原に流れ着いたのは、恐らく千年ほどの昔。
当時の華蓮で幅を利かせ始めていた華族に取り入って、ほぼ一代で権力の頂点へと伸し上がらせた。
……その後、積み木を崩すように華族を墜とし、身一つで逃げるそれを瘴気溜まりに沈めた。其方たちも知っておる、沓名ヶ原の怪異を作った首魁があれじゃ」
「初耳ですが」
「奴が何処まで関与しているのか、一切が不明故の。記録にも、破滅した華族が首魁としか記せておらん。
人間にぬるりと這い寄り、容易く他人となり替わる化生。
本来の見た目が瓢箪か鯰に見えたとかで、滑瓢と名付ける。書けたのは僅かにそれだけであったな」
「……そもそも、神柱が現世に顕現している時点で異常ですが」
「稀にではあるが、前例が無い訳ではない。
何らかの理由で悪神と断じられた神柱が、支配していた龍穴を追われることがある。
龍脈の供給が断たれて、神霊まで自身の格を落とす。神代契約の穴を突いて現世に受肉したものが、客人神と呼ばれる神柱となる。
……あれも、元はそういった経緯を辿ったのであろうさ」
差し出された緑茶を口に含み、熱さからか真顔で朱華が舌を出す。
晶も倣って口に含む。芳醇な香りを含んだ熱が、疲労を訴える舌へと沁みてくれた。
「実のところ正体が不明ではあろうと、余り気にしていなかったというのが妾たちの本音じゃ。
――何しろ彼奴目は、嘗て妾の目の前で確かに浄滅したのじゃから」
「目の前で、ですか？」
「然様。当時の神無の御坐が顕神降ろしを行使して、寂炎雅燿の神域特性で灼き断った。
散々に手古摺らせた挙句が随分と素直に浄滅してくれたと疑ってはいたが、証拠も無いのでな。その内に決着と結論付けた」
朱華の言葉に、晶と嗣穂は素早く視線を交わした。
手古摺った挙句、素直な浄滅。今回の件と非常によく似ている。
「どういう手段か判らないという事は、今回も同じ手段で逃げられた可能性が在るという事ですか？」
「いいや、今回は更に念を入れた。
妾の神域に深く沈めて、彼奴目が気付かぬうちに晶との縁も結んでおいた。
それが切れた今、滑瓢に生きている道理は無かろう」
「ならば良いのですが……」
神柱の断言を受けて、嗣穂は漸く肩の力を抜いた。
縁を結んで引き寄せる。神柱が施した呪いの罠は、何処に逃げようとも逃げる事は適わないからだ。
――だが嗣穂とは裏腹に、晶が難しい表情を崩すことは無かった。
「疑問は他にもあります。
神父が持っていたあの面は、本当に神器なのですか？」
「……それは間違いないでしょう。
一見、木彫りですが、現世のものでは有り得ない強度。奧伝の熱量に耐えきれる物質など、寡聞にしても聴いたことがありません」
「確かに頑丈でしたが、結局は壊れました。
これは、有り得ることなのでしょうか」
晶の指摘に、嗣穂の眼差しが思慮に耽る。
神器が持つ不壊の特性を超えるなど、それこそ神殺しの逸話を有した神域特性でもない限り不可能だ。
その応えは、晶の膝に座る朱華から差し挟まれた。
「――不可能ではない。
陽気の極致たる妾の象徴は、浄化。死と再生の端境を有している。
特に、晶の振るった落陽柘榴の神域特性は、神殺しが為の矛盾の刃よ。
あれならば、神器を破壊することもできよう」
「……面に罅を入れた時に使っていたのは精霊器でした」
「では、神器では無かったか？」
首を傾げる朱華に、嗣穂が首を横に振る。
「滑瓢が嘘を吐けるのは確かですが、他人と入れ替わるだけでなく、万朶は鎧蜈蚣へと変生までさせられていました。
流石にあれほどの権能となれば、神器でないと説明がつきません」
「万朶が鎧蜈蚣？ あれ、人間だったんですか！？」
嗣穂の指摘に、晶が瞠目する。
滑瓢が鎧蜈蚣に対して万朶と呼び掛けていたことを、今更ながらに晶は思い出した。
あの時は気にも留めなかったが、そうであるならば色々と辻褄が合う。
「私が見た頃にはもう、万朶は半ば化生に堕ちていました。
あの様子では意識も無かったでしょう」
「神器である事は間違いない。されど破壊もできる、じゃの？
――為らば、可能性は一つじゃ」
嗣穂の断言を受けて、朱華が口元を綻ばせた。
何時の間にか手にした朱塗りの盃に変若水を満たし、甘く華やぐ芳香で伽藍を満たす。
「神器とは、神柱の玉体や逸話を鍛造したものじゃ。……故に神器も、逸話が背負った宿業を辿ると定められておる。
神殺しに依らず神器を破壊できたという事は、そのものが辿る逸話に破壊が宿命付けられているという事であろうさ」
「壊れる宿業を得た神器も有る、という事ですね。
何故、不完全とも云えるような神器を鍛造したのでしょう？」
「さて？ それこそ、彼奴目に訊かねば分らぬさ。浄滅した今となっては叶わぬが」
「……いいえ。
恐らくですが、滑瓢は生きています」
朱華の結論は、晶によって否定された。
深刻な表情を浮かべた晶に、驚いた嗣穂と朱華の視線が集中する。
「晶の意見ぞ。尊重はしたいが、無理があろう。
彼奴目の存在は、結んだ縁ごと其方が斬り祓った。
跡には何も残っておらん。それは、妾も確認している」
「はい。それは確かに」
朱華の言葉を、憂う表情のまま晶は肯った。
「……ですが、万朶は肉体ごと鎧蜈蚣に変わりましたし、神父が奴の素顔であると確信はできませんでした。
滑瓢はあの面の権能を演じるものと口にしていましたが、もしかすると演じる範疇が本人と入れ替わるほどなのかも」
「あかさまが結ばれた縁の縛りを、他人に擦り付けて遁走したという事ですか！」
晶の指摘に、嗣穂は驚愕の表情を浮かべた。
行使が卓越していたため誤魔化されていたが、確かに演じる権能など神器としてもやや地味に過ぎる。
鬼種に限定されているとはいえ、身体強化を際限なく上げていく百鬼丸の方が、権能としたら余程にらしい。
神柱の結んだ縁を騙せる程だというならば、取り敢えずの納得もできよう。
嘘を象とする神柱。他者と自身を挿げ替えるほどの壊せる神器。異形の神柱は、一体、何を狙ってこの騒動を起こしたのか。
「奴は百鬼夜行を起こすと云っていました。
ですが守備隊本部を襲ったのは穢獣でしかなく、大物は鎧蜈蚣と大鬼のみ。
俺が知っている百鬼夜行は沓名ヶ原の怪異の一例のみですが、それを除いても随分と寂しい騒動でしかない」
「ええ、確かに。
百鬼夜行と口にしていましたが、本来の百鬼夜行とは規模がまるで違います」
晶の疑問に、嗣穂の眼差しが思考に沈んだ。
晶にとって今回起きた騒動は、山狩りに思わぬ大物が釣れたという範疇でしかない。
化生は脅威だが、それだけで穢レの暴走と断じるには無理があった。
「朱華に目を付けられるのは、予定通りだと奴は口にしていました。であるならば、奴の本命は珠門洲ではない可能性が高い。
――残り４洲の何れかで、奴は本当の夜行を起こすはずです」
「ふむ。何処で付け火を仕出かすと」
「何処か、までは判りませんが」
「――いいや。妾の神託を掻い潜った手管から想像はつく」
愉し気に晶から身体を離し、朱華は立ち上がる。
「神託は結果を得てから、過程を辿る。つまり、結果が珠門洲に無ければ、神託の出しようがない。
だが既に奴は、幾つかの洲で百鬼夜行の過程を作っておる」
「手を出していない洲を探せば、百鬼夜行を企図する場所が絞られるという訳ですね」
言葉の後を継いだ嗣穂に肯いを返し、朱華は上座へと戻った。
「華蓮に侵入ってくるならば、南葉根の木行」
「……先日、第8守備隊は鎧蜈蚣を討滅しました。
万朶の件もありますし、奴が干渉した可能性は高いかと」
「鎧蜈蚣は水行。であるならば、調達先である國天洲も除外できる」
「ですが、水行の化生は本来、木行の南葉根を渡ることは出来ません」
嗣穂が晶たちの推測にある粗を指摘する。
五行運行。世界を支えるこの法則は、絶対に裏切ることができない。
穢レや神柱であるならば尚更だ。
「――南葉根の龍脈を、金行の龍脈で弱めたのでしょう」
推測に詰まる晶たちを、脇から掛けられた言葉が補った。
驚く晶がむけた視線の先で、疲れた表情の奇鳳院紫苑が伽藍へと足を踏み入れる。
「陰陽師たちからの報告で、南葉根の龍脈から入る木行の気配が随分と弱まっていると。
自然でも前例が無い訳ではありませんが、今回の事態で調査が必要になりました」
「……南葉根に金行が繋がっているとは、初耳ですが」
嗣穂の驚きに、紫苑が肯いを返した。
「小さいですからね、これまでは特に問題ともしていませんでした。ですが、伯道洲の東端が南葉根の龍脈と合流していたはずです。
……その何れかで細工されたのでしょう」
嗣穂から差し出された緑茶を口に含んで、紫苑は腰を下ろす。
「波国での手管と云い、どうやら相手は龍脈を弄る手段を好むようですね」
「うむ。これで伯道洲も除外できる。
ならば結論は残り一つ、奴の狙いは央洲にある龍脈の鼎じゃ」
「金行で龍脈を弱め、水行で焚き付け。木行で導火線を結い、火行で騒動の狼煙を上げる。
総ては五行を巡り、最後の土行を狙うがため、ですか。
五行総てを巡礼までして、たかが百鬼夜行で終わるのでしょうか」
「終わらぬよ。滑瓢にとっては、百鬼夜行も手段であろう。
……龍穴を放逐われた神柱の望みは常に一つ。新たな龍穴を得て、元の頂に返り咲くことしかない」
旋風が一陣、伽藍を渡って過ぎていった。雨も止み、肌寒さを覚える濡れた秋の芳香が、晶たちの鼻腔を擽る。
「征くしかありませんね。央洲で百鬼夜行を起こすというならば、助力に向かわないと」
暫しの沈黙の後、晶が口にした決意にその場にいる全員が首肯した。
五行運行の基点たる龍穴を奪おうとする滑瓢の悪行を白日に晒した今、晶の行動を止める者はいない。
華蓮を。そして珠門洲さえ出て、自身の意思を示す。
本当の意味で、晶が己の意思で立とうとした瞬間であった。
読んでいただきありがとうございます。
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本年度はお世話になりました。
ここまで来れたのは、偏に皆様の支持あっての事です。
広がっていく晶の世界を、どうか楽しんでいただければと思います。
来年もよろしくお願いします。
安田のら
